第九十九話 毒の王
――忌々しい。忌々しい。忌々しい。
近づいては離れ、離れては近づき、あたかも蝿か蚊のごとく己につきまとう存在に対し、『それ』は――ヒュドラは苛立ちをおさえきれずにいた。
毒の息吹は得体の知れない勁砲でかき消される。
牙で噛み砕こうとすれば猿のごとく逃げまわり、尾で打ち据えようとすれば飛鳥のごとく飛び上がる。普通の生き物ならヒュドラの猛毒を恐れて近づくこともできないのに、この人間は恐れる色もなく攻撃をしかけてくる。
胸奥から沸きあがる不快感に耐えかねたヒュドラは、もはや容赦せぬとばかりに高々と咆哮をあげた。
八つの首がまっすぐ空に向かって伸び、天地を軋ませる轟音がほとばしる。
竜の咆哮。竜の魔力を帯びた咆哮は単なる「音」ではない。それは聞くモノの心を圧殺する「魔法」であり、ただ一度の咆哮をもって万の軍勢を壊乱させることも可能な音響兵器だった。
一度の咆哮にそれだけの力が込められているのだ。八つの首すべてを用いた八重咆哮の威力たるや、もはや神器の領域である。間近で浴びせれば、人間など魂魄さえ残さず消し飛ばされる――そのはずなのに。
「隙だらけだ、間抜け」
至近で咆哮を浴びせられた人間は少しも堪えた様子を見せず、それどころか口元に嘲笑を湛えて黒い武器を一閃させる。
八本ある首はそれぞれが咆哮をあげるために空に向かって伸びていた。人間が繰り出した攻撃はその無防備な首筋を直撃し、首のひとつをあっさりと切り飛ばしてしまう。
残った七本の口から遠雷の轟きにも似た苛立ちの声が漏れた。
血肉さえ猛毒で出来ているヒュドラに痛覚というものは存在しない。ゆえに、頭部を切り落とされたところで痛みを感じることはない。傷口はすぐに再生するので戦う力が損なわれるわけでもない。
だというのに、この人間の攻撃は言い知れぬ不快感を与えてきた。今に始まった話ではない。この人間が現れてからずっとそうだ。その理由がわからないことがなおさら苛立ちをかきたてる。
その苛立ちを吐き出すように、ヒュドラの七つの口から同時に毒の息吹が放たれた。
正面から、上から、右から、左から、様々な角度から放たれた息吹のすべてをかわすのは至難の業だったはずだが、人間は軽々と跳躍してこれを避ける。
しかし、これはヒュドラの思惑どおりだった。
宙に飛んだ人間めがけて強靭な尾がうなりをあげて襲いかかる。それ自体が下級の竜を思わせる野太い尾。地面に立っていた先刻とは異なり、空中に飛び上がっている状態からでは回避もできない。これには人間も成すすべがないものと思われた――が。
『ルゥオオオォォオオオオ!?』
轟くような苦悶の叫びを発したのは攻撃したヒュドラの側だった。
避けようもない速度と威力で人間を打ち据えようとした尾の先端が宙を舞っている。人間が振るった黒刀の一撃で切断されたのだ。
傷口から多量の血肉が飛び散って周囲に降り注ぐ。当然のようにそれらは飛沫となって加害者を襲ったが、骨すら残さず溶けてしまう猛毒が効力を発揮することはなかった。
人間の体をよろう不可視の防壁が飛沫の付着をさえぎったからである。
「ハハハハハ! やっぱり直接斬った方が喰いでがあるな! それに、返り血程度なら勁で防ぐこともできる、と。これで遠くからちまちま斬る必要もなくなった」
――それにまあ、毒に侵されたら侵されたで、患部を切り離して再生すればいい。
そういって心地よさげに哄笑する人間の声はヒュドラには届かない。それどころではなかったのだ。
これまで首を何本切断されようと、不快感をおぼえこそすれ、叫び声をあげたりはしなかった。それが今になって苦悶の叫びを発したのは、尾を斬られた瞬間に己の一部を喰いちぎられる感覚が鮮明に伝わってきたからである。
繰り返すが、ヒュドラに痛覚というものは存在しない。存在しないが、それでもその感覚は痛みとしか形容できないものだった。
『グゥゥゥリィィィイイイ!!』
ひときわ甲高い声を発するや、ヒュドラは今しがた切断された尾を除いた残り七本の尾を全力で地面に叩き付けた。
今や毒液の海と化している地面――否、水面は凄まじい尾の衝撃を受けて爆発したように毒液を飛散させる。
飛び散った毒液はそれ自体が攻撃としての役割を果たしていたが、ヒュドラの狙いはそこではなかった。ヒュドラが尾を叩き付けたのは、それによって浮力を得るため――つまるところ、ヒュドラはその場で飛びあがったのである。
「うお!?」
これは予想していなかったのか、人間の口から驚きの声が漏れる。
その眼前で、山のごときヒュドラの巨体が水面から離れて高々と宙に浮かび上がった。離水の衝撃で水面は大きく揺れ動き、嵐の海に等しい荒れようを見せる。もし人間が舟なり板なりに乗っていたのなら落水を免れなかっただろう。
だが、激しく波打つ水面の上で人間は平然と立ち続けていた。発生した毒の高波に対しても、黒刀を振るうことで瞬時に斬り散らしてのける。
それらはヒュドラの予想外の挙動に対する最善最速の対応だったが、幻想種の思惑には続きがあった。
このとき、すでにヒュドラの巨体は人間の真上にあったのである。
山とみまがう巨体がはっきりと宙に浮かんでいる様は圧巻といえたが、飛び上がれば落下するのが自然の法則というもの。そして、どれだけ人間離れした生命力があろうとも、あるいは毒に対して耐性があろうとも、巨大質量の下敷きになれば助からない。
足元にたかる虫けらを己の体で押しつぶす。それがヒュドラの狙いだった。
仮に虫けらが下敷きを免れたとしても、着水の衝撃で発生する毒液の氾濫は離水のときとは比べ物にならないだろう。忌々しい虫けらが毒で死のうが溺れて死のうが、ヒュドラにとっては大差のないことであった。
これに対して人間は――
「自分から弱点をさらしてくれるとは親切なことだな」
左手を頭上に掲げながら笑っていた。その異様な振る舞いを、空中にいるヒュドラは知覚することができない。
ゆえに、次に人間がとった行動に対処することもできなかった。
『我が敵に死の抱擁を――火炎姫』
解き放たれる第五圏の火炎魔法。応じて現れ出でる炎の腕の数はあわせて七本。その太さは百年の歳月を閲した大樹を思わせ、唸りをあげて頭上のヒュドラ、その腹底へと襲いかかる。
並の竜ならこの程度の炎は鱗で弾いてしまっただろう。だが、全身が猛毒で腐乱しているヒュドラの鱗に本来の竜鱗の硬さは残っておらず、さらにいえば炎による攻撃が再生を阻むことも立証されていた。
腹より上の傷に関してはヒュドラ自身が傷口を喰いちぎるという荒業で対処できるが、腹の底の傷ともなればそれも難しい。
むろん、空中で姿勢をかえて魔法を避ける、などという器用な芸当も不可能だった。
『グルゥオオオォォォオオオオ!!?』
同じ箇所を実に七度、続けざまに炎の魔法で撃ち抜かれたヒュドラの口から巨大な叫喚がほとばしる。たとえ痛みはなくとも、腹を突き破られ、臓腑を焼かれる感覚が快かろうはずがない。
火炎姫の魔法は銛のごとくヒュドラの胴体を穿ち、深々とした縦穴をつくりあげていった。火による攻撃ゆえに再生も始まらない。
とどめとばかりに人間が繰り出した鋭い刺突が決定打となり、ヒュドラの胴体に大穴が開く。人間はその穴に飛び込んでヒュドラの押圧から逃れ、ついでに着水の衝撃からも逃れた。そして、そのまま体外への脱出にも成功する。
もはや恐れる色もなく平然とヒュドラの鱗の上に立った人間は、ぶるりと身体を震わせると吼えるように笑った。
「ハッハァ! さすがは竜種、さすがは幻想種! 身体に穴ひとつ穿っただけであっという間にレベル『13』か! これなら何時間、何十時間でも戦える――いや、どうか戦ってくださいとお願いしないといけないな! 頼むから逃げるな、それと簡単にくたばってくれるなよ、毒の王!!」
その言葉が意味するところは、あいかわらずヒュドラにはわからない。わからないが、それでも己がひどく侮辱されていることは伝わってきた。
――不遜、不遜、不遜。
ヒュドラの胸裏に瞋恚の炎がともる。
みずからを滅ぼす存在を許容することはできない――そんな自己保存にしたがって覚醒した幻想種が、自己保存とは似て非なる「怒り」という感情にしたがって行動を開始する。
それは竜巻が怒りによって進路を変えるにも似た、あるいは地震が怒りによって震度を変えるにも似た、本来ならば起こるはずのない出来事。
人という種を滅ぼすように世界に定められた幻想種が、一人を殺すために牙を剥いた瞬間であった。