第五話 約束
少し時をさかのぼる。
当主の式部に一礼した空が肩で風を切って退出した後、大広間ではギルモア・ベルヒが押し殺した声を主君に向けていた。
「……御館様。あの無礼者に罰をくれてやらずともよろしいのでございますか?」
ギルモアにしてみれば、先の放言を聞いた式部の怒りが雷霆となって空を撃つに違いない――そうほくそ笑んでいたところ、あにはからんや、式部はあっさりと空の退出を許してしまった。
主君が退出を許した相手を、家臣が引き止めることはできない。空の無礼への怒りと、式部の真意がつかめないことへのためらいが、ギルモアの声を低いものにしていた。
この問いかけに対し、式部は考える風もなく無造作にうなずく。
「よい」
「しかし、御館様。それでは家中の者に示しがつかぬと存じます。滅鬼封神の掟のためなら嘘も方便、殺しも武略などと……あれは我らの志に唾を吐いたも同然ではございませぬか」
そのギルモアの主張に同意するように、広間のそこかしこから怒声じみた賛同の声がわきおこる。そこにはギルモアへの追従も含まれていたが、それ以上に空の傲慢さに対する怒りが感じられた。
五年前、御剣家を勘当され、鬼ヶ島から追放された空は、本来なら二度とこの屋敷の敷居をまたげなかったはずなのだ。それなのに、当主である式部はこの二つの処分を特別に解き、あまつさえ試しの儀をもって八旗の末席に加えようと言い渡した。
追放者への措置としては破格といってよい。
ところが空は、ひれ伏して感謝すべきこの申し出を、あたかも路傍の石ころのように蹴飛ばしてしまった。その上でギルモアが口にしたあの雑言である。
ベルヒに連なる旗士ならずとも、怒りと不快をかきたてられずにはいられない。
――ただ、この時わきおこった怒声は広間を圧するほどに高まることはなかった。首座にすわる御剣式部が、配下の不満にまったく反応を示さなかったからである。
高まりかけたざわめきは潮が引くように消えうせ、大広間には戸惑いと不審が残った。その二つはいずれも式部に向けられている。いったい御館様は何をお考えなのか――それが旗士たちに共通する心の声だった。
それは式部の意を汲むことに長けるギルモアでさえ例外ではない。
御剣家の重臣筆頭を自任するギルモアにとって、今回の一件はそもそもの初めから面白くなかった。空への破格の措置は、ゴズ・シーマに対する式部の信頼の厚さを示すものだと分かるからである。
カナリア王国から戻ったゴズが告げた荒唐無稽ともいえるあの報告を、式部は全面的に信用した。だからこそ、空に対して帰参の道をひらいたのである。
もし、己がゴズの立場だったとして、御館様は己の報告を信用してくださっただろうか、とギルモアは自問する。
――答えは否だった。
現在の家格や権勢はどうあれ、主君からの信頼という一点において、ギルモア・ベルヒはゴズ・シーマに及ばない。
このままゴズが空を担ぎ続ければ、本当に空が嫡子の座に返り咲いてしまうかもしれない。そうなれば、ラグナと誼を結んでいるベルヒ家は、御剣主流から外れて凋落の一途をたどることになるだろう。
そうはさせぬ。そう考えてギルモアは今日の場にのぞんでいた。ことさら空に厳しく当たったのは、そういう背景があってのことである。
むろん、ギルモアとしても積極的に主君の不興を買うつもりはなかったので、式部が本当に空の帰参を望んでいるようなら口をつぐむつもりだった。
ところが、式部は空に対するギルモアの口撃に不快の色を見せず、制止する素振りも見せない。途中からギルモアは「もしや御館様はこの機会に御剣の出来損ないを処分するおつもりであられたのか」と思い至り、ことさら空を煽ることもした。
その結果、空を誅殺する好機が訪れたわけだが――ここでも式部は動こうとせず、空が退出するにまかせた。
いったい式部の意中はどこにあるのか、ギルモアは戸惑うしかない。
と、そんなギルモアに式部が声を向けた。
「ギルモア、試しの儀の準備は終わっているのか?」
「ぎょ、御意にございます」
「ならば、これより四半刻(三十分)後に儀式を執り行う。準備せよ」
「かしこまりましてございます。しかし、先ほど空殿は幻想一刀流を学ぶつもりも、御剣家に戻るつもりもないと申しておりました。それはいかがなさいますか?」
「あれの意思はこのさい関わりない。カナリア王国には試しの儀を終えた幻想一刀流の使い手がいる――この事実さえあればよい」
それを聞いたギルモアはハッと目を見開いた後、深々と頭を垂れた。
次いで式部は悄然とうつむくゴズの名を呼ぶ。主君に呼ばれたゴズは一瞬だけ眉根を寄せた後、すぐに毅然とした声を発した。
「ゴズよ」
「は!」
「今もうしたこと、空に伝えよ」
「かしこまりましてございます!」
素早く立ち上がったゴズは、空の後を追って大広間を出る。向かうのは当然客間だったが、先の空の様子からすると、ひょっとしてあのまま屋敷を出てしまった可能性もある。
島から出るには連絡船を待たねばならないが、今の空ならば自力で大陸に戻ることもできよう。その場合、急いで後を追わねばならぬ。
自然と足早になるゴズだったが、客間にたどりつく前に横合いから声をかけられた。ひどく慌てた様子であらわれたのは妹のセシルである。
「兄上!」
「セシルか。いかがした、そのように慌てて」
「イブキの姿が見えないのですッ」
「なに!?」
いかに剣聖の血を継ぐとはいえ、いまだ旗士ならざるイブキは大広間に参列する資格をもたない。
そのイブキに正装をさせておいたのは、謁見が終わった後で空と引き合わせようと考えていたからだった。
式部の正妻である御剣エマや、側妾であるセシルは、この後の命日の準備のために屋敷の内外を奔走しており、どうしてもイブキが一人になってしまうタイミングがある。
その間隙をつかれたらしい。
イブキは腕白な子供だが、大人たちの言いつけにそむくことは滅多にない。まして一刻二刻と放っておかれたわけでもないのだ。セシルが慌てるのは無理からぬことだった。
――御剣の本邸に不逞の輩が入り込むことはまずありえぬが。
ゴズは素早く頭を働かせながら歩き出す。セシルも慌てたように兄に続いた。
柊都に犯罪者がいないわけではないが、御剣家に忍び込むような命知らずはまずいない。おそらくイブキが自分の意思で出て行ったのだろうと思いつつも、甥が母の言いつけにそむいてまで姿を消す理由が思い浮かばなかった。
あまり考えたくはないが、隠形に長けた魔物なり、他国の間諜なりが入り込んでいる可能性もある。ひとまず空に対して試しの儀の時刻を伝達してから、心当たりを探してみよう――そう考えながら、客間に通じる角を曲がったときだった。
「やあ! やあ! ええいッ!」
「どうした、蛇王剣の使い手。究極無双の剣技とはこの程度か?」
「うるさーい! えい! やあ! とう!」
イブキと空が、中庭で稽古をしていた。
何がどうしてこうなったのか、とゴズは呆然とする。
イブキの相手をしている空の表情は、イシュカでの再会からこちら、ゴズが一度も見たことのないものだった。
――いや、五年前でさえ、空はこんなに穏やかな笑みを浮かべてはいなかった。最後に空の心からの笑みを見たのは一体いつだったか。
そんなことさえ思い出せない自分にゴズは愕然とする。
その後ろでは、セシルが小さく「ああ……」と感極まったような声をもらしていた。息子が無事だった喜びもあるが、それだけではない。眼前の光景はシーマ兄妹が心から望み、けれど決してかなうまいと諦めかけていた夢そのものだったのだ。
その嘆声に気づいたのか、あるいはとっくに気配で察していたか。ちらとゴズたちを見やった空は、目の前の小さな剣士に話しかけた。
「ふむ。どうやらここまでだな」
「むむ、逃げるのかー!?」
「今日のところは引き分けだ、蛇王剣の剣士殿」
「むー!」
ぷくー、と頬を膨らませ、明らかに納得していない様子のイブキ。
そんなイブキに対し、空は座り込んで目線を合わせてから言葉を続けた。
「今日のところは引き分けだ。だから、決着は次のときにつけるとしよう」
「次?」
「ああ。剣士殿が大人になったときに、もう一度戦おう。その時までせいぜい強くなっておくことだ。今の実力では俺に届かないことは、自分でもわかってるだろう?」
「むう、言ったなあ! よぉし、それなら次に戦うときはぜったい、ぜったいぼくが勝ってやる! だからちゃんとぼくと戦うんだぞ、約束だからな!」
「ああ、約束だ――ほら、母上たちがお越しだぞ」
そう言って空があごをしゃくると、イブキは振り返ってパッと表情を明るくさせた。タタッと足取り軽くゴズたちに駆け寄っていく。
少しの間、その背を見送っていた空は、イブキがゴズの足にしがみついたところでゆっくりと視線をあげる。
――ほんの瞬き一つの間に、その視線には霜が降りていた。
「時間はどうなりましたか、シーマ殿?」
視線だけではない。その声もまた凍るように冷たかった。イブキに向けていた声を聞いた直後だからこそわかる、絶望的な温度差。
御剣家有数の旗士の背に氷塊がすべり落ちる。
「し、四半刻後というのが、御館様のおおせでござる」
「墓参りの時間をとっていただいたわけですね。閣下のお心遣いに感謝しましょう」
「お、お待ちを! 静耶様の命日の儀は、正午から執り行われ――」
ゴズの声に返事はもどってこなかった。
さっと踵を返した空は、もはやこの場の人間に用はないと言わんばかりに一瞬で姿を消してしまう。
おそらくは勁を使ったのだろう。ゴズにしがみついていたイブキが目を丸くするほどの早業だった。