第三話 極点
大広間は御剣邸において最も広い空間だ。どのくらい広いかといえば、当主に双璧、四卿に八旗、その他鬼ヶ島の要人たちをまとめて詰め込んでもなお余るくらいに広い。
畳が敷き詰められた大広間に一歩足を踏み入れた瞬間、その場にいた者たちの視線が一斉に俺へと向けられる。
その瞬間、脳裏をよぎったのは五年前の試しの儀だった。父から勘当を言い渡され、鬼ヶ島を追放されたあのときに周囲から向けられた嘲笑、侮蔑、憐憫、無関心……それらが頭の中で次々に再生されていく。
その忌まわしい記憶を。
この五年、思い出すたびに頭を抱えてうめいていた記憶を。
「――ふん」
俺は鼻息一つで払い飛ばして、無造作に広間に足を踏み入れた。
そんな俺を見て、ゴズが頼もしげに相好をくずす。過去の俺は父や門弟たちの前に出るとき、決まって萎縮していたからな。彼らの視線を苦もなく弾き返した俺の成長が嬉しかったのだろう。
「さ、空殿、御館様の御前までお進みくだされ。皆、空殿のことを待っていたのでござる」
あたかも俺を出迎えるために皆が集まったかのような物言いをするゴズ。それを聞いて、俺は思わず苦笑した。
これだけ錚々たる面子が俺ひとりを迎えるために集まるはずがない。
彼らが集ったのは俺のためではなく母のため。鬼ヶ島では故人の命日は家族がそろってねんごろに弔うのが一般的であり、これは大陸を覆う法神の教えとも合致する。
御剣静耶は、当代の剣聖にしてアドアステラ帝国の大貴族たる御剣式部の正妻。その命日ともなれば臣下一同がうちそろい、盛大に弔うものだ。実際、俺が島を出るまではそうだった。
この場に集まったほとんどの者にとって、俺は命日にあらわれた闖入者にすぎまい。待っているとしたら、俺を、ではなく、この茶番が終わるのを、であろう。
そんなことを思いながら、左右に居並ぶ廷臣たちの前を通って当主のもとに向かう。途中、ちらほら見覚えのある顔を見つけたが、心にはさざ波ひとつ立たなかった。そして、好奇や敵意、あるいは露骨なまでの品定めの眼差しを向けられても、かつてのように心が縮みあがることもなかった。
うつむき、肩を縮め、背を丸めて歩いていたのは過去のこと。胸を張り、顎を引き、まっすぐ前を向いて歩く俺を見て、幾人かが「ほう」と言いたげな顔をしていたが――やはり、俺にとってはどうでもいいことだった。
そうして定められた位置に着座する。正座のまま、当主に向かって一礼した俺に向けて、頭上から聞き覚えのある声が降ってきた。
「――久しいな、空」
五年ぶりとなる父親の第一声。温かみのない声は、同時に、湿った悪意とも無縁だった。
こう記すと悪くない対応に聞こえるかもしれないが、好意はなく、さりとて悪意もないということは、つまり無関心ということである。
重く、冷たく、乾いた声音は五年前となんら変わらない。
いかなる感情も孕まないこの声に、いったい何度背を震わせたことだろう。
路傍の石を見るようなこの眼差しに、いったい何度身体をびくつかせたことだろう。
おそらく父の目には、今の俺も、五年前の俺も同じに見えているのだろう。そもそも見分けようともしていないのかもしれない。あたかも天上から有象無象を見下ろす神のごとく、超然と座したまま声をかけてくる。そこに父親の情など微塵もない。
――まあ、こっちもこっちで五年ぶりに会う父親に対し、懐かしさも反発も感じていないのだから、ある意味似た者親子ではあるのだろう。
俺は淡々と御剣家の当主に応じた。
「お久しぶりです、閣下」
「島を出てからも鍛錬は続けていたようだな」
「御意にございます」
その後もいくつかの問いかけがあったが、そのすべてに俺は黙々と答え続けた。別段、隠し事をする必要もない。竜種を単独で討ち取ったのはまことのことか、と問われたときも素直に肯定した。
このとき周囲から沸き起こったのは感嘆のざわめきではなく、苦笑と失笑、あとは実力もないのに大言壮語を吐く者に向けた嘲笑だった。
それだけで鬼ヶ島における俺の立場が知れる。案の定、ゴズとベルヒ姉弟の報告はまともに受け取られなかったらしい。
だからこそ四旗が派遣されることになったのだろう。その四旗も結局、クライアの機転によって島に逃げ帰ったはずなのだが、連中の報告もこの場にいる者たちの耳には響かなかったとみえる。
再度討手を遣わすのも面倒だから、のこのこ母親の命日にやって来たときに化けの皮をはがしてやろう、とでも考えていたに違いない。
その推測を肯定するように、のそりと動いた人物がいた。
「御館様、発言をお許し願わしゅう」
「許す、ギルモア」
四卿のひとり、司徒ギルモア・ベルヒが白髭を揺らしながら進み出る。じろりと俺に一瞥をくれながら、ベルヒ家の当主はさも感じ入ったように滔々と語りはじめた。
「ただいまの空殿のお言葉、まことにあっぱれ。単身で竜種を屠るとは、まことに驚き入った武功武烈でござる。我が子クライア、クリムト、そして司馬たるゴズ・シーマが及ばなかったのも道理というものでござろう。黄金世代の恥さらしと呼ばれ、試しの儀すら超えられなかった御方が、わずか五年でよくぞここまでと感嘆を禁じえませぬ」
流れるようなギルモアの弁舌に和するように、居並ぶ廷臣の間から哄笑がわきおこる。俺への侮蔑が半分、鬼ヶ島において飛ぶ鳥落とす勢いのベルヒ家当主に向けた追従が半分、というところか。
しかしまあ、いっそ清々しいくらい露骨に挑発してきたな。ここまであからさまに内心をさらけ出すのは四卿としてどんなものなんだ。
気に入らない相手に親しく話しかけてこそ、御剣家の『文』の頂点たる四卿の器量だと思うのだが――さすがに期待の養子二人を叩きのめされたのは、ギルモアにとっても我慢ならなかったのか。
あるいは、俺に対して罵詈雑言を向けることで次期当主のラグナにアピールし、なおかつゴズあたりを挑発しているのかもしれない。
どちらかといえばこちらの方が可能性が高そうだな。イシュカでクライアからちらと聞いた話では、ベルヒ家の内部はずいぶん寒々としているようだ。養子を傷つけられた意趣返しをしていると考えるより、自家の勢力拡大に勤しんでいると考えた方がしっくり来る。
そんなことを考えながら無言でいると、ギルモアが口角をあげて俺を見た。俺が五年前のように周囲に萎縮していると判断したのだろう、どこか悠然とした態度で言葉を続けた。
「つきましては、この後、御館様のお慈悲によって行われる予定であった試しの儀の内容を変更するべきであると愚考いたす。竜殺したる空殿にとって、竜牙兵の相手などあまりに役不足と申すもの。ここは土蜘蛛をもって試しの相手とすべきと存じまする」
ギルモアがそう言った途端、ざわりと広間が揺れた。先ほど俺を軽んじたときとは異なり、今度は心底からの驚きをあらわすざわめきだった。
「実はすでに用意を整えておりもうす。本日は亡き静耶様の菩提を弔う大切な日でござれば、余事は速やかに片付けるが肝要かと」
そのギルモアの言葉に反応したのはゴズだった。
明らかな怒気を含んだ表情で勢いよく口をひらく。
「待たれよ! 試しの儀に土蜘蛛を用いるなど聞いたこともない。まして空殿は今日、遠路はるばるお越しになられたばかりでござる。休む暇もなく試しの儀にのぞめとはあまりな物言いでござろう。今日が大切な日だと承知しておるなら尚のこと、試しの儀は日をまたいでおこなうべきでござる!」
「むろん、わしとて常人が相手ならこのようなことは口にせぬよ、ゴズ・シーマ。だが、空殿は正式に幻想一刀流を学んでおらぬにもかかわらず、単身で幻想種を討ちとった稀代の使い手ではないか。そのような達人相手に常人と同じ条件を課す必要がどこにあろう? 空殿にしても、このような雑事は早々に終わらせて、心置きなくお母上の菩提を弔うことをお望みではないかな」
そう言うと、ギルモアは俺に対してニタリと笑いかけてきた。
「いかがでござる、空殿? 竜殺したる御方が、土蜘蛛ごときに恐れをなすなどありえぬこと。賛同していただけるに相違なしと思うておるのでござるが――ああ、むろん、御身が御館様に対し奉り、戯言を弄していないとしたらの話でござるが」
「……」
「おや、いかがなさった? たわむれに仮定を申し上げただけなのだが、もしやまことに御館様に嘘偽りを口になされたのか? であれば、悪いことは申さぬ。ただちに御館様に、そしてこの場に集うた者たちに謝罪なさるがよろしかろう。この場は神聖なる御剣家評定の席。ただ一言の戯言も許されませぬ」
ギルモアの言葉が終わると、大広間に静寂が満ちた。
この場のすべての視線が自分に突き刺さるのを感じながら、俺は口を閉ざし、ついでに目も閉ざし、沈黙の砦に立てこもる。
一秒ごとに周囲の気配が剣呑なものに変わっていく。ピリピリと肌を刺す空気。誰かが怒声をあげれば、その瞬間、俺は旗士たちの怒気に飲み込まれてしまうだろう。
それを承知しつつ、なおも口を閉ざし続ける。
一秒、二秒、三秒、四秒……ふと目をあけて見れば、仕掛け人のはずのギルモアさえ苛立ちをちらつかせていた。俺が慌てて強がるか、非を認めてはいつくばるかの二つに一つと思っていたのに、怖じる風もなく端然と座り続けているのが理解できないのだろう。
どうやら司徒殿は、俺の竜殺しの勲が事実であるという想定はしていないらしい。そう見切った俺は、まわりの怒気が炸裂する寸前、父に対してそうしたように、いかなる感情も乗せずに淡々とギルモアに問いかけた。
「言いたいことはそれで終わりですか、司徒殿?」
「……なんじゃと?」
「言いたいことはそれで終わりか、と訊きました。今しがた司徒殿が申されたように、私はこのような雑事は早々に終わらせて、心置きなく母上の菩提を弔いたい。ゆえに、あなたの嫌みを小刻みに聞いている暇はないのです。おっしゃりたいことがあるならまとめておっしゃってください。そして終わったなら終わったとおっしゃってください。改めて訊きます。言いたいことはそれで終わりですか、ギルモア・ベルヒ殿」
「……ほう、空殿は五年の間に目上の者に対する礼儀を失念したと見えますな。あなたは御剣家の嫡子として、実力も、人格も、品性も不足していたが、ただひとつ、礼儀だけはしっかりしていなすったというのに。ただ一つの長所もなくしてしまったとみえる」
「司徒殿がそうおっしゃるならそうなのでしょうね。私としては十分に礼儀を払っているつもりなのですが、非礼があったのならお詫びします」
「そな――」
「ああ、それと」
俺は相手の反論におしかぶせるように言葉を続けた。
「土蜘蛛でしたか、それを相手にするのはこの後すぐでかまいませんよ。今も申し上げたように、私はこのような雑事は早々に終わらせたい。日をまたぐなど冗談ではない」
ゴズの主張を一蹴する形で応じると、ギルモアの顔にえたりという表情と、俺ごときに言葉を遮られた不快感が同時に浮かびあがった。
一瞬、ギルモアはどちらを口にするべきか迷ったようだが、向こうにしても俺のような木っ端相手に時間を費やしたくないという思いがあったのだろう。
すぐに、よかろう、と大仰にうなずいた。
「では、御館様のお許しを得てすぐさま試しの儀をおこなう。それでよいな」
「いえ、その前に一つお訊ねしたいことがあります」
事を終わらせようとするギルモアに異議を申したてる。ギルモアの顔に、今度ははっきりとした苛立ちが浮かびあがった。
「なんじゃ、まだ戯言を弄するか?」
「戯言を弄しているのはそちらでしょう。『竜種を討った実力が真ならば、鬼人のひとりやふたり、任せても問題はない』というのがそちらの条件。その力を証明せよというのであれば、土蜘蛛相手に戦うことに否やはありません。ですが、それは試しの儀とは何の関わりもないこと。私は今さら幻想一刀流の門下に加わるつもりはありませんし、御剣家に臣従するつもりもありません」
「…………なんじゃと?」
ぽかんとしたギルモアの顔は、たぶん俺が生まれてはじめてみるものだった。たぶん、この場の多くの人間にとっても同じだったろう。
せっかくのめずらしい見世物だったが、残念ながら堪能できた者は俺くらいだったのではないか。なにせ、ギルモア以外の人間もそろってぽかんとしていたので。
表情を変えていないのは正面に座っている父親くらいで、父の左右に座る双璧さえわずかに表情を動かしている。
ギルモアをはじめ、この場にいる者たちのほとんどは俺が幻想種を討伐したことを信じていない。つまり、彼らは俺が偽りの功績をもって御剣家に帰参しようとしている、と考えているわけだ。ゴズの報告にいくらかの信憑性を認めている者にしても、俺の目的に対する認識はさしてかわらないだろう。
俺はそんな連中の推測を真っ向から否定したのである。その結果がこの沈黙だった。
と、後ろから押し殺した声が聞こえてきた。
「――空殿」
「なんでしょうか、シーマ殿」
「イシュカでも申し上げたとおり、空殿が心装に至りしことはすでに報告してござる。そして、心装を会得した者を御剣家の傘の外に置くことはできぬのでござる。しかしながら、空殿が青林旗士たるの資格を得ることができれば、話はかわりまする」
「……」
「ご存知のように青林旗士の中には島外の活動に従事している者もおりますれば、空殿をその一員として迎え入れるというのが御館様のお考え。島外にて功績をあげれば、いずれは正式に御剣の姓を名乗れる日が来ると存ずる!」
「なるほど。ようするに御剣家は私をたばかったわけですね。力を証明すれば、などと書状で書き記しておきながら、実際には臣下にならなければこちらの望みは通さぬと、そうおっしゃる」
「空殿! こたびの計らいは御館様の精一杯のお慈悲なれば、曲げてご承引願いたく……!」
なにやら懸命な様子でかきくどいてくるゴズに対し、俺は後ろを振り返らずに右手をひらひらと振った。
「ああ、失礼。言い過ぎてしまいましたか。かまいませんよ、シーマ殿。どうせこんなことになると思っていましたし」
「……空殿?」
「滅鬼封神の掟のためなら嘘も方便、殺生は武略。それが御剣家。あなたがイシュカでやったことと何も変わらない」
「――――!」
何やら絶句したような気配が伝わってきたが、何を驚いているのだろう。まさかとは思うが、自分はギルモアとは違うとでも思っていたのか?
まあいい。今も言ったが、どうせこんなことになるだろうとは思っていたのだ。
俺は周囲が唖然としている隙をついて、あらためてこの場にいる旗士たちを観た。剣聖を観て、双璧を観て、四卿を観て、八旗を観た。この場に集った御剣家の文武の精髄、そのすべてを観た。
その上で思う。
強い、と。
さすがは御剣家の精鋭たち。こんな連中に囲まれていたのだ、五年前の俺が畏怖におしつぶされても仕方ない。
特に剣聖のそれは、雲間の彼方に浮かぶ白峰の頂を仰ぎ見ているような、そんな心地にさせられる。
天高く伸びる塔のような高峰。人の身では届かぬ神域の極点。竜を宿してなお及ばないと痛感させられる。
だが、それでも。
――確かに、観えた
くく、と自然と喉が震えた。
ゴズを斬ったときよりも。クリムトを踏みにじったときよりも。クライアを喰ったときよりも。ことによったら幻想種を倒したときよりも、歓喜した。
五年前には決して観えなかった頂が観えた。剣聖のそれが観えたのだ、双璧以下は言うにおよばぬ。
それはこの五年間が決して無駄ではなかったことの証だった。
そしてもう一つ、わかったことがある。おそらく剣聖は――御剣式部はこの五年の間、成長していない。
極点とは心装使いが到達できる最後の点、それ以上はないという境地。
言葉をかえていえば限界ということだ。百ある才能を百まで開花させた者に成長の余地はない。
この状態から脱するためにはレベルを上げるしかないのだが、レベルアップに必要なのは「己より強い相手」である。
だが、いったいどこに剣聖より強い相手がいるのだろう。己より強い相手がいないからこその最強。最強とは、それ以上レベルを上げられない者の称号なのだ。
あるいは幻想種であれば、剣聖のレベルを引き上げることもできるかもしれない。
だが、ヒュドラを討った俺すら今の剣聖には届かない。剣聖のレベルを上げられる幻想種など、それこそ――ああ、それこそ――
――神を殺す竜くらいしか、いないのではないだろうか?