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作者: 暮 勇

 子供の頃、髪が綺麗なことが自慢だった。

 川のような艷やかな煌き、腰までたっぷりとある長さ。

 誰が見ても、「綺麗な髪ね」と褒め、頭を撫でてくれた。

 母は毎晩、私を鏡台の前に座らせ、髪を櫛で丁寧に梳いてくれた。

「髪は女の命、大切に大切にするのよ」

 嬉しそうに母は私の髪の手入れをしたものだ。

 それでも今、私は、髪が憎い。


「本当にいいんですかぁ?」

 若い美容師がすっとんきょんな声を上げる為、周りの客までもが振り向いた。

 私は苦笑いを浮かべ、もう一度お願いする。

「お願いします。髪を思いっきり、切ってください。そう…顎の辺りまで」

 私は人差し指で指定の長さであるあごの辺りを指さした。

 それでも美容師は困ったような顔をしている。

「折角、綺麗な髪の毛なのに…本当にいいんですか?ここまで伸ばそうと思うと、またかなりの時間がかかりますよ?」

 髪!髪!髪!

 本当にしつこい女!

 私は苛立ちを隠さないまま、もう一度髪を切るようにお願いした。

 納得はしていないといった表情だったが、相手は客商売をしているのである。

 これ以上お客に駄々をこねるわけにもいかないといった様子で鋏を手にとった。

 しょき、しょきと心地よい音を立て、鋏が黒い川を真横に断ち切ってゆく。

 ばさりと地面に落ちたそれは、もはやただの塵芥。

 他の美容師がせっせ箒で髪を履いていく。

 私の髪を切る美容師が厚かましく「勿体無い…」と呟く。

 何が勿体無いのだろう。

 これ程心晴れやかな日は無いというのに!

 母の妄執を終わらせられるのだから。


 母は私の髪を愛した。

 鮮やかな黒髪、艶のある髪質、豊かな毛量。

 それを母はより美しく、他人が羨むような髪を私に求めた。

「お前は綺麗な子だね」

 幼い私はそれを、私の目鼻立ちやら体型やら、私という総体をひっくるめての言葉だと信じていた。

 毎晩髪を梳く為母が使う鏡台の前に座らせてもらうことが、”綺麗な自分”の特権であるように思え、誇らしかった。

 それでも、母は髪しか見ていなかった。

 髪を梳く時にはいつも『髪を大切にするのよ』と言われた。

 それは私の為などではなく、美しい髪を育てた母の為であった。

 それをはっきりと思い知らされる事件があった。


 幼いとはいえ、女の子は誰しも化粧に憧れる。

 母親が鏡台に座り、唇に紅を引く様は輝いて見えるものだ。

 例に漏れず、私も憧れた。

 母が台所で作業をしている隙を見て、母の鏡台に登り、化粧道具を散らかした。

 見よう見まねで、あっちの粉を叩き、こっちのクリームを塗って、今思えばお化けのような顔を作り上げた。

 化粧をしたことで、一層磨きがかかった”綺麗な自分”を見て欲しかった。

 私は母を呼び、自分の顔を見せた。

 私を見た途端、母の顔はみるみる青ざめ、次第に怒りで唇を震わせた。

「あんた、一体何てことをしてくれるの!」

 私は何故怒られたのかが分からず、必死に考えた。

 化粧をしたことが、そもそもいけないのだろうか?

 鏡台を汚したことがいけないのだろうか?

 幼い私に思い当たる事は、それくらいしか無かった。

 消え入りそうな小さな声で「ごめんなさい」と精一杯の謝罪をした。

「謝って済むものですか!」

 母の怒号は今まで聞いたこともないようなもので、私は大泣きをした。

「大切な、大切な髪の毛を切ってしまうなんて…!これが戻るのにどれ程時間がかかると思っているの!」

 私は母の様になりたくて、無かった前髪を作ろうと顔の前方の髪に鋏を入れたのである。

 私は泣き、母に揺すぶられながら気付いた。

 母は私を見ていないことに。

 私の髪にしか興味が無いことに。

 今まで、他の大人から「綺麗だね」と言われ母が誇っていたのは、私などではなく私の髪だったことに。

 母に叱られふてくされた私はその晩、鏡台には座らずに眠った。

 夜が更けて、部屋の扉が静かに開き、母が入ってきた。

 ふてくされた私をなだめてくれるのかと期待して目を瞑っていた。

 しかし母は私には声をかけず、手に持った櫛でそっと私の髪を梳いた。

「あぁ可哀想に…」

 その言葉が私に向けられることは無かった。

 それ以来、私は自分の髪を憎んだ。

 母の目を眩ませ、私自身を隠してしまう髪に。


「はい!終わりました。いや〜スッキリしましたね!」

 切る前とは打って変わった態度で美容師が鏡を私に差し出した。

 腰の長さまであった髪は、私の顔の顎の高さで統一された。

 前髪もしっかりと作った。

 それでも、まだ足りなかった。

 母の目を覚ますには、まだまだ足りなかった。

 この黒色が。

 いやらしく光を跳ね返す黒が。

「あの、染めてもらえませんか?」

「え?」と、ひと仕事終えたばかりの美容師はきょとんとした。

「ブラウンがいいです。うんと明るいい色のブラウンが」

「でも、染めると痛みますよ、折角…」

「いいから!」

 思わず声を荒らげてしまった。

 また”髪が”だの”綺麗な”だのと言われたくなかった。

 美容師は肩を竦め、染髪の準備に取り掛かり始めた。

 これで、漸く解放される。

 髪の呪縛から。


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