第三十話 ティティスの戦い
「『我が敵に死の抱擁を――火炎姫!』」
ミロスラフが魔法を解き放つと同時に、女性の腕を思わせる炎の帯が宙を駆けた。それらは狙い過たずに標的をからめとり、猛火で敵をなめつくしていく。
敵――ティティスの森に突如出現したアンデッドモンスター、黒屍鬼。
不死の魔物の中でもきわめて厄介な存在として知られる種である。個としての戦闘力もさることながら、高位の死霊魔術師が好んで彼らを使役することがその理由となっている。
ミロスラフはちらと周囲に視線を向けた。このあたりは間もなく深域にさしかかろうかという場所で、つまりはまだ外周部である。ヒュドラ出現の余波で深域の魔獣が襲ってくるならともかく、大量の黒屍鬼が出現するのは明らかに不自然だった。
不自然といえば、前触れなくおこなわれた襲撃もそうである。気づいたときにはミロスラフとルナマリア、それに聖王国の先遣隊は完全に包囲されていた。何者かの罠にはまったことは火を見るより明らかであろう。
周囲ではミロスラフたちと同じように先遣隊も激しい戦いを繰り広げている。押し寄せる黒屍鬼を、あるいは斬り、あるいは浄化して、不浄の怪物を地に還していく戦いぶりは精鋭と呼ぶに相応しかったが、いかんせん、ルナマリアとミロスラフを足しても十に届かない人数では防戦するにも限界がある。
このままではいずれ力つきる。そうなる前に包囲の一角を破って森を出るべきだ、とミロスラフは考えていた。
そして、ミロスラフとまったく同じことを考えている者が他にもいた。
「魔術師殿」
声をかけてきたのはミロスラフの近くで戦っていた先遣隊の一人である。唯一の女性神官でもあった。
長い亜麻色の髪に翠色の瞳、そして白磁の肌。年のころは十五、六と思われるが、雰囲気が大人びているだけで実際はもっと年下かもしれない。
端正な容姿は名工の手になる彫刻のようで、同性の目から見ても美しいとしか言いようがない。ミロスラフも自分の容姿に自信がある方だが、この少女と競う気にはとうていなれない。あまりに整いすぎた美貌は、どこか非人間的でさえあった。ときおり翠眼に走る硬質の光がその印象を強めている。
ただ、うち続く戦闘で頬に血をのぼらせた今の少女は、平時よりもずっと人としての温かみを感じさせた。
ミロスラフとルナマリアがティティスの森の案内役を引き受けたおり、先遣隊の指揮官だと紹介されたのは壮年の教会騎士だったが、ミロスラフはこの少女こそ指揮官であろうと推測している。まわりの神官や教会騎士が、しばしば傅くような態度をとっていることがその理由だった。
そんなミロスラフの内心を知る由もなく、少女は表情を引き締めて言葉を続ける。
「後方に戦力を集中させて包囲を抜けます。あなたと賢者殿は私のそばに。先鋒と殿は私どもが務めますので、遅れないようについてきてください」
と、ここで少女が申し訳なさそうに肩を縮めた。
「申し訳ありません、お二人を巻き込んでしまいました」
「……そのお言葉から推測するに、襲撃者に心当たりがおありのようですわね」
「はい。これだけの数の不浄の魔物を使役できる存在は限られておりますから」
言うや、少女は前方の黒屍鬼めがけて右手を突き出し、気合の声をあげた。すると、その黒屍鬼はもとより、後方にいた個体までが煽りを食って吹き飛ばされる。
少女が使ったのは、法神、戦神、大地母神を問わず、神官たちが扱う初歩の神聖魔法である。が、集中も聖句もなしに複数の黒屍鬼を吹き飛ばすなど、神官はおろか司祭級の聖職者であっても難しい。
何者だ、という疑惑が湧くのは当然だった。そして、ミロスラフには心当たりがないでもなかった。
ただ、今は相手の素性を詮索している場合ではない。脳裏をよぎる推測に蓋をして、あらためて黒屍鬼の群れと向かい合う。こんなところでアンデッドの手にかかって果てるつもりは毛頭なかった。
後方を突っ切って森を抜けるという少女の策はミロスラフのそれと一致する。ミロスラフたちを危険の少ない中央に配置したのは、二人を戦闘に参加させると部隊の連携がとりづらくなるからであろう。
魔法使いとの連携のずれは、味方に甚大な被害をもたらす恐れがある。少女が危惧するのも当然だった。
ミロスラフにしても、昨日今日顔をあわせたばかりの者たちとうまく連携をとる自信はないので、相手の決定に異を唱えるつもりはない。
ただ、窮地にあって、すべてを他人まかせにするつもりもなかった。自分ひとりのことであればそれでもかまわないが、今のミロスラフは『血煙の剣』の看板を背負っている身。他者におんぶにだっこで危険を切り抜ける冒険者など恥さらし以外の何物でもない。
――竜殺しの配下が、そんな恥をさらしていいわけがないのだ。
「委細承知しました。ただ、初撃はこちらがうけたまわります。想定外の事態とはいえ、依頼の最中に逃げ隠れするだけでは盟主に叱られてしまいますので」
ミロスラフの言葉に少女は何か言い返そうとしたようだが、魔術師の双眸を見て何事かを感じ取ったらしい。口をつぐみ、こくりとうなずきを返した。
「お願いします」
少女の返答をうけて、ミロスラフは勢いよく口をひらく。
「ルナ!」
「はい!」
元パーティメンバーらしい阿吽の呼吸でルナマリアが長弓をかまえる。
直後、続けざまに弓弦が鳴り響き、押し寄せてくる黒屍鬼を次々に射抜いていった。不死の魔物、しかも鉄のように硬い外皮を持つ黒屍鬼に弓矢は効きづらいが、ルナマリアは矢に炎の精霊をまとわせることで敵に効果的な打撃を与えることに成功していた。
これまでミロスラフとルナマリアの二人が押しとどめていた群れが猛射によって足を止める。
そうしてルナマリアが時を稼ぐ間に、ミロスラフは退路となる方向に目を向け、新たな詠唱にとりかかっていた。
「『小さきもの、赤き異端者、図南の翼を張らんと欲す』」
それは新たに修得した第六圏の火魔法だった。
本来、森での炎の魔法は禁じ手である。術者が火に巻かれるかもしれず、そうでなくとも大規模な火災につながりかねない。
ミロスラフはそのことをわきまえていたが、数さえ知れぬ黒屍鬼を前にしては禁じ手といえど用いざるをえなかった。手札を温存して切り抜けられる状況ではない。
「『炎々たる吐息、赫々たる翼、蓮の花弁は深紅で染まる』」
アンデッドモンスター特有の饐えた臭いに鼻孔を犯されつつ、ミロスラフは呪文をつむいでいく。素早く、それでいて緻密に。
周囲の魔力が驚くべき勢いでミロスラフの元に集まっていく。
「『いざや開かん、朱の大門。いざや倒さん、南蛮百獣』」
魔法の威力は集めた魔力の質と量に比例する。もともとミロスラフはこの技量に秀でており、だからこそ若くして名を馳せることができた。
今のミロスラフはその長所をさらに高め、研ぎ澄ませている。半年前に比べると別人の観さえあった。
「『緋翼絢爛。その羽ばたきは降魔の調べ――朱雀!』」
そうして発動した火の正魔法は、無数の小鳥が羽ばたくように術者の手を離れ、澄んだ飛翔音を響かせながら黒屍鬼の群れへと殺到した。
生み出された炎鳥の数は優に三十を超える。それらが黒屍鬼に激突するや、強い衝撃と爆発が不死者の群れを襲った。膨れあがった猛火が次々に黒屍鬼を火だるまにかえていく。
包囲の一角にはっきりと穴があいた瞬間、少女の号令が響き渡った。
「突撃!」
号令に応じて三人の教会騎士が敵のただ中に躍りこむ。彼らはミロスラフがあけた穴を瞬く間に拡大し、後続を差し招いた。
応じて少女とミロスラフ、ルナマリアが、さらにその背後を守るように神官や残りの教会騎士が続く。
黒屍鬼はこの動きを阻止しようとしたが、立て続けに炸裂する神聖魔法がその動きを阻んだ。神官と教会騎士とを問わず、先遣隊を構成する者たちがいずれも高位の使い手であることは、この一事からも明らかだった。
こうして、一行がそのまま逃走に成功するかと思われた、そのとき。
『――やはり、亡者では足止めが精々か』
ひどく耳障りな声が、その場にいる者たちの鼓膜を震わせた。
したたり落ちるほどの悪意が込められた濁声を聞いた途端、ミロスラフはその場で足を止めた。これ以上進めば命がない、と本能が警鐘を鳴らしている。
強烈な悪寒と底冷えのする冷気。耐えがたいほどに悪臭が高まり、肌が粟立っていく。
気が付けば、ミロスラフの視線の先に『それ』は立っていた。紫色のボロ布で全身を覆った髑髏の魔物。外見だけを見ればスケルトンに似ているが、眼前の魔物からあふれ出ている魔力の濃密さは、ミロスラフを十人足し合わせても及ぶものではない。
そんな化け物が下級のアンデッドであるはずがない。では何なのか。
魔物はみずからその答えを口にした――もう一つの事実を添えて。
『不死の王シャラモン、参上した。その命を我に捧げよ、教皇ノア』