閑話 クライア・ベルヒ②
「ベルヒ様、こちらに」
イシュカの通りを歩いている最中、その声は低く、鋭くクライアの耳朶を打った。
クライアは先のスタンピードにおける活躍により、特に兵士や冒険者の間で人気が高い。ただでさえ白い髪に紅い瞳という特徴的な外見をしている上、イシュカではめったに見かけない袴姿をしていることもあいまって、声をかけられることはめずらしくない。
兵士や冒険者だけでなく、その家族や、噂を聞いた市民から感謝の言葉を告げられることもある。
だが、そういった者たちはクライアのことを「ベルヒ様」とは呼ばない。何故といって、クライアはイシュカの住民に自分の家名を明かしていないからである。
クライアの家名を知っているのは空だけだが、空は空でクライアのことをわざわざ家名で呼ぶことはない。いわんや、『様』などと敬称をつけたりはしない。
――クライアは目元にかすかな緊張をあらわして、声のしてきた方を見た。
くたびれた工人風の格好をした男性が物陰からクライアをうかがっている。年の頃は四十歳くらいだろう。昼間から酒を飲んでいるのか、無精ひげがはえた頬はひときわ赤い。
イシュカでは打ち続く混乱によって仕事や職を失った者が少なくない。そういった者たちが酒で現実を忘れようとするのもめずらしくない。実際、通りを歩けば、この男に似た姿をした者はいくらでも見つけることができた。
ただ、そういった者たちと眼前の男では目が違う。クライアを見る眼差しには酒精とは無縁の強い光が宿っていた。
「――何者です?」
「どうかこちらに」
有無をいわさぬ口調で告げた後、男はいかにも酒に酔ったような千鳥足でその場を離れ、人通りの少ない路地に入っていった。
クライアはわずかにためらったが、ここで無視をするのは様々な意味で不可能である。男にわずかに遅れてクライアも路地に入った。
男はクライアの姿を認めるや、即座にその場に膝をついた。大げさな仕草だが、男はクライアというよりベルヒ家に膝をついているのだろう。
クライアが問う前に男は自分の正体を明かした。
「それがし、第四旗に属するヘイジンと申します。御館様の命により、クライア・ベルヒ様をお迎えにあがりました」
「御館様の……?」
クライアの声に疑問が宿る。
というのも、率直にいって、クライアは救出部隊が来る可能性は絶無であると判断していたからである。
空がクライアを人質にしたのは鬼人の娘を保護するためだが、その要求を剣聖 御剣式部が受け入れることはありえない。クライア一人を助けるために滅鬼封神の掟を揺るがせにする剣聖ではない。
おそらく、人質になったクライアは、空もろとも処断されることになる。
ベルヒ家の助けは期待できない。むしろ、身内の恥を抹消するためにベルヒ家が率先して襲いかかってきても驚かない。
このところクライアを悩ませていたのは、御剣家の襲撃があったときに自分はどのように行動すべきかという点であり、助けがきたときにどうすべきかなどてんから考えていなかった。
ところが第四旗を名乗る男はクライアを助けに来たという。何かの罠かと疑ったが、御剣家がクライアを罠にはめる理由も、必要性もない。
クライアに罠をしかけるとしたら空だろう。これでクライアがのこのことヘイジンについていったら、空が待ち構えていて逃亡未遂として処罰される――いかにもありそうである。
ただ、ヘイジンの所作は間違いなく幻想一刀流を扱う者のそれだ。懐から取り出した第四旗所属を示す徽章も、クライアの目には本物に映る。
――クリムトと司馬が御館様を説き伏せてくれたのだろうか。
クライアはそうも思ったが、この推測も違和感が残る。もちろん、二人がクライアのために尽力してくれたことは疑っていないが、式部がその願いを受け入れたという点がどうにも信じがたいのだ。
そういったクライアの迷いと逡巡をどのように受け取ったのか、ヘイジンが声を低めて問いかけてきた。
「ベルヒ様、ご安心ください。人であれ、物であれ、御身を縛っているものは我ら四旗が奪い返しますゆえ」
「それはどういう意味ですか?」
「見たところ、ベルヒ様は行動の自由を保証されていらっしゃる。見張りの影もありませぬ。にもかかわらず、虜囚の身に甘んじているということは、なにかしら弱みを握られておいでなのでしょう?」
「……ああ! そういうことですか」
ヘイジンの誤解に気づいたクライアがかすかに口元をほころばせる。確かに、人質なのに自由に動き回っているクライアを見れば、そう思われても仕方ないだろう。
実際のところ、空は逃げるなら逃げろと思っているだけなのだが。むしろ、クライアが逃げることを期待さえしているに違いない。
ここでクライアは先日の疑問――どうして急にティティスの森からイシュカに居を移されたのか――についての答えも得た。
ティティスの森にいてはクライアと第四旗が接触できない。だから、クライアをイシュカに連れて来たのだ。
「御館様が空殿に何と返答したのか分かりますか?」
「は。存じておりますが……」
それが今、何の関係があるのか、といいたげにヘイジンがクライアを見上げる。
クライアは相手の疑問に気づいたが、かまわずに答えを求め、そして「一ヶ月後に島に来るように」という式部の言葉を知る。
「御館様は空殿の力量を確かめるために島に呼び出したのですよね。それなのに、四旗に私の救出を命じたのですか?」
それを聞いたヘイジンは、すっと目を伏せた。
「それがしは島外の任務に従事しておりましたゆえ、くわしい経緯は存じませぬ。ただ、ラグナ様が動かれたことは聞いております」
「ラグナが?」
クライアはかすかに眉根を寄せる。クリムトからラグナへ、ラグナから式部へ。そういう形で事が決したのだろうか。だとしても、今の時点で式部が四旗を動かす理由は薄い――と、そこまで考えたとき、不意にクライアの脳裏にひらめくものがあった。
些事であると考えて忘却していた事実を、眼前のヘイジンを見ているうちに思い出した。
「第四旗……先に空殿に討たれた慈仁坊殿も四旗でしたね」
「――は。我が同輩でした。つけくわえれば、それがしの恩人でもあります」
それを聞き、事の次第を察したクライアは小さく息を吐き出した。
たしかゴズの話では、慈仁坊の任務は皇帝の勅命だったはず。四旗としても早急に手を打たねばならないが、それにはドラグノート公に与している空を排除する必要がある。
ようするに、ラグナが四旗を動かしたのはクライアを助けるためではなく、四旗をそそのかして空を討たせるためだ。
式部はそれに気づかなかったのか、それとも気づいていながら知らぬふりをしたのか。
ひょっとすると、空の実力を証明する第一の試練のつもりなのかもしれない。
「ヘイジン殿」
「は」
「私を助けるためにここまで来てくださったこと、心から感謝いたします。ですが、私は今イシュカから離れるわけにはまいりません。司馬が報告した空殿の武勲はまことのもの。空殿が島に戻れば、皆がそのことを認めるでしょう。御館様は、空殿の力量が証明されれば鬼人のことを任せてもよいと仰せになったのですよね? そうなれば、空殿は何の問題もなく私を解放してくださるでしょう。このこと、御館様にお伝えください」
「……かしこまりました」
「繰り返しますが、幻想種を討った空殿の武勲はまことのものです。あなた方は他にも命令を受けているようですが、決して空殿や、空殿の周囲にいる者に手を出してはなりません。これは空殿に敗れた私からの忠告です」
「――お言葉、たしかにうけたまわりました」
ヘイジンはそういって頭を下げた後、足音をころしてその場を立ち去った。
残ったクライアは軽く唇をかむ。
今、ヘイジンはクライアの言葉を「うけたまわった」といっただけで忠告に従うとはいわなかった。つまりはそれが答えなのだろう。
「四旗にしてみれば、勅命を果たすためにも空殿は除かなければならない相手。それはわかるのですが……」
ただでさえ四旗は他隊に軽く扱われている。その上で勅命をしくじったとなれば、当主からの評価は地に落ちる。これではどうあっても空と四旗はぶつからざるをえない。
このことを空に告げるべきだろうか。
だが、これを空に伝えるのは鬼ヶ島に対する明白な裏切りである。
かといって、伝えずにいればどうなるか。
空は四旗の動きを見透かしてクライアをイシュカに戻した節がある。クライアの無言は四旗に通じた証と判断されてしまうだろう。
右に進んでも左に進んでも袋小路しか見えない。こんなことなら洞穴暮らしを続けていた方が気楽だった――そんなことを考えながら、クライアは来た道を引き返す。
どうするべきかと内心で自問しながら。