幕間 鬼ヶ島にて③
「恐れながら御館様に申し上げます!」
膝を進めて声をあげたクリムトに対し、周囲から鋭い視線が突き刺さる。
青林八旗におけるクリムトの席次は第七旗の七位。いまだ二十歳に届かぬ弱冠の旗士としては優秀すぎるほど優秀だったが、この場にいる四卿八将から見れば青二才の域を出ない。
そのクリムトが当主である式部に対して直接に物をいうのは、僭越のそしりをまぬがれない行為であった。
むろん、クリムトもそのことは承知している。だが、この状況で黙っていることはできなかった。
『クライアを助けたければ命がけで俺の要求を通せよ。さもないと、お前の姉は死んだ方がマシだと泣き叫ぶ目に遭うぞ。どうして男のおまえじゃなく、女のクライアを人質に残すのか、わざわざ説明する必要はないよな?』
ティティスの森で剣を交えたときの空の言葉が脳裏をよぎる。知らず、クリムトはきつく奥歯を噛んだ。
むろん、クリムトはバカ正直に空のいうことに従う気はない。
だいたい、ゴズやクリムトがなんと主張しようとも、空の要求が受け入れられるわけがないのである。式部は必ずや空の追討を命じるだろう。
空がいかに強く、空の同源存在がいかに強大であろうとも、八旗の精鋭をことごとく退けることは不可能だ。である以上、経過はどうあれ、最終的に空が敗北することは確定している。
クリムトとしては、追討部隊が空と接触する前に姉クライアを助け出す必要があった。鬼ヶ島が要求をはねつけ、追討部隊を差し向けたと知れば、空はためらうことなくクライアに襲いかかるに違いないからである。
――問題は、この考えをクリムト以外の旗士たちが共有してくれるかどうかだった。
空追討に派遣された旗士が、襲撃に先んじてクライアを助けてくれるなら問題はない。だが、敵に襲撃を悟られる危険を冒してまで人質を助ける――そんなぬるい戦い方は青林八旗の軍法に存在しないのだ。
何の罪もない女子供が人質にとられたならともかく、クライアはれっきとした青林旗士であり、敗北の結果として虜囚の身になった。であれば、その身に何が起きようとも敗れた当人の責任だ。
たとえばの話、もしクリムトがベルヒ家とは何の関係もない第三者で、主君から空の追討を命じられたとして、人質になったクライアになんらかの配慮を示すだろうか。
答えは決まっている。人質の無事など一切考慮せず、標的を始末することに全力をあげるだろう。結果として人質が助かればそれでよし。助からなかったとしても、それは人質にとられた者の未熟が原因であり、クリムトが気に病む必要はないのである。
それがわかるゆえに、クリムトは僭越を承知の上で式部に訴えようとした。今回の任務、空の追討だけでなくクライアの保護も要件に加えてくれるように、と。それがかなわないのであれば、追討の人員に自分も加えてくれるように、と。
本来であれば、こういった行動はクリムト、クライアの養父であるギルモアによって行われるべきであったろう。
だが、ギルモアはベルヒ家の勢力拡大にしか興味がない男で、口では何といおうとも、クリムトたちのことを栄達のための道具としか見ていない。クリムトはそのことを知っている。養子としてベルヒ家に集められた子供たちの多くは、道半ばで弊履のように捨てられていった。
黄金世代のひとりでさえ、養父にとっては使い捨ての道具に過ぎない。ましてや敗北して虜囚となった者など、ギルモアは一顧だにすまい。クライアを助けられるのは弟であるクリムトだけなのだ。非礼を承知で当主に直訴しようとしたのも、クリムトなりに必死に考えた結果であった。
――だが、結論からいえば、クリムトはただの一言も主君に直訴することが出来なかった。
膝を進めたクリムトが、式部に向かって姉の保護を願おうとした寸前、クリムトの頭部を強い衝撃が襲った。
反応する間もなかった。何が起きたのかさえわからなかった。気がついたときには、クリムトの頭は畳に叩きつけられていた。頭蓋が砕けたかと錯覚するほどの激痛に声もなく悶えていると、氷のように透徹した声が耳にすべりこんできた。
「たわけ。一介の旗士が何のゆえをもって御館様に無礼を為す」
クリムトの頭を左足で踏みにじっているのは、一瞬前まで式部の右に座していた白肌黒髪の剣士だった。
第一旗一位。有事においては当主になりかわり、青林八旗の指揮をとる役割を帯びるこの人物の名をディアルト・ベルヒという。
司徒ギルモアの実子であり、クリムトにとっては兄にあたる。もっとも、クリムトにせよ、クライアにせよ、ディアルトのことを兄と呼んだことは一度もなかったが。
ベルヒ家において、実子と養子とでは教育から食事から何もかもが異なる。ましてやディアルトは次期当主にして第一旗将。クリムトたちとの扱いの差は文字通り雲泥といってよかった。
「……も、申しわけ――ぐぶッ!?」
謝罪しようと口を開いたクリムトだったが、その言葉は再度ディアルトによって制止される。力ずくで畳と接吻させられる、という形で。
「黙れ。きさまにはこの場で声を発する資格さえない」
わきまえよ。そういってディアルトは足にかける力を増していく。その圧力に耐えかねたのか、畳ごしに床がみしみしと鳴っているのがわかる。あるいは、それはクリムトの頭蓋がきしむ音であったかもしれない。
間近で兄弟のやりとりをきいていたゴズが、さすがにこれは止めなくては、と動きかけたときだった。
不意にゴズの視界の中でクリムトの姿が消えた。すぅっと畳に――いや、畳に映った影に潜り込むように、クリムトの身体が消失したのである。
クリムトの姿が消えた後、ディアルトの左足が畳に接するが、足袋に包まれた足はしっかりと畳を踏みしめている。当然だが、沈みこむ様子は一切ない。
では、直前のクリムトはいったいどこに消えたのか。
「懲罰にしては度が過ぎていませんか、旗将」
そういったのは当主 式部の左に座していた褐色の肌と鈍色の髪の持ち主だった。
第一旗二位。当主直属の第一旗の副将を務めるこの人物の名を九門淑夜という。
淑夜の前にはうめき声をあげるクリムトが横たわっている。いかなる手段によるものか、淑夜はディアルトに踏みつけられていたクリムトを一瞬で自分の前に運んだのである。
ディアルトは眉一本動かさず淑夜に応じた。
「その無礼者は我が家の者。身内の恥を裁くのに遠慮はいるまい」
「ベルヒの家法に口を出すつもりはありませんが、今は衆議の時。御館様の思慮を妨げてはなりますまい」
能面のように表情を動かさないディアルトとは対照的に、淑夜は人好きのする笑みを浮かべて上官を諌める。
のみならず、淑夜は次のように続けた。
「それに、実の姉が敵の手に捕らわれているのです。多少の無礼は大目に見てあげるべきでしょう。僕が彼の立場でも、平静でいられるとは思えません。まして、その敵が御曹司とあっては――」
そこまでいったとき、淑夜は何かに気づいたように口をつぐんだ。そして、ばつが悪そうに場の一角に座る御剣ラグナを見る。
「失礼。御曹司ではなく、先の御曹司でしたね。先の御曹司がゴズのいうがごとく、竜種を討つほどの力を身につけたのだとしたら、これはなかなかもって一筋縄ではいかない事態だといえます。人質をとられたベルヒ家のためにも拙速は慎まねばなりますまい」
「無用の斟酌だ。クライアが敵の手に落ちたは未熟ゆえ。未熟者の命を惜しんで滅鬼封神の掟を守れようか」
ディアルトが応じると、淑夜はくすりと笑って言い直した。
「なるほど。それでは言葉をかえましょう。ベルヒ家のためではなく、御剣家のため、ここは拙速を慎むべきでありましょう。大いなる才を秘めた黄金世代の一角を、こんなところで失うのはあまりに惜しいと僕は思います」
そういうと、淑夜はかたわらの式部に身体ごと向き直り、深々と頭を垂れた。
「御館様、よろしければ今回の任、僕にお任せいただけませんか。先の御曹司とかけあい、人質を解き放った上で御館様の御前に先の御曹司をお連れしたく存じます」
仮に空が拒絶したとしたら、そのときは力ずくで事を成せばよい――淑夜はそこまで口には出さなかったが、いわんとすることはこの場にいる全員に伝わった。そして、淑夜ならば間違いなくそれができるだろう、と全員が判断した。
もともと、式部は島外の出来事にあまり関心を示さない。双璧のひとりが進んで名乗りをあげた以上、事は決したも同然――そんな風に考えていた者たちにとって、次の式部の台詞は予想の外だった。
「ならぬ。このところ、鬼門が騒がしい。乱が起きる兆しであろう。このようなときに淑夜、おぬしを島から出すわけにはいかぬ」
この答えは淑夜も意外だったようで、目を大きく見開いて応じた。
「鬼門が……申し訳ございません、気づきませんでした。無用の献策をしたことをお詫びいたします」
「よい。兆しはまだかすかなもの。今日明日に事が起こることはあるまい。だが、半年、一年と先のことでもない。いかなる事態にも対応できるよう、青林八旗は備えを怠らぬようにせよ」
『ははッ!』
淑夜だけでなく、ディアルトや他の旗将、副将が声をそろえる。
ここでギルモアが口を開いた。
「御館様、それではこたびの件はいかがなさいますか?」
鬼門に動きがあるのなら、双璧はもちろんのこと、他の旗将、副将も動かせない。かといって、平の旗士を送り込んでもゴズたちの二の舞であろう。
相手の要求を放置して焦れさせるのも一つの手ではある。こちらは人質など意にも介していないと知らせれば駆け引きの余地も生まれよう。
ただ、ゴズの報告の重要性を考慮すれば、これは下策といわざるをえない。なにより、敗北をそのままにしておくのは武門の家として屈辱である。
誰もが頭をひねる中、式部は淡々と配下の問いに応じた。
「空には島に来るように伝えよ。竜種を討った実力が真ならば、鬼人のひとりやふたり、任せても問題はない」
それを聞き、えたりと顔をあげたのはゴズだった。
理由はどうあれ、式部が空との戦いを選ばなかったことが嬉しかったのである。
「御館様、それではそれがしがカナリア王国まで出向き、空殿を説得いたしま――」
「不要」
「……は?」
勢い込んで口にした言葉をばっさりと断ち切られたゴズが、困惑もあらわに目を瞬かせる。
そんなゴズに向けて、式部は何でもないことのように続けた。
「司馬たるおぬしが出向くまでもない。書状で済ませればよかろう」
「それは……御館様、おそらくそれでは空殿は島に来ないものと存じまする」
カナリア王国で対峙したときの、敵意に満ちた空の眼差しを思い起こす。鬼ヶ島に出向いて実力を示せば、鬼人のことを任せてもよい――そんな書状を出したところで、空は決して鬼ヶ島にやってこようとしないだろう。
それどころか、その書状を読むや、自分の要求が退けられたと判断して人質のクライアを傷つけかねない。
そんなゴズの不安に対し、式部は思いもよらぬ答えを用意していた。
「かまわぬ。書状を出せ。その際に島に来る日付を指定してやるがよい」
「日付、でございますか?」
「そうだ」
そういって式部が口にした日付を聞いた瞬間、ゴズは主君の意を悟って目をみはった。
その反応を示したのはゴズだけではなく、他にも数名が式部の狙いに気づいて驚きをあらわにしている。
その日付は今日から数えて一月後。夏が終わり、秋を迎える季節。
空の母、御剣静耶の命日であった。