第十一話 暗号
「はい、そこまで」
そう言ってアヤカが俺とラグナの間に割って入ってきたとき、俺は反射的に眉根を寄せた。
速い、と思ったのだ。一つ前のラグナの動きは捉えていたが、今のアヤカの動きは捉えきれなかった。
舞姫はこの五年の間、さらに速さに磨きをかけたようである。
そんなことを考えていると、後ろからアヤカの声が聞こえてきた。と言っても、俺に向けたものではなく、ラグナに向けたものである。
「ラグナ、刀を納めて」
「離せ、アヤカ。こいつは旗士たる身を侮辱したのだ。報いをくれてやる必要がある」
「だからって抜刀はやりすぎよ。五年ぶりの兄弟喧嘩に口を出す気はなかったけれど、殺し合いをするつもりなら止めさせてもらいます」
「戯言を。俺に兄などいない」
吐き捨てるようなラグナの声。だが、その声に反して、俺が握っていた心装の刃はみるみるうちに熱を失っていき、一瞬後、溶けるように宙に消えた。ラグナがアヤカの言葉に従って心装を納めたのである。
ラグナがあのまま抜刀していたら、いつぞやのゴズのごとく心装をへし折ってやるつもりでいたのに当てが外れた。
アヤカの行動がそこまで読んでのことかはわからないが、結果として、うまいこと気組みを外された感がある。
消化不良の感情をもてあましながら、俺はラグナとアヤカの二人に向き直った。
かつての弟と許婚、特に後者に視線を向ける。それに応じるように向こうも俺に視線を向けてきた。形の良い桜色の唇が動き、アヤカが何事かを口にしかける。
と、アヤカに向けられた俺の視線を忌むように、ラグナが一歩前に進み出てきた。俺とアヤカの間に立ちふさがり、険しい顔で口をひらく。
「空、貴様は――」
ラグナが激しい語調で盛んにしゃべりたててくる。だが、その声は音として耳を震わすだけで、意味のある言葉として脳に届くことはなかった。
というのも、俺の注意はラグナの後ろにいるアヤカに集中していたからである。
一見したところ、アヤカはラグナに会話の主導権を委ね、大人しくしている。だが、目の動き、口の動き、額にかかった髪を払う手の動き、そういったものが一つの法則に基づいて意味を紡いでいることに、この場で俺だけが気づいていた。
俺とアヤカは幼いころからの遊び仲間だった。許婚という立場も手伝って二人で行動することも多く、互いに男女の別を意識するまでは無二の親友といってもよかっただろう。
二人で色々なことをしたものである。
先にゴズの甥であるイブキが口にしていた蛇王剣、あれなども俺とアヤカが二人で編み出した技である。他にも二人だけが知る秘密の抜け道だとか、秘密の基地だとか、そういったものはたくさんあった。
子供心に「二人だけの秘密を共有する」ことが楽しくて仕方なかったのだ。
そして、その中のひとつに「二人だけがわかる暗号」もあった。
もちろん、子供が考えた暗号だから複雑な内容を伝えることはできない。だが、この手のことに凝り性だったアヤカが無駄に張り切った結果、短い内容ならば、やたらと鋭い周囲の大人たちに気づかれることなく伝えられる暗号が完成した。
アヤカは今、それを使っているのである。
むろん、幼少時代の記憶を突かれたからといって絆されたりはしない。もしアヤカが自分のことを伝えてきたのなら、俺は冷笑して無視しただろう。
だが、アヤカが伝えてきた内容はアヤカ自身に関することではなかった。そして、島のことなど知ったことではないと無視を決め込める内容でもなかった。
どうやらかつての許婚は、いまだに俺の勘所をしっかりおさえているらしい。
その事実に自然と舌打ちが漏れた。
◆◆
「――捕らえますか、御館様?」
第一旗の旗将ディアルト・ベルヒが短く主君に問うたのは、御剣ラグナ、アヤカ・アズライトの両名と言葉を交わしていた空が姿を消した瞬間だった。
幻想一刀流の歩法による高速移動。大半の旗士にとっては目にも止まらぬ早業だろうが、ディアルトならばこの場を一歩も動くことなく空を捕らえることが可能である。
先刻のラグナの言い分は乱暴なものだったが、この非常事態に島外の人間にうろつかれたくないのはディアルトも同じだった。その意味でディアルトはラグナの行動を是としている。
これに対し、当主である御剣式部の答えは短かった。
「捨ておけ」
「――御意」
提言を却下されたディアルトは眉ひとつ動かさない。ただ、主君の声に応じるまでに若干の間があったのは確かだった。
次いで、副将である九門淑夜が声をあげる。
「御館様、城壁に穴を穿った者はいかがなさいますか? 先の勁からして恐るべき手練と推測されます。くわえて、島外の魔物を柊都まで導いた別働隊の存在も懸念されます。一旗からも援軍を出すべきではないでしょうか?」
この淑夜の献策に対して、式部は「捨ておけ」とは言わなかった。
「ディアルトは西、淑夜は北、ゴズは東。柊都に入り込む魔物を駆逐せよ」
『は!』
同時にうなずく三人に対し、式部は言葉を続けた。
「そなたらは外の魔物にのみ目を向ければよい。内は気にするにおよばぬ」
「は……それは穴を穿った者は捨ておけという意味でございますか?」
淑夜が戸惑いがちに確認すると、式部はこともなげにうなずいた。
「派手に城壁を割って我らの目を外に向けさせ、しかる後、内を討つ。兵法の常道よ。敵の狙いはこの館であろう」
「御自ら敵を迎え撃たれるおつもりですか? 臣下としてはご再考いただきたく存じますが……」
「かまわぬ、敵がここまでたどり着くと決まったわけでもない。そなたらは疾く征くがよい」
再度の命令に異を唱える者はいなかった。
ディアルトは素早く西へ、淑夜は静かに北へ、ゴズは力強く東へ。それぞれの特徴が色濃く出た歩法で、鬼ヶ島最強の三人は主君の前から姿を消す。
ひとり残った式部の顔には、何者の洞察も許さぬ能面がかぶさっていた。