第六話 祝福
母の墓のまわりでは、幾人もの家臣がせわしなく動きまわっていた。そのほとんどは刀を佩いておらず、おそらく奥向きの侍女たちだろう。旗士たちが大広間に集まっている間に、正午から始まる催しの準備をしていたに違いない。
あれでは落ち着いて母に報告することができない。ゴズかセシルがいれば気を利かせて人払いをしてくれただろうが、その二人を置き捨ててきたのは自分だ。冷静に考えれば十分に予測できた事態であるだけに、己の浅慮に苦笑するしかなかった。
御剣静耶の息子であると名乗って、少しだけ席を外してもらおうか。いや、でも彼女たちはあれが仕事だし、勘当された息子のために貴重な準備時間をけずってくれるとは思えない。
それ以前に俺が息子であると信じてもらえない可能性もあるな。あの父が家臣に対して「五年前に勘当した息子が今日やってくる」と周知していたとは思えない。大広間にいた連中はともかく、それ以外の家臣は俺のことなど知らないと考えるべきだろう。
俺のことを知らないなら知らないで、ゴズあたりに確認をとってもらえば済む話だが、試しの儀は四半刻(三十分)後という話だった。すべてのやりとりを終えた頃には墓参りの時間なぞ残っていまい。
さて、どうしたものか。そんな風に考えて首をかしげたときだった。
「――空?」
横合いから自分の名前を呼ばれたとき、思わずビクリと背を震わせてしまう。一瞬――ほんの一瞬だが、母が声をかけてきたと思ってしまった。
呼び方がどうこうというより、いかなる悪意もなく、ただ親愛だけを込めた声音が母を想起させたのである。
もちろん、十年以上前に亡くなった母がよみがえってくるわけはない。ギギギ、と錆ついたブリキ人形のような動作で声のした方に振り向いた俺が見たのは、金糸を思わせる艶やかな髪と、妖精を思わせる美貌をあわせもった女性だった。
ラグナの母、御剣エマ。
俺はとっさになんと言うべきか分からず、意味もなく口を開閉させてしまう。
子のラグナとは異なり、母親に対してはいかなる遺恨もない。むしろ、こちらが罪悪感を抱えている。母が亡くなってから正妻になったこの方は、幼かった俺のことをずいぶん気にかけてくれたのだが、俺はそのすべてに拒絶で報いたからである。
ガキだったのだ、と今ならわかる。だが、あの頃はわからなかった。母の居場所を奪った人だと八つ当たりに近い感情を――いや、八つ当たりそのものの感情を抱えて、いつも恨みがましい目で睨みつけていたような気がする。
その後、俺と距離を置くようになったのは、幼い俺の心情に配慮してくれたからだろうに、当時の俺は悪者を追っ払ってやったと鼻高々だった。
……うん、このあたりはホント、思い出すたびに頭を抱えたくなる。
そしてもう一つ、先日まで人質にしていたクライアから聞いた一件が、俺の引け目をより大きなものにしていた。
五年前に俺が島から追放されたとき、この方はただひとり、父に対して異を唱えてくれたのだという。
顔から火が出るとはこのことだ。過去の非礼を詫びたい気持ちはあるのだが、いったいどの面さげてこの方の前に立てばいいのだろう。
そのためらいが俺の言動に無形の枷をはめていた。かろうじて膝をついて敬意を示したが、その先の行動がまるで思い浮かばない。
だから、というわけでもないのだが、次にこの方がとった行動に対し、俺はとっさに反応できなかった。
――タッと地面を蹴る音がしたと思った次の瞬間、俺は相手の胸のうちに抱きかかえられていた。
「むぐ!?」
「ああ、空! よく、よく無事でいてくれましたっ」
感極まったように、満面を喜びに満たして俺を抱きしめるエマ様。命日のためにしつらえたのであろう黒い着物から、伽羅香の甘い薫りが漂ってくる。あと、着物越しに柔らかい感触が伝わってきて、とても落ち着かない。
とっさに離れようとするが、意識的にか無意識にか、エマ様は俺を抱きしめる腕に今まで以上に力を込めてくる。
むろん、全力であらがえばたやすく脱出できるのだが、まさか力ずくで引き剥がすわけにはいかない。さりとて、このままの態勢でいることもはばかられる。どうしたものかと本気で悩んだ。
これが他の人間であれば、こうもたやすく身体を拘束されたりしないのだが、エマ様に関しては俺の方に引け目があったし、悪意も戦意もまったくなかったので反応が遅れた。
結局、俺はエマ様が満足するまでそのままの姿勢を保つしかなかった。
俺を離したエマ様から立ち上がるように言われて、膝立ちの姿勢から立ち姿に戻る。と、エマ様は繊手を伸ばして俺の両頬に触れ、いとおしげに目を細めた。
「本当に立派になって……ふふ、もう背伸びをしてもあなたには届きませんね」
「……は。その、恐れ入ります」
「恐れ入らなくていいので、もっと顔をよく見せてください――ああ、髪もそうですが、瞳の色も静耶そっくり。顔立ちも殿方らしく引き締まって……あの幼子が、本当に……」
わずかに声を震わせたエマ様はたもとから白布を取り出し、そっと目元をぬぐう。俺の成長に心底から喜んでくれていることがよくわかる。
そんなエマ様を間近で見ていると、申し訳なさと気恥ずかしさがあいまって、なんというか、実にむずがゆい。
――それにしても、あいかわらず綺麗な人だった。
顔といい、仕草といい、俺と同じ年齢の息子がいるとは思えない。
ふと昔のことを思い出した。
子供のころ、母に人魚のお姫様が出てくる話を読んでもらったことがあった。人魚姫はこの世のものとも思えないほどに美しく、髪の色は黄金のごとく、青い瞳は宝石のごとく、白い肌は雪のごとく――つらつら人魚の美しさを述べていく母に対し、俺は一言「エマお姉ちゃんの方が綺麗だよね」と言ったのだ。
それを聞いた母がめずらしく声をあげて笑い出したので、そのときのことは記憶に残っていた。翌日、母からそれを聞いたエマ様が、ひどく嬉しそうな顔で頭をなでてくれたことも。ついでに、それをラグナの奴が羨ましそうに見ていたことも思い出した。
その後、涙を払ったエマ様に手を引かれて母の墓へと案内される。それからエマ様は周囲の人払いをしてくれた上、自分までその場を離れてくれた。俺と母を二人きりにさせてあげよう、という気遣いに俺はただただ頭を下げるしかなかった。
――その後の母への報告は、特に語ることもない。島を出てから今日までの日々を手短に述べただけだ。
世の中の役に立てる人間にはなれなかった。
誰かを護れる人間にはなれなかった。
立派な跡継ぎにはなれなかった。
父のような人間にはなれなかった。
――空のように大きな人間にはなれなかった。
なんだか、五年間の報告をしているというより、五年分の懺悔をしている気分になる。それでも隠し事はしなかった。うつむくこともしない。
『空っぽという言葉は悪い意味ばかりではないの。何にもないなら、何にだってなれるのだから。これから先、あなたの中にたくさんのものを詰め込んで、なりたいあなたになりなさい。それが何であれ、母さんは空の選んだ道を祝福するわ』
かつて望んだものは何ひとつ手に入らなかったが、だからといって掴みとったものに価値がないなんて思わない。
島を追放されてから五年。間違いは数え切れない。後悔は山のよう。
それでも、決断を下してきたのは他の誰でもない、俺自身だ。俺は俺自身が選んだ道を歩いてきた。隠し事をする必要はない。うつむく必要はさらにない。
これまでのことを考えれば、そしてこれからのことを考えれば、祝福してほしいとは口が裂けても言えないけれど、それでも――
「それでも、これが今の俺です、母さん」
そう言って、ゆっくりと立ち上がる。
そのとき、墓に手向けられていた花がかすかに揺れた。優しい風が撫ぜるように頬のあたりを吹き抜けていく。
――それが母の返事だと考えるのは、さすがに感傷というものだろう。
それでも、そう思いたがっている自分が心のどこかにいる。
それは嘆くべきことなのか、それとも喜ぶべきことなのか。今の俺には判断がつかなかった。