第七話 土蜘蛛
土蜘蛛はその名のとおり蜘蛛の形をした魔物である。
もちろん似ているのは形だけで、野山で見かける蜘蛛とは大きさも素早さも力も、何もかもが異なる。
頭部には目を思わせる八つの紅点があり、不気味に明滅をくり返している。張り裂けた口は子供を丸呑みにできるほどに大きく、口中から覗く乱杭歯は人食い魔獣のそれだ。
赤い体毛が獅子のたてがみのように頭部を覆い、額からは何本もの突起が角のように突き出ている。胴体は黒と黄の横縞模様で、その形状は蜘蛛というより虎を思わせた。
鬼面獣身。胴の長さは軽く二メートルを超えるだろう。
長大な胴体から伸びる八本の脚は、金属鎧のように硬く節くれ立ち、先端には黒光りする鉤爪がついている。あれで引っかかれば、人間の身体なぞ紙切れのように引き裂かれてしまうだろう。
蜘蛛の魔物ならまず間違いなく毒を持っているし、粘糸を吐き出してこちらの動きを封じてくる可能性もある。
そんな土蜘蛛と対峙しながら、俺は小さくつぶやいた。
「蝿の王と同レベル、といったところか」
実のところ、俺は土蜘蛛と直接戦ったことはないので「蝿の王と同レベル」という評価は感覚的なものに過ぎない。が、それほど大きく的をはずしてはいないだろうと思う。
五年前――いや、数ヶ月前、心装を会得する前の俺であれば絶望するしかない相手だ。
それなら今の俺なら楽勝かといえば、そうとも言い切れない。大広間でギルモアが土蜘蛛の名前を出したとき、ゴズが食ってかかっていたところを見るに、心装使いにとっても危険な能力を秘めているのはほぼ確実である。
勁(魔力)が通じないとか、死ぬときに相手を道連れにする呪いをかけてくるとか、こちらの心装のような第二形態があるとか。そういったことをしてくる相手と考えておくべきだった。
肝心の土蜘蛛であるが、先ほどから苛立たしげに「叱! 叱!」と声を発しながら、鉤爪で激しく地面を引っかいている。
よくみると、土蜘蛛の身体を取り巻くように半透明の縄が幾重にもまきついており、時折せめぎ合うようにチリチリと火花が散っていた。何らかの勁技で土蜘蛛の動きを封じ込めているのだと思われる。
その束縛が土蜘蛛にとって不愉快極まりないものであることは、向こうの動きを見れば明らかだ。当然、束縛が解けた後は、ためこんだ怒りのすべてを眼前の相手にぶつけてくるに違いない。
本来の相手である竜牙兵とは比較にもならぬ。この魔物を今日のためにわざわざ捕らえてきたのだとすれば、実にベルヒ家らしい陰険さといえた。
「まあ、竜種を倒したと主張する人間にぶつける相手としては手ごろなのかね」
軽く肩をすくめる。
実のところ、若干ながら肩すかしを食った気分だった。確かに土蜘蛛は強大な魔物ではあるが、俺が来るのは一ヶ月前からわかっていたのだから、もっと底意地の悪い相手を用意しているものと考えていた。
さすがに竜を用意しておくことはできないだろうが、たとえば、スズメと同い年くらいの鬼人の少女を用意して「この娘の首級をもって力の証明とみなす!」くらいのことは言われかねんと覚悟していたのである。俺に養子二人を叩きのめされ、家名に泥をぬられたギルモアであれば、それくらいのことはやってのけるだろう、と。
ところが、いざ蓋をあけてみれば用意されていたのはただの魔物だった。これでは俺の方がギルモアより悪辣みたいではないか。
そんなことを考えながら、腕組みして開始の時を待つ。
ちらと周囲に視線を走らせると、すでに剣聖以下、御剣家の面々は俺と土蜘蛛を取りまく形で席についている。
試しの儀が行われるのは円形の仕合場。大勢の人間の視線にさらされながら魔物と向かい合う気分は、さながら闘技場に降り立った奴隷剣闘士である。
ちなみにこの仕合場には壁もなく、柵もなく、魔法による防壁が展開されているわけでもない。つまり、俺や土蜘蛛の行動次第で見物している者たちも危険にさらされることになるのだが――まあ、それを問題視するような人間がこの場にいるはずもないか。
「それでは、これより試しの儀をはじめる! 土蜘蛛を解き放て!」
重々しいギルモアの声が響き渡る。
その途端、魔物を束縛していた縄が消滅し、赤い八つの目に凶悪な光がともった。
『叫! 叫! 叫!』
怒号とも罵声ともつかぬ叫びを発しながら土蜘蛛が地面を蹴る。
上顎と下顎がぱっくりと開き、無数の歯が生えた口内があらわになった。先ほどは子供を丸呑みできるくらいの大きさと形容したが、訂正しよう。大人でも丸呑みにできそうだ。
対する俺は、心装はおろか腰の刀も抜かずに腕を組んで突っ立ったまま。八本分の脚力を駆使して迫り来る土蜘蛛に無防備な姿をさらしている。
次の瞬間。
ガチンッッ、という硬質な音が仕合場に響き渡った。巨大なギロチンの刃が落ちたかのような音は、土蜘蛛の上下の顎が勢いよく噛み合わさった音。
突っ立ったままであれば、頭はもちろん心臓あたりまでパクリと食われていただろう。
むろん、魔物のエサになってやるつもりはないので、直前に後方へ跳んで避けた。
これに対して土蜘蛛は即座に追撃を仕掛けてくる。どうやら八つの目で正確に俺の動きを捉えているらしい。
顎の次に襲ってきたのは二本の前脚だった。鋭い鉤爪を鎌のように縦横に振るい、俺の身体を切り刻もうとする。
かすっただけで身体がちぎれ飛びそうな剛撃を、時に右に、時に左に、踊るようにステップを踏んで小刻みにかわす。これは土蜘蛛に動きを読まれないための用心だった。今しがたの反応を見るかぎり、この魔物はかなり動体視力が優れている。回避ひとつ取っても油断するべきではなかった。
くわえて、同じ場所にとどまっていると鉤爪で掘り起こされた地面に足をとられるので、ときおりバックステップを交えることも忘れない。
目と鼻の先をギロチンじみた鉤爪が何度も何度も通過していく。そのたびに鼻が曲がるような異臭が吹きつけてきた。
それが魔物の体臭なのか、それともこれまで魔物が喰らってきた獲物の体液が表皮に染みついているのかはわからなかったが、どうあれ、嗅いでいて気持ちの良いものではない。
そんな俺の不快さとは意味が異なるにせよ、繰り出す攻撃がことごとくかわされる土蜘蛛の不快さも相当なものだったようだ。不意に土蜘蛛が這いつくばるようにぐっと身体を沈める。
直後、巨体が大きく跳ねた。
どうやら自身の身体を使って俺を押し潰そうという魂胆らしい。宙に跳べば、当然のように俺に無防備な腹部をさらすことになるのだが、そんなこちらの思惑を読んでいたのか、魔物は跳ぶと同時に臀部の穴から白い糸を射出してきた。
糸は漁師が用いる投網のようにぱっと空中に広がって俺に覆いかぶさってくる。刀を持っていれば切り払うこともできたろうが、俺の黒刀はいまだに腰に差したままだ。
『喚! 喚! 喚!』
空中の土蜘蛛が、こちらの無様を笑うように顔を歪める。やはり、ある程度の知能は備えているようである。
そんな土蜘蛛に俺の方からもニヤリと笑い返してやる。同時に、これまで使わずにいた勁の使用を解禁。両足に勁をまとわせて仕合場の端まで一気に跳んだ。
土蜘蛛にしてみれば、いきなり俺の姿が掻き消えたように見えたことだろう。今まではしっかり捕捉できていた敵を唐突に見失ったのだ。八つの目が慌しく動いて俺を探しているが、なかなかこちらには気づかない。
当然のようにその姿は隙だらけで、ここで遠距離から勁技を――颯あたりを浴びせてやればあっけなく勝てるだろう。
そう思った俺は、しかし、腰の刀を抜こうとはしなかった。
動かない俺を見て、仕合場の外から旗士たちのざわめきが聞こえてくる。絶好の機会にどうして攻撃しないのか、そもそもどうして心装を出さないのか――そういった声だ。
それに対する答えは簡単で、わざわざ衆人環視の中でこちらの手の内を見せてやるつもりはないからである。心装はもとより初歩の勁技だって見せてやるつもりはない。
これに関してはイシュカで戦ったゴズやクリムトさえ例外ではなかった。あいつらが知っているのは一ヶ月前の俺であって、今の俺ではない。わざわざこの一ヶ月の成長ぶりを教えてやる必要はなかった。それ以外の旗士――五年前の俺しか知らない者たちは言うにおよばずである。
まあ、人質にしていたクライアの口からおおよその情報は伝わっているはずだが、その情報が重んじられていれば、俺への待遇はもう少しマシなものになっているだろう。こうして土蜘蛛相手に戦わされている現状こそが、御剣家にはびこる俺への蔑視を端的に証明している。
そんな奴らの蒙を啓いてやる理由はどこにもない。
「さて、心装も勁技も見ずに魂喰いの竜に気づける奴がどれだけいるかな」
幻想一刀流の基本は斬勁走観。相手の実力を見抜く観はすべての旗士にとって基本中の基本である。
ゆえに、心装を出さずとも、こうして戦っていればある程度のところまでは見抜かれる。
だが、人間は見たいものしか見ないもの。これは「見る」を「観る」に置き換えても同じことが言える。
驕り、蔑み、嘲り。そういった感情越しであれば観えるものも観えなくなるというものだ。
もちろん、そういった感情を振り払って正確に俺の実力を見抜ける者もいるだろう。
だがそれは、五年前に試しの儀を越えられなかった弱者が、第一旗三位のゴズ・シーマを超える力を得て帰ってきた、という現実を受けいれることを意味する。
ようするに、大抵の旗士は「自分は御剣空より弱い」と認めなければいけないわけだ。はたして何人の青林旗士が、この屈辱的な認識に耐えられるだろうか。
今、仕合場を包んでいるざわめきには、間違いなくそういった戸惑いも含まれていた。
「せいぜい悩むがいいさ」
俺はくつくつと喉を震わせながら、ようやくこちらに気づいた土蜘蛛に向けて、くい、くい、と手招きする。
あからさまな挑発。
知性ある魔物はその意味を正確に読み取り、怒りに満ちた咆哮をあげた。