第三十三話 不死の陥穽
法神教の最高指導者にして聖王国カリタスの最高責任者、教皇ノア・カーネリアス。
彼女について世評は実にかまびすしい。
いわく、神童。いわく、麒麟児。いわく、愛し子。
そして――いわく、隻眼の神子。
もともと、ノアは聖王国の生まれではなく、東の隣国アドアステラの生まれだった。パラディース、アズライトに並ぶ帝国屈指の大貴族カーネリアス家の嫡女。
ノアの父は枢機卿として帝国内の祭事を一手に取り仕切っており、その権勢と影響力は時の教皇すら上回るものだった。
そんな父の子として生まれたノアは、当然のように法神教に帰依し、敬虔な信徒としての道を歩むことになる。
ただ、この時期のノアは真面目で熱心な信徒ではあったが、衆目を驚かすような異才をきらめかすことはなく、いってしまえばごくごく平凡な子供にすぎなかった。
その評価が一変したのは、ノアが六歳のときである。
その年、父と共に聖王国におもむいたノアは、神の啓示を受けたと称して自らの左眼をくりぬき、聖壇に捧げるという挙に出る。当然のように周囲は大騒ぎになったが、不思議なことにノアは傷らしい傷を負っておらず、傷口は高位の神聖魔法を受けたかのように完璧に治癒していた。
この出来事以後、ノアは神聖魔法に目覚め、そのすさまじい効果は数多の先達を軽々と凌駕するものだった。ノアが神童と呼ばれるようになったのはこのときからである。
それから数年。史上最年少の神官、史上最年少の司祭、史上最年少の司教、史上最年少の枢機卿、と次々に最年少記録を更新したノアは、とうとう史上最年少の教皇として、法の神殿と聖王国、二つの組織の頂点に君臨する身となった。
むろんというべきか、この階梯を昇る速さは空前のもので、おそらくは絶後のものでもある。教団の内外で異論を唱える者は少なくなかった。ただ、賛同の声はそれ以上に――すべての異論を封殺してあまりあるほどに巨大だった。
その賛同の根拠となったのが、ノアが打ち立てた数々の功績である。ことに三度にわたる不死の王の討伐は、数ある功績の中でも白眉となる偉業といえた。
アンデッドモンスターは生命の理から外れた存在であり、頭や心臓を貫いただけでは死なない。亡霊系の魔物にいたっては身体さえない。
彼らはその倒しにくさゆえに不死の名を冠しており、滅ぼすには神官の神聖魔法か、魔術師の攻撃魔法か、精霊使いの精霊魔法か、あるいはそれらの力を宿した武具が必要になる。
だが、アンデッドモンスターの頂点に位置する不死の王の場合、これらの方法さえ通じるとは言い難い。
滅ぼせないわけではない。ただ、ほとんどの不死の王は本体を幽世と呼ばれる霊域においており、現世にあらわれる身体は影でしかない。どれだけ影を滅ぼしても本体は健在なのだ。
一度影を滅ぼされた不死の王は、再び地上にあらわれるまで幾ばくかの時間と準備を必要とする。そのため、影を滅ぼすことに意味がないわけではない。ただ、それをもって不死の王を滅ぼせたのかと問われれば、答えは否であろう。
不死の魔物を超えた不滅の怪物、不死の王。
これを撃滅するにはみずから霊域におもむく必要がある。むろん、簡単なことではなく、それだけで死を覚悟しなければならない難行だ。しかもこの難行に成功したとしても必ず不死の王を討伐できるわけではない。
肉体なき幽世における戦いは魂の削り合い。人の身で不死の王をしとめる困難さは言をまたない。
その困難を三度にわたって成し遂げたノア・カーネリアスが、教団の内外を問わず尊敬と崇拝を集めるのは、むしろ当然すぎるほど当然のことであった。
――そして、そんなノアだからこそ眼前の光景の異常さがよくわかる。
――たった一人の剣士が不死の王を滅ぼしていく、その異常さが。
『ぐ、ぎ――馬鹿な』
錆びた鉄同士をこすり合わせるような不快な声でシャラモンはうめく。もしシャラモンが生身の身体を持っていたら、ひどく顔を歪めていたであろう。
『何故、斬れる。何故、斬られる。この身は影。影を斬ったところで身体は傷つかぬ道理。それが、何故』
そう言うシャラモンの動きはひどく鈍い。それも当然のことで、シャラモンの身体は左の肩から右の腰にかけて深々と刀傷が刻み込まれている。
初撃で脳天を割られた傷はすでに跡形もないのに、その傷はいつまで経っても消える気配がない。
それも道理。その傷はシャラモン本体に刻まれたものが投影された傷であったから。
『幽世に届く刃。幽現の理を斬る剣。馬鹿な。そんなものが』
そんなものがあると知っていたら、むざむざ食らいはしなかった。シャラモンはうめく。
脳天を割られた初撃はたしかに魔力が込められていたが、シャラモンにとっては何の痛痒も感じない攻撃だった。だから、二撃目を警戒する必要も認めなかった。
もし相手が不死の王を傷つける手段を持っているのなら、完璧な奇襲だった一撃目にそれを用いない理由がない。これだけの破壊をまきちらしたシャラモンを相手に、余力を残して事にあたるような愚か者がいるはずはない。
それが論理的な思考というものだ。
だというのに、敵が繰り出した二撃目はたしかにシャラモンの本体を捉えていた。捉えて、容赦なく斬り裂いていた。シャラモンが滅びを覚悟しなければならないほどに、それは致命的な一撃だった。
今、シャラモンの脳裏にあるのは怒りである。滅ぼされようとしている怒りではない。論理的ならざる相手の行動に怒りを禁じえないのだ。
――こんな……こんな武器を持っているのなら、どうして初撃で使わなかったのだ!? それをしていれば、この身はすでに滅びていたというのに!
その疑問に対し、相手の剣士はかすかに眉根を寄せただけで答えなかった。無言で黒刀を振りかぶり、振り下ろす。
鮮血色に輝く切っ先が視界いっぱいに広がった瞬間、シャラモンの脳裏をよぎったのは過去の夜会の光景だった。
「――シャラモン。君、さっきの話、聞いていなかっただろ?」
その日の夜会が終わった後、声をかけてきた小柄な影。それは夜会において二人しかいないシャラモンの上位者の一人だった。
つけくわえれば、一癖も二癖もある不死の王たちに夜会の結成を呼び掛け、実現にこぎつけた人物でもある。
『聞く価値のある話には耳を傾ける。そうでなければ傾けない。当然のことよ』
応じるシャラモンの声にかしこまる気配はない。上位者といっても服従の義務があるわけではないのだ。
ただ、シャラモンはこの相手に一定の敬意は向けており、だからこそ足を止めて呼びかけに応じた。他の不死の王が相手であれば、振り向きもせずにさっさと立ち去っていただろう。
「聞く価値がないかな? 僕としては十分に有用な話だと思ったから皆に伝えたのだけど」
『帝国を相手にする際には島の護人に注意せよ――いまだ現世に身体を留めている者どもにとっては有用な話かもしれぬ。汝のようにな。だが、我にとっては無用の話。幽世にある我が身を傷つけられる者など存在せぬ』
手練の戦士も、高徳の神官も、偉大な魔法使いもシャラモンを滅ぼすことはできない。鬼門の護人であっても同じこと。そんな相手を警戒する必要がどこにあろうか。
「ノア教皇のような例外もいるだろう?」
『笑止』
人間たちは三体の不死の王を滅ぼした教皇ノアを称え、教皇の前には不死の王さえ無力であると考えているようだが、シャラモンからすれば滑稽な話である。
教皇が滅ぼしたモノたちとシャラモンでは格が違う。たとえ教皇が幽世で戦いを挑んで来ようとも必ず勝てる。いずれ彼奴に身の程を思い知らせてくれよう――そんなことを考えながら、シャラモンは言葉を続けた。
『人間どものことなどどうでもよい。それより、汝はまだ幽世に来ぬのか』
「今のところ、そのつもりはないね。これから先もその気になることはないと思う」
『永遠を欲さぬのなら、何故に不死の王になった』
「違うよ、シャラモン。僕は永遠を欲していないわけじゃない。永遠は欲している。ただ、それとおなじくらい恐れを失いたくないだけさ」
だから、幽世に身を移すことはない。
その言葉にシャラモンはわずかに戸惑いをのぞかせた。
『恐れ』
「恐れを失ったモノがどうなるのか、それは今の君が体現している。シャラモン、確かに昨日の世界に僕らの敵はいなかった。今日の世界にもいないだろう。でも、明日の世界もそうであるとはかぎらない。恐れとは、つまりその視点のことさ」
そう言うと、相手は何かを憂うようにかすかに目を細めた。
そして、ゆっくりと口をひらく。
「気をつけなよ、シャラモン。何者も恐れない君は何者も見ようとしない。その驕りは、いつか君を破滅に導くかもしれない」
『それは予言か』
「忠告だよ。志は違えど、同じ永遠を歩む同胞へのね」
その会話を交わしたのは何日前だったか。何か月前だったか。何年前だったか。
教皇の名が出た以上、何十年も前ということはありえないのだが。
――それが不死の王シャラモンの最後の思考となった。