“眼鏡屋”
“眼鏡屋”と呼ばれている情報屋は、セカンドバベルの繁華街でも指折りに大きな区画に住んでいる。
観光客向けの店が入った四階建てのビルの裏手に車を止めると、トッドは少し錆の浮いた非常階段を軋ませながら上がっていく。
「来なくて良いと言っただろう」
鉄の階段を足音一つさせずついてくるステフに、トッドは呆れながら振り返った。気配を消すのをやめたステフは腰に手を当てて口を尖らせる。
「いいじゃん。あたしいれば、今日のご飯代くらいは値切れるでしょ」
「下手にあいつの要求に返事するなよ。てか、お前は口をきくな。調子に乗るあいつを、俺が撃ち殺さないとも限らん」
トッドが掴んだ手すりが軋んだ。冗談で言ってない事は一目で分かる。
「せめてあたしが弾掴める銃でやってね。ダディが人殺しするの、あたしはやだし」
軽く言うが、こちらも冗談で言ってはいない。
しばらく見つめ合った後、トッドはステフに背を向けて再び階段を上り始める。
「つまらん事を言えなくなるまで殴るだけにしとく」
“眼鏡屋”の異名は、仕事場としている場所に由来している。
ビルの大きな看板の裏側を改装して作られた大きな部屋は、様々な場所に眼鏡が置いてあるか引っ掛けられている。それらは一つとして同じ物はなく、機械化や培養細胞移植による視力矯正が一般化した現在では使う者も殆どいない。
大量生産品としてアンティークとしての価値もないそれらの眼鏡を、その情報屋は好んで集め飾っていた。
「邪魔するぜ」
鍵のかかっていないドアを開けながら、トッドは奥に声をかける。
一抱えもある大型端末を背にしたテーブルの横で、当の“眼鏡屋”はソファに体を投げ出していた。
ワイシャツにスラックスを着て、異名通りに眼鏡をかけた若い男だ。モンゴロイドなのは見て分かるが、年齢もどこの生まれかも知られていない。三十にはなっていないように見えるが、二十歳くらいに見える事もある。語学に堪能で、その言葉遣いから生まれを窺い知る事は出来ない。
「やあ。美しいお嬢さんも一緒にいるようで眼福の至り」
体を起こしながら穏やかな声で言った。視線は半ばトッドに隠れているステフにだけ向けられている。
「何やら物騒な事を話していたようだけれど、出来ればやめてくれないかな。今日の眼鏡は本当に珍しい物なんだ。壊されると困る」
ふらりとセカンドバベルにやってきて、類い稀な情報収集能力と分析能力で情報屋として頭角を現した男だ。自分の住処へと続く階段で話した事なら、部屋の中で話したに等しい。
「ぶん殴られたくなければ、うちの娘に変なことを言うんじゃない」
トッドは勧められる前に“眼鏡屋”の向かいのソファに腰を下ろし、ステフもその横に続いた。
「要件は三つ。SADのここ最近の動向。ミーナ・レッティと名乗る女の正体。それと、これに記録してある暗号を解除してくれ」
ステフは“眼鏡屋”の前に小指の爪ほどのデータチップを置いた。するとサイボーグもかくやという早さで“眼鏡屋”の手がステフの伸びるが、“眼鏡屋”の指先がテーブルに触れる時にはステフの手は自分の膝上に乗っていた。
「これは残念」
“眼鏡屋”はデータチップを摘まみ上げると、大げさに落胆したように首を振りながら立ち上がる。
「もし俺の許可なくステフの手を握ってみろ。その腕、肩から引っこ抜くぞ」
「怖い怖い。私はまだサイボーグになる気はないんで、やめてくださいね」
低い脅しに“眼鏡屋”は肩をすくめ、データチップを大型端末に突っ込むと振りかえる。
「料金は通常の支払いで? 美しいお嬢さんが今履いている下着を、今この場でくれるのであれば七割引にしますけど?」
これが“眼鏡屋”の悪癖だ。
会話の端々に歪んだ性癖を混ぜてくる。ステフはかなり好みなのか、見かけたら必ずこのような事を言ってくる。
トッドがこの手の話を嫌う事を知っていてもお構いなしだ。
「ダディ、ストップストップ!」
立ち上がろうとしたトッドに咄嗟にステフが組み付いた。
トッドも多少の加減はしているが重サイボーグの人工筋肉が弾き出す力を、遙かに細腕のステフは力で抑え込んでいる。
「離せステフ。この性犯罪者、一度シメとかにゃ気が済まん」
「大丈夫、まだ未遂! 言論の自由的に許される範囲! こいつにあたしのパンツなんてあげないから!」
対する“眼鏡屋”は中指で眼鏡を押し上げると、寝癖のついた髪を両手で後ろに撫でつけながら満面の笑顔を浮かべた。
「美しいお嬢さんの可憐なお口から、パンツという単語が聞けるなんて……よろしい。一割引で引き受けましょう」
大型端末に向き直ると、投影式モニタが八つ一度に投影される。端末上に置いた両手から伝わる脳波による制御で、全てのモニタが同時に幾つもの情報や画像を表示していく。
古めかしい丸眼鏡にモニタの光を反射させながら、“眼鏡屋”の視線は目まぐるしく動き、次の情報を呼び出していく。
やっと力を抜くトッドから離れたステフは、べぇっと“眼鏡屋”の背に舌を出す。しかし“眼鏡屋”は抑えた笑いに肩を震わせた。
「二割五分っ、まけましょう!」
“眼鏡屋”の頭上に新しく投影されたモニタには、舌を出すステフの口元が大写しになっていた。
「これが言論の自由で許される範囲か? この仕事が終わったら、俺ぁこいつを海に沈めたいね」
「ま、まだ大丈夫……じゃないかなあ……」
トッドは近くの眼鏡をモニタに投げつけ、取りなすステフの顔も少し引きつっていた。
時間にして十分ほどして、やっと“眼鏡屋”は二人に向き直った。
「面白い件に首を突っ込んだようですね。生きていられれば、実入りも大きそうで」
勿体ぶる“眼鏡屋”に、トッドは太い指でテーブルを叩いて急かす。
「詳細を言え」
「まずはミーナ・レッティと言う女の話からにしましょうか。彼女はこのセカンドバベルでアクセサリーショップを開店し、その後SADのジョン・ロイドの女になった。気になるのはね、彼女、ここに来る前や来る時の公式な履歴がありません」
おどけるように肩をすくめた“眼鏡屋”は、モニタの一つにセカンドバベルの地図を表示し、各地の港とそこにやってくる船の航路を重ねて示す。
「どの船でいつ来たかも分からない。密航者はセカンドバベルに山といますが、彼女は店を開く時にありもしない情報が載った公式な書類を出して、正規の手段で店を構えていた。ちょっと用意や手際が良すぎる。書類なぞ出さなければ良かったものを」
“眼鏡屋”はポケットから小型の端末を出しながらソファに戻る。
「そこで繋がってくるのがこの暗号。七大超巨大企業やそれに準ずる大企業が使うタイプの暗号です。しかもこれは特殊な部署で流行っているものだ。これの出所は、ミーナ・レッティですね」
トッドは首肯し、“眼鏡屋”は続けた。
「申し訳ないが、暗号の完全な解読にはしばらくの時間がかかります。なので私見と推測が混じりますが……彼女、どこかの企業と繋がっているでしょうね。暗号の送付先はかなり迂回していましたが、西アジアからヨーロッパ方面という所です。これも詳細が判明し次第連絡しましょう」
不確かな事を言っているが、この短時間でそこまで判別させているのはかなりの腕だ。ネットワークセキュリティは日進月歩で進化している。様々な追尾・対追尾プログラムが溢れている中で、ここまで出来る者はそういない。
七大超巨大企業のネットワーク部門であれば、超大型量子コンピュータの助けもあって更なる追尾が出来るのであろうが、個人で市販の端末を使っていてこの速さは他の情報屋とも比べものにならない。
トッドが腹立たしいのを我慢しても、ここへ来た理由だ。
「ミーナについてはそれくらい? SADについてはどうなの?」
少し身を乗り出してステフが言うと、眼鏡越しの視線がステフの胸元に注がれた。
「美しいお嬢さんに急がされるのも、また嬉しいものです――SADは現在、ほぼ全構成員を使ってミーナ・レッティの捜索をしています。娼館の運営やら麻薬販売すら疎かにしてですよ。息をするように麻薬を売っている彼らにしては、極めて、極めて珍しい事です」
“眼鏡屋”は丸眼鏡を外してテーブルに置くと、ワイシャツのポケットに入れていた色のついた物に替えて話を続ける。その間も視線はステフの胸元から外れない。
「そこで彼らの動きに注目してみましたが、統制……いえ、行動に明確な指針がある。お二人が溜まり場で襲われた件、あれもそこに至るまでの動きにブレが少なかった」
トッドもまずそこが引っかかっていた。
あの時はまだミーナへの疑いに確証はなかったが、今となっては企業と繋がっているような人間が、ギャングの追跡をあそこまで振り切れないと言うのは明らかにおかしい。
トッドはソファの背もたれに体を預けて問う。
「SADの裏には何がいる?」
「トミツ技研」
七大超巨大企業の一つの名を即答した“眼鏡屋”は、ステフから視線を外してトッドと目を合わせた。ガラス越しの眼光は鋭く、ついさっきまで少女の胸を無遠慮に見ていたとは思えない。
「今回の件、たかがギャングとやりあうだけじゃ済みそうにありませんね。トミツ技研の工作員に動きが確認されています。人数としてはごく少数のようですが、あそこの工作員はしつこいですよ」
トミツ技研。
日本の四国に本社を置く、七大超巨大企業の一つ。今では大国や七大超巨大企業が必ず所有している、超大型量子コンピュータを世界で最初に開発した企業でもある。
超大型量子コンピュータの接続計画がなければ、セカンドバベルの建設や世界中で使われている幾つもの先進的な技術がまだ無かったと言われている。そう考えると間接的にであるが、セカンドバベル建設において最大の功労者とも言える。
その資金力を背景にした工作員は、七大超巨大企業の中でも指折りの練度と能力と噂すらされる。
「ふぅむ……確かに面倒だが、金にはなりそうだな」
トッドは顎に手を当てて思案する。
七大超巨大企業が動いているのなら、それが狙っているのは余程の物だろう。どう転がすにしても、どこかに多大な利益を生む。どこまでその利益を自分たちに動かせるかはこれからの行動次第だ。
運が悪ければ、死ぬ。
そこまで行かずとも、命があるだけで儲けものとなる可能性もある。
しかしトッドは口の端を上げ、笑う。
勝算がない訳ではなかった。
「ダディ?」
「どうやって金をふんだくるか考えてただけだ。お前が心配する事はない」
「心配はしてないよ。だって、あたしのダディだもん」
問いかけるステフの頭を撫でると、華のような笑みが返ってくる。
「いい、とてもとてもいい笑顔ですよ、美しいお嬢さん」
横合いから飛んできた“眼鏡屋”の言葉に、ステフははっとなってそっぽを向く。
自慢げにトッドは笑った。
「俺の娘だ。当然だろ」
情報料を支払い、追加で分かった事があればすぐに連絡するという約束を取り付けた二人は、“眼鏡屋”の住処から去ろうとした時、トッドだけが呼び止められた。
「ミスター。今回は最悪、七大超巨大企業のうち二つが絡んできますよ。本当に勝算はお有りですか? もし逃げるなら今が分水嶺かと」
どこか遠くを見るような視線がトッドに向けられる。
“眼鏡屋”の中ではミーナが繋がっているのが、七大超巨大企業である可能性は高いのだろう。それはトッドも分かっていた。
「俺一人なら逃げるんだがなぁ」
外に目をやったトッドは、夕暮れの空に目を細める。
「ガキに父親が逃げる所見せるのも、少しばかりばつが悪い。日頃、偉そうに父親面してる分は頼れる所を見せるのも、父親の務めってやつだ」
「美しいお嬢さんを悲しませないでください。彼女は良い子だ。とてもミスターに懐いている」
強がり混じりの本音に、柔らかく微笑む“眼鏡屋”。とても十代前半の少女に卑猥な視線を送るような男には見えなかった。
「言われんでもよく知ってるよ。だから頑張らにゃいかんのさ。父親は娘を守るもんだ――話がないなら行くぜ」
階段の下から、ステフの呼び声が聞こえてくる。
「ええ。幸運を」
手を振る“眼鏡屋”を背に、トッドは階段を降りていった。
階下に止まった車が走り去るまで“眼鏡屋”はそれを見送っていたが、踵を返すと独り言ちた。
「とても厄介な工作員がいないと良いんですがね……」
その言葉は、一陣の海風に吹き散らされていった。