幕間 鬼ヶ島にて②
「まったく、あきれ果てて言葉も出ぬわ、ゴズ・シーマ!」
そういって畳に拳を叩きつけたのは『文』の面で御剣家を支える四卿のひとり、司徒ギルモア・ベルヒ。
近年、鬼ヶ島において隆盛いちじるしいベルヒ家の当主であり、司徒として御剣家の人事と財務をつかさどる。ゴズの後ろで平伏しているクリムトの養父でもあった。
もっとも、ギルモアの視線はゴズにのみ注がれており、後ろで平伏するクリムトには一瞥すら与えていない。
ギルモアはそのまま言葉を続けた。
「ここは公の場ゆえ、我が娘クライアのことはひとまず措こう。だが、青林の旗士、それも司馬の職を拝する者が、島外の人間に敗れて逃げ帰るとは何事か! しかも、その失態を糊塗するため、御館様に対して戯言を弄するなどもってのほかであるッ!」
「これはしたり」
ギルモアの怒声に、ゴズは冷静に言葉を返した。
「敗れて逃げたは事実、言い訳はいたしませぬ。なれど、御館様に対し奉り、戯言を弄したおぼえはござらぬ」
「黙るがいい。五年前、試しの儀を超えられずに島を追われた無能者が、青林旗士三人を同時に相手どって勝利をおさめたというだけでも信じがたくあるに、そのうえ単身で幻想種を討ち果たしただと? これが戯言でなくて何だというのだ!?」
「戯言ではなく、事実でござる」
応じるゴズは、言葉も態度も淡々としたものだった。が、実のところ、内心は外見ほどに穏やかではない。
カナリア王国で空に敗れた後、一刻も早く当主に報告せねばと治療の時間も惜しみ、夜を日に継いで駆け戻ってきた。そうして、この場にのぞんでいる。本音をいえば、今すぐ大の字になって眠りたいくらいのものだった。
だが、宰相気取りで御剣家を切り回そうとする者相手に無様な姿をさらすわけにはいかぬ、とひそかに歯をくいしばって平静を装っている。
そんなゴズの思いが伝わったわけでもあるまいが、ギルモアの目がぎらつくような光を帯びた。
「ゴズ・シーマ、察するにおぬしは偽功をもってあの無能者の勘当を解くつもりであろう。次いで帰参した彼の者を嫡子の地位に戻し、おぬし自身はその二なき家臣として権勢を振るう心算とみた。そうと考えれば、今の妄言にも得心がいくというものよ!」
それをきいたゴズは、さすがに眉根を寄せて反論する。
「待たれよ、司徒殿。それは誹謗というものだ。そも、それがしが小細工を弄して未熟な空殿を帰参させたところで、試しの儀をおこなえばすべては水の泡。そのような見えすいた詐謀を弄するわけがござらぬ」
「さよう、正気の者ならこのような見えすいた真似はせぬだろう。だが、今のおぬしは果たして正気であろうか? 竜牙兵相手に一合と打ち合えなかった者が、わずか五年で第一旗三位のおぬしと青林旗士二名を打ち破るほどの強さを得た。しかも空装を出した上でのこと、とおぬしはいう。のみならず幻想の王たる竜種を討ち果たしたなどと、子供の作り話にしても出来が悪いわ。とうてい正気の言とは思われぬ」
なんならこの場で衆議にかけようか、とギルモアはうそぶく。
今、この場には当主である御剣式部をはじめ、司徒、司空、司寇、司馬の四卿と、青林八旗をたばねる八人の旗将、八人の副将がそろっている。
御剣家の文武の精髄ともいえる面々に対し、ゴズ・シーマが正気であるか否かを問おうではないか、とギルモアはいっているのである。自信満々にそんな提案ができるほど、ゴズの報告は信じがたく、また受け入れがたい内容だった。
ギルモアにしてみれば、ゴズから司馬の地位を奪い、空いた席に自分の一族を押し込む好機である。ベルヒ家はすでに四卿のうち司徒と司寇の二つを占めている。ここで司馬の地位までも占有できれば、鬼ヶ島におけるベルヒ家の権勢は不動のものになる。自然、ゴズを貶める舌の回転も早まろうというものだった。
ゴズとギルモアが言葉の応酬を繰り広げている間、周囲の者たちはどちらにも与せずに傍観している。
権勢欲が強く、当主の威を借りて家政を牛耳るギルモアに反感を抱く者は少なくないが、かといって荒唐無稽な報告をしたゴズの肩を持つのもためらわれる――集まった者たちの顔にはそう書いてあった。
自然、一座の視線は上座に座る当主 御剣式部に注がれる。
司徒と司馬の争いを制することができるのは、同格の四卿でなければ主君だけだ。
そういった家臣たちの視線を感じ取ったのか、あるいはもともと二人に言いたいだけ言わせてから話を引き取るつもりだったのか、当代の剣聖は静かに口を開いた。
「――ゴズよ、一つ問う」
式部が口を開くや、ゴズとギルモアはそろって姿勢を正し、その場で頭を垂れた。
「は、なんなりと」
「カナリアでの戦い、そなたは本気で戦ったのか?」
むろん本気で戦いもうした――ゴズはそう答えようとして、ためらった。
一呼吸した後、ゴズはあのときの一戦を脳裏に思い描きながら口をひらく。
「それがしは空殿を御館様の御前にお連れするべく戦いもうした。ゆえに、鬼門の魔物と戦うように空殿と戦ったとは申しあげられませぬ」
命まで取ろうとは思わなかった。心構えの上で敵として見ることもできなかった。
傅役として、それこそ赤子の時から面倒をみてきた相手である。本気の敵意、本気の殺意を向けられるはずがない。
――ただ、それでも、決して手を抜いて戦ったわけではなかった。
「その上で申しあげまする。それがしは空殿と本気で戦い、敗れましてございます、御館様」
「……そうか」
ゴズの返答に式部はひとつうなずくと、すっと目を閉ざした。
空は御剣家に対して要求を――御剣家は今後一切スズメに手を出すな、という要求を突きつけてきた。その対応について思慮をめぐらせているのだろう、とゴズは思った。
ゴズはかしこまって主君の答えが出るのを待つ。
式部がどのような答えを出すかはゴズにもわからない。事は鬼人に関わるので、唯々として空の要求を呑むことはないだろう。だが、スズメを排除しようと思えば空と戦わざるをえない。
今の空を倒そうと思えば、かなりの戦力を島から割かざるをえない。鬼門の脅威と対峙し続けている御剣家にとって、それはできるかぎり避けたい事態である。空を倒したところで、得られる戦果は鬼人の少女ひとりとあっては尚のことだ。
鬼ヶ島の防備を危うくしてまで鬼人を狩る必要はない――式部がその結論を出すことをゴズは願っていた。
カナリア王国での空との再会は禍根ばかりを残すものとなってしまったが、時間をおけばまた違った話ができるかもしれない。そう考えていたからである。仮にスズメが鬼神に憑かれたとしても、今の空であれば問題なく対処できるだろうという確信もあった。
ただ、ゴズには一つだけ危惧があった。空を討つための戦力抽出を最小限にとどめる方法が存在するからである。
すなわち、単身での空討伐。
今の御剣家にはそれを可能とする使い手が、少なくとも三人いる。
ゴズはちらと正面を見やった。視界に映るのは当主である御剣式部と、その式部を護るように左右に座する二人の剣士。
右に座る者は、抜けるように白い肌と、女性と見まがう長い黒髪の持ち主である。
左に座る者は、浅黒い褐色の肌と、鉄を思わせる鈍色の髪の持ち主である。
対照的な外見を持つ二人はいずれも類を絶した剣士だった。青林八旗の精鋭が一堂に集ったこの場においてさえ、この形容はいささかも揺らがない。
御剣式部という稀代の神才と同じ時代に生まれなければ、どちらも確実に剣聖の座に手が届いたといわれている。
当主である式部と、その麾下にあって双璧と謳われる二人。この三人であれば、単身で空を討ち果たすことができる。それこそ全力でカナリア王国まで駆けていき、空を討って鬼ヶ島に駆け戻ってくるまで三日とかかるまい。
それがゴズの不安の源だった。
もっとも、当主である式部が鬼ヶ島を離れることはまずありえないし、双璧の二人にしても第一旗の旗将と副将という任務があるため、鬼人の少女ひとりのために島を離れるとは考えにくいのだが。
ただ、勘当した息子の成長を式部がどのように見るのか、そして不遜ともとれる息子の要求をどのように感じたのかは式部にしかわからない。
ゴズも、ギルモアも、その他の家臣たちも息を詰めて式部の指示を待った。
だが、ただひとり、当主の指示を待たずに動いた者がいた。ゴズの後ろに控えていたクリムトである。
この場で発言権があるのは当主を除けば、四卿と青林八旗の旗将、副将までである。それ以外の者たちは傍聴こそ許されるものの、己が意見を口にすることは許されない。
これは宗家の嫡子でさえ例外ではなく、御剣ラグナは先刻からぎりぎりと歯をかみ締めつつ、袴をきつく握り締めて発言をこらえている。
そんな会議の場において、クリムトは必死の形相で当主に向かって声を張り上げた。