閑話 セーラとイリア②
セーラ司祭と共に、クラウ・ソラスに乗ってメルテの村に戻った俺は、例によって解毒薬やら体力回復薬やら聖水やらを大量に持ち込んだ。
ヒュドラと魔獣暴走の爪痕が残るイシュカで、これだけの薬品をかき集めるのはけっこう手間だったので、できるだけ有効に使ってほしいものである。
以前に村を訪れたときの大盤振る舞いは村人の信頼を得るためだったが、今回のこれは信頼を得るためではなく、メルテの住人に向けた詫びのようなものだった。
先にセーラ司祭たちを村から連れ出したとき、俺は「イシュカを魔獣暴走から守るため」という名分を掲げたが、その目的は俺が助けたい人だけを助けるためだった。ようするに、他の村人は見捨てたのである。それに対する俺なりの贖罪だった。
――正直なところ、俺にはメルテを守る義務なんてないので、見捨てたところで文句を言われる筋合いはない。しかし、そういった本心はセーラ司祭の手前、綺麗に包み隠しておかねばならない。
まあ、セーラ司祭やイリアにはすでに本当のところを話しているので、俺の内心は綺麗に見抜かれているだろうけれども、それでも見捨てた人たちへのフォローは忘れていませんよ、という姿は見せておいた方がいいだろう。
なお、ヒュドラが放った八重咆哮はこの地まで鳴り響いていたようで、村に残ったラーズからあれこれ訊かれて、とても面倒くさかったことを追記しておく。
どうもイシュカから逃げ出した人々によって、ヒュドラや魔獣暴走の情報はえらく誇大に広がっていたようで、カナリア南部はちょっとした恐慌状態に陥っていた。
さすがに魔獣暴走終息の情報は、カナリア王国の伝令によって最優先で伝えられたそうだが、その内容は「魔獣暴走は終息した。詳細は追って伝える」というもの。これで不安をぬぐえ、と言われても難しいだろう。
まあ、イシュカ自体がいまだに混乱から抜け切っていないのだから、遠く離れたメルテの村が「明日にも魔物の大群が襲ってくるのではないか」という不安に駆られていても仕方ない。
村人の中にはイリアと同じように不治毒に罹患した者もいるし、こういうときに頼りになるセーラ司祭は俺が村から連れ出してしまったし――むしろ不安をぬぐう要素が何ひとつない。こう考えると、俺の行動はけっこうメルテの人々にとって致命的だったかもしれない。
ヒュドラが討ち取られたこと、魔獣暴走が終息した詳細、不治毒については今回持ち込んだ解毒薬があれば心配いらないこと、さらに今回も薬品の代金はいらないこと――そういったことをまとめて伝えたら、村長はじめ村の人々にえらく感謝されたが、微妙に居心地が悪かった。
ともあれ、伝えるべきことは伝えた。俺の『竜殺し』もしくは『偽・竜殺し』の二つ名について伝えなかったのは、今以上に面倒くさくなることが目に見えていたからである。特にラーズあたりが。
遠からず、噂という形で伝わるだろうが、その頃には俺はもうメルテにいないだろうから関係ない。己の功績については奥ゆかしく胸におさめた謙譲の士として、勝手に美化してくれることを期待しよう。
そうして、俺は今、村の外れにある墓地に来ている。セーラ司祭の姿が見えなかったので、たぶんここに来ているのだろうと思って足を運んだのだ。しつこく話しかけてくる村長たちから逃げてきたともいう。
――そこで、一つの墓の前で頭を垂れ、両手を合わせているセーラ司祭の姿を目撃した。
その墓が亡くなったセーラ司祭の夫、イリアの父のものであることはすぐにわかった。司祭の祈りを邪魔するつもりはなかったから、俺はすぐに引き返そうとしたのだが――それができなかったのは、一心に祈りを捧げるセーラ司祭の姿があまりに綺麗だったからである。
静謐で、神聖で、それでいて温かい。一幅の絵画のような、といえば大げさに聞こえるだろうが、俺にとって眼前の光景はそういうものだった。
セーラ司祭がどれだけ夫を愛していたのか、今なお愛しているのか、それが千言万語を費やすよりもはっきりと伝わってくる。
気がつけば、声もなく見入っていた。わずかに遅れて、胸の奥から膨大な感情があふれてくる。
それははじめ、嫉妬だった。死んでから十年以上経っているのに、これほどセーラ司祭に愛されている人物への妬み。
だが、その感情はすぐに流れ去り、かわって俺を捉えたのは羨望だった。こういう夫婦になれたのなら、それはどんなに幸せな人生なのだろう、という気持ち。
子供の頃、許婚と共に築こうとしていた理想がここにある。そんな風に思った。
思って、唇を曲げるように苦く笑った。
自分の中にそんな感情が――あるいは感傷が――残っていたのが意外だった。
いや、たしかにセーラ司祭に対しては、情欲とか魂喰いとか、そういった欲求とは異なる思いを抱いていることは自覚していたけれども。
俺がセーラ司祭に抱いている感情は、たぶん、子供の頃にアヤカに向けていた感情と近しいだろう。俺は復讐だ心装だと猛り立つ裏側でこんな光景を望んでいたわけだ。
我が事ながら目を瞠る思いだった。人間、自分のことはなかなか分からないものだ――
「いや、そうでもないか」
セーラ司祭に聞こえないように小声でつぶやく。
先ほど、俺はセーラ司祭たちの夫婦の絆を羨望した。羨望とはつまり、手が届かないものへの憧れである。なんだ、しっかり自分のことを理解してるじゃないか、俺。
意図的に皮肉な笑みを浮かべ、あらためてセーラ司祭を見やる。
あいかわらず、その姿を綺麗だと思った。
この女性を手に入れようと思えば、きっとできるだろう。俺はイリアの命を救ったし、メルテの村にも返し切れないほどの恩を売った。
借りを返せといえばセーラ司祭は逆らえないだろう。恩に報いろと言えば報いてくれるだろう。
村長たちを利用して外堀を埋め、ドラグノート公にさえ一目も二目もおかれる竜騎士の正妻に迎え、やがて司祭の心を亡夫から奪える日も来るかもしれない。
そうしたい、と願う自分は確かにいる。実際、軽口にまぎらわしつつ、そのための動きをとっていたのも事実である。
だが、それをすれば、この光景を綺麗だと思う心もなくしてしまうに違いない。そのことに気がついた。
――それはきっと、とてもつまらないことだ。
ごく自然にそう思う。
俺は、ほぅ、と息を吐いた。司祭の後ろ姿を見ながら、深く、長く。これまで溜め込んでいたものを吐き出すために。
それが終わった後、俺はセーラ司祭たちの語らいを邪魔しないように踵を返した。
不思議と足取りは軽かった。