閑話 クライア・ベルヒ①
かぽーん……と。
どこからか、そんな音が聞こえてきそうな浴室で、クライア・ベルヒはきゅっと目をつむりながら湯船につかっていた。
檜でつくられた浴槽は驚くほど大きく、思う存分手足を伸ばすことができる。
ティティスという森の一隅で洞穴暮らしを強いられていた身にとって、あふれるほどの湯に身をひたす快感は何物にもかえがたいものだった。
「ふふ、あれはあれで趣深い経験ではありましたけれど、ね」
湯船の水をすくい、肩から腕にかけてゆっくりとかけながら、クライアはくすりと笑う。
別段、皮肉ではない。あの洞穴、なぜだか生活に必要な物資はそろっていたし、個人で使える小型の天幕まで設えられていた。もちろん、それらは「野宿よりマシ」程度のものに過ぎなかったが、クライア自身が質素な生活を好むこともあって不自由はまったく感じなかった。
事実上の虜囚とはいえ、行動の自由は保証されていたので、むしろベルヒの屋敷より住み心地がいいと感じたくらいである。
どういうことかというと。
クライアの養家であるベルヒ家は、多くの才能ある子供を養子として自家に迎え入れ、子供同士を競争させて人材を育てあげる。
ベルヒ家の役に立たぬと思われた者は犬猫のように捨てられる。そうなりたくなければ、他の子供たちに勝つしかない。結果として、同じ境遇の仲間を蹴落とすことになるのだとしても、そうする以外に道はないのである。
クライアと、弟のクリムトはそうやって成長してきた。
ベルヒの屋敷で生活する子供たちには教師という名の監視役が張り付き「この子供はベルヒ家のためになるや否や」と目を光らせる。そんな状況で心身が休まるはずもなく、子供の中には追い詰められて精神に異常をきたしてしまった者もいる。
クライアは弟のおかげでそこまで追い詰められることはなかったが、それでも常に家人の目を意識しなければならない環境は苦痛だった。
――その苦痛が、洞穴の暮らしにはない。それがどれだけクライアの心を安らがせたことか。おそらく空は想像もしていないだろう。
正直なところ、クライア自身も驚いているくらいなのである。自分は、これほどまでに屋敷での生活を厭うていたのか、と。
「いっそのこと……と考えてしまうのは、さすがに都合がよすぎますね。それに、洞穴は洞穴で問題がないわけでもありませんでしたし」
そういうクライアの頬は、湯の熱さとは異なる理由で赤くなっている。
洞穴での暮らしはクライア一人か、あるいは空とクライアの二人、というのがほとんどだったが、ときおりエルフの女性が空に同行してくることがあった。
ルナマリアという名のエルフに問題があったわけではない。クライアは幾度かルナマリアと言葉をかわしたが、言葉の端々から聡明な人となりが伝わってきた。クライアに対する警戒はあったが、女性の暮らしにまつわる細かな部分――空が思いつかず、クライアからも求めにくいところ――を察して色々と取り計らってくれた。
出会う形が違えば友人になりたいと思ったことだろう。彼女や、彼女の仲間を殺そうとした身には言うをはばかられることだが。
ともあれ、ルナマリアの人柄に問題はなかった。問題は、彼女と空が洞穴で夜を明かすときに、あちらの天幕から聞こえてくる睦み声である。
あれにはまいった、とクライアは両手で顔を覆う。
当初はこちらに対する変則的な脅迫――お前もじきにこうなる的な――だと勘違いしたほどである。
しばらくすると、単にクライアのことなど眼中にないだけだ、とわかったのだが。いや、ひょっとすると、その手のことに慣れていないクライアをからかう意図もあったのかもしれない。
「いけない。また思い出しちゃった……」
湯船の中でふるふるとかぶりを振るクライア。湯に触れないように結い上げた髪が、水気を吸って重たげに揺れている。
修行修行剣術剣術任務任務という日々を過ごしてきたクライアにとって、洞穴での暮らしは様々な意味で刺激が強すぎた。
今日、クライアは洞穴から空の屋敷に居を移した。もちろん空の命令によるものだが、クライアにしてみれば、残念なような、そうでもないような、なんともおかしな気分だった。
「少なくとも、こうしてお風呂に入れることは喜ばしいことですが……」
そんなことをつぶやきつつ、どうして空は急に自分を家に連れて来たのか、と首をひねる。
つい昨日まで、空はクライアに対してイシュカのイの字も口にしなかった。それが今日になって、急に洞穴を引き払う旨を伝えてきたのである。
クライアを気づかってのことではあるまい。空はクライアに対して乱暴な真似は(稽古のときをのぞいて)しないが、だからといってクライアたちがイシュカでやったことを許したわけではない。それは言動を見ていればわかる。
クライアが空の意に背けば、即座に斬りかかってくるだろう。
あえてクライアを鬼人の子に近づけることで、クライアの真意を見定めようとしているのかとも思ったが、それでは鬼人の子を危険にさらすことになる。
鬼人の子に対する空の振る舞いを見れば、それはないだろう。
実のところ、クライアはこうしている間にも空が浴室に入ってくる可能性を考えていたのだが――ちらと浴室の入り口を見ても、扉はぴくりとも動かない。どうやらこの推測も外れたようだ。
「これも無駄になりましたか。とんだ独り相撲です」
苦笑しつつ、結った髪の毛の中から細い剃刀を取り出す。
浴室に入ってからはじめて、本当の意味で肩の力を抜いたクライアは、ほぅ、と安堵の息を吐いた。
そのまま天井を見上げ、静かに紅い目をつむる。
「……クリムトに怒られちゃいますね。何で敵の家でくつろいでいるんだ、って」
楽しげに口元を緩めながら、クライアはもう一度、小さく息を吐き出した。




