第三十二話 しくじり
教皇を葬ろうとして放たれたシャラモンの魔法は、その余波だけでティティスの一画を焦土に変えた。
それだけの破壊がまき散らされたのだ、異変は当然のように森の外にまで及んでいた。
鳴り響く轟音、立ちのぼる粉塵、揺れ動く地面。幻想種の再来を予感させる天変地異に遭遇した第四防壁は、直前の黒屍鬼の襲撃とあいまって騒然とする。
空はその混乱を背に森に踏み込んだ。シールとスズメはもちろん、藍色翼獣をも残して。
本来、一国を飲み込むほどに巨大なティティスの森の中で、十人足らずの集団を探し出すのは至難の業である。
だが、このとき空はまったく迷わずにミロスラフたちのもとにたどり着いている。シャラモンが放つ魔法の余波がそれを可能にした。
ゆえに空は敵を指して言った。間抜け、と。
そして――
勁を帯びた黒刀が真っ二つにシャラモンを斬り下げるや、どういう作用によるものか、シャラモンの紫紺のローブが細かな切れ端となって四散した。
ローブの下からあらわれたのは一体の骸骨である。外観だけを見ればスケルトンと大差ない姿。
脳天から股下まで両断された骸骨の身体がゆっくりと左右に分かれていく。同時に、聖霊璧を打ち砕かんとしていた魔力の奔流も消失した。
それらを確認した空が、シャラモンに背を向けてミロスラフたちに声をかけようとしたときだった。
「――ッ、マスター!!」
ミロスラフとルナマリアが異口同音に叫ぶ。それは窮地を救われた喜びの声ではなく、背後への警戒をうながす声だった。
二人の視線の先で、左右に分かたれていた骸骨の身体が時計を逆回りさせたように元に戻っていく。
『間抜けは貴様よ、道化』
嘲笑と共にシャラモンの手刀が雷光のごとく突き出された。そのまま心臓を貫くことも、あるいは、敵の体内に直接魔力を送り込んで破裂させることもできる凶手。
刃物のように鋭く尖った骨指は、しかし、空の身体を捉えることはできなかった。
『ぬ』
不意にシャラモンの視界の中で空の姿が霞んだ――そう思った次の瞬間、シャラモンはソラと正対していた。今の今まで確かに背を向けていた相手と正面から向き合っていたのである。
素早く反転した。
ソラのやったことを言葉にすれば、ただそれだけ。しかし、単純な体さばきで不死の王たるシャラモンの反応速度を上回ることは不可能だ。
ソラが用いたのは幻想一刀流において燕返しと呼ばれる歩法だった。刀術ではなく歩法のそれは、勁を用いて素早く反転する技術。戦闘において背後をとられたときに重宝するが、異なる使い方もできる。
たとえば、わざと背を見せて敵を誘い込む場合などに。
「幻葬一刀流――河炎」
満を持して放たれた炎の勁技が奔流となってシャラモンを襲う。
一瞬だった。炎は目と鼻の先にいた不死の王を瞬く間に飲み込むと、吠えるような音をたてて地表を走っていく。シャラモンの魔法で周囲の森が焼き尽くされていなければ、間違いなく大規模な火災を引き起こしていただろう。
勁技が終わった後、その場に残ったのは空とミロスラフたちを除けば、焼け焦げた大地と極度に熱された空気だけ。不用意に呼吸すれば、それだけで肺が焼けるような灼熱の中、空はミロスラフたちを守るように毅然とその場に立っていた。
と、構えを崩さずにシャラモンが消えた方角を見据えていた空の口から小さなつぶやきが漏れた。
「幽鬼の類なら火が効くはずだが……しくじったな」
そう言うと、空は己の武器に目を落とした。
今、空が握っているのは心装ではなく普段使いの黒刀である。心装であれば、斬った敵から流入する魂の多寡である程度のことは――少なくとも攻撃が効いたか否かくらいは――わかるのだが、この黒刀ではそうもいかない。
そもそも、あらかじめ心装を抜いておけば最初の一刀で勝負は決していた。それを思ってソラは「しくじった」と言ったのである。
ソラが心装を抜かなかった理由は二つ。
はじめに第四防壁で黒屍鬼の襲撃を受けたときは、多数の守備兵の前で心装を出す不利益を考えて抜かなかった。黒屍鬼ごときに奥の手を出すまでもない、という思いもあった。
今の空のレベルは『30』。それもただの『30』でないことは繰り返し述べてきたとおりで、心装を抜かずとも、武器に勁を込めるだけで大半のアンデッドを一撃で葬ることができる。
実際、第四防壁を襲った黒屍鬼は苦もなく撃退している。
その後、ティティスの森に踏み込んだ際に心装を抜かなかった理由だが、これは単純に気が急いていたからである。尋常ならざる破壊音を聞いた段階で、敵がただの死霊魔術師ではないことを予測して備えておくべきだったのに、そうしなかった。
なぜ、あんなにも慌ててしまったのか。自問しながら、空はちらと後ろを見やる。光り輝く円柱形の壁に守られた十名あまりの集団。その中に見覚えのある二人の姿を認めた空の口から小さな吐息がこぼれた。
そして。
「心装励起――喰らい尽くせ、ソウルイーター」
今度こそ己の切り札をしっかりと抜き放った。
「古人いわく、過ちを改めざる、これを過ちという。つまり、一回目は仕方ないということだ、うん」
そんな風に自分のしくじりを正当化しながら、空は何気ない動作で剣を振るう。はたから見れば、何もない空間をたわむれに斬ったとしか思えなかっただろう。
だが、心装の切っ先は彼方から放たれた光弾を的確にとらえていた。本来はあたり一帯を爆砕させる破壊力を秘めた不死の王の魔法が、溶けるように宙に消えていく。
その後、幾十と続く光弾すべてを撫で切った空の前に再びシャラモンが姿をあらわした。あいかわらず姿形は髑髏のままだったが、その身体から発される圧力は先刻とは比較にならぬ。
眼球なき視線は針のように鋭くとがり、空の双眸を見据えていた。
『道化。貴様、何者だ? 聖騎士かと思うたが……その力、その魔力、聖職者のものではあるまい』
「お前が今しがた殺そうとした連中の主人だよ。それ以上を知る必要はないさ、間抜け殿」
不死の王の詰問に、竜殺しが嘲弄で応じる。
激突に至るまでにかかった時間は、秒に満たなかった。