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My Dear Brother (後編)

作者: さんずい

 貴子と和那の出会いは、それほど良いと言えるようなものでもなかった。

 貴子は最初から新しい家族に対して距離を置いていた。離婚前にたくさん傷つけられた母親と、妹を守るために警戒心を強く持っていたためだ。

 対して、和那も貴子との距離を積極的に詰めようとはしなかった。貴子の思いをなんとなく察していて、それを尊重しようと思ったからだし、自分になつき始めていた亜希の信頼を裏切らず、良い兄でいることの方に集中しようと思ったからだ。

 それが徐々に変わっていったのは、何か大きなきっかけがあったわけではない。

 和那は母親や亜希と打ち解けるにつれて、それでも家族の団欒から少しだけ距離を置いたままの貴子が気になるようになっていた。家族皆で笑っているとき、今あの人も笑えているだろうか、と貴子の姿を目で探すようになっていた。

 貴子も和那のそんな視線に気付いていたが、それを特別どうとは思っていなかったはずだった。それなのに、兄妹二人で仲良く遊ぶ亜希を見守るつもりで向けていた視線が、いつの間にか和那に向けられていることに気付くことが多くなっていた。

 そうなれば、自然と二人の目が合う数は多くなって、その度に少しずつお互いに惹かれあう。その繰り返しの果てに、あの日を迎えた。

 油断していたのだ。あるいはただ単純に、考えが足りなかったとも言える。

 あの日、高熱を出して学校を欠席することになった和那を、貴子は自分も学校を休んで看病した。仕事を休もうとした母親を、かなり強引に説得した結果だった。

 当時中学生だった和那は、照れや見得から最初は抵抗を感じていたようだったが、弱った身体と心に、甲斐甲斐しい貴子の看病はとても効果的だった。その結果なのか、和那は貴子に対して段々と無防備な表情を見せるようになった。

 貴子にとっても、看病は全く負担ではなかった。一通り落ち着いた後、和那のベッド脇に座って、かすかな寝息を耳にしながら本を読む。時折和那の寝顔を眺めたり、汗を拭いてやったりしながら過ごす穏やかな時間は、何物にも代えがたいものだった。

 昼になって和那が目覚めると、顔色が大分良くなっていて、ほっとした貴子はたわいもない会話をする。そして何が引き金になったのかは覚えていない。ただ、急に途切れた会話のちょっとした沈黙の間に、たまらないほどに愛おしさが募って、おずおずと視線を交わして、お互いの気持ちを無言で確かめ合って、ゆっくりとお互いの顔を近づけて。キスをした。

 油断していた。この時間に他の家族がいるわけがないと。

 考えもしなかった。自分たちの今の状況が誰かを傷つけうるなんて。

 はっ、と気付いた貴子が振り返って目にしたのは、驚きに目を見張り、血の気を失って真っ白になっていた亜希の姿だった。

 その場にいた誰もが硬直し、身動きがとれない状況がわずかの間だけ続いた後、亜希は半開きだった唇がふるふると震え始めたのを手で覆い隠すと、そのまま身を翻して和那の部屋を走り去っていった。

「亜希――っ」

 叫んだ和那がその場で勢いよく立ち上がるが、すぐに眩暈がして膝をつく。

「バカ!」

 倒れそうになった和那を支えて座らせると、貴子が遅れて部屋を出る。

 けれど、すでに家の中に亜希の姿はなく、外に出てみても彼女の姿を見つけることはできなかった。

 腰に手を当ててうなだれる貴子の脳裏に、先ほどの亜希の表情が浮かんできて。貴子はそっと手を額に押し当てた。

 しかし夕方になると、亜希は何事もなかったかのように家に戻ってきた。

 一見あまりにも普通の態度を取るために、それが却って彼女が受けたショックの大きさを物語るようで、貴子も和那も何も言うことができなかった。

 その後しばらくは、和那と貴子はあえて距離を置くようにしていた。それほどに、亜希を傷つけたことを気に病んでいた。けれど、むしろそれを見て亜希が傷付いた表情を浮かべることに気付いて、貴子は少しアプローチを変えた。

 あくまで姉として、無遠慮に、砕けた感じで弟に接するようにした。

 それは思いの外心地よい関係で、それをそのまま何年もずるずると続けている。だけど――


「だけど、本当にそれでいいのかって、亜希は言ってくれたじゃないか」

 和那の瞳にはいつになく熱があって、貴子は目を合わせることができない。

「確かに、あの時俺たちは亜希をひどく傷つけたんだと思う。それはそうだよね。一生懸命、三人で兄妹になろうって一番努力していた亜希の目の前であんなことしてさ。亜希からすれば裏切られたと感じてもおかしくないし、姉と兄が自分とは違う特別な関係を築いているとみなしたのなら、疎外感を持ったかもしれない。だけど、今ならもう大丈夫だって、そう言ってくれた。それなら、俺は」

「そうだとしても」

 あくまで慎重な態度を崩さない貴子が、静かな声で、けれど強い調子で言葉を挟む。

「亜希は、そうなのかもしれないけど。じゃあ今度は父さんと母さんに、あの時の亜希と同じ表情をさせるの?」

 そう問われて、和那はやるせない表情を浮かべて口を閉ざす。あの二人は、とても家族を大事にする人たちだと、和那にも良く分かっていた。

「それにね。私たちのことを良く知らない他の人たちからすれば、私たちはやっぱり姉弟なのよ。私と和那がそういう関係になったとして、その人たちが私たちに抱く感情は、プラスのものばかりではあり得ないわ。そうしたら、それはいつか私たちだけじゃなくて、亜希や父さん、母さんを困らせたり、傷つけたりすることになる」

 だから、分かってよ。掠れた声で貴子が言葉を漏らす。

 そして、和那が何も言えないでいると、貴子はそっと微笑む。

「さ、それじゃあこの話はこれまでね。私も今日は帰るわ」

 立ち上がりかけた貴子の手を、和那はそっとつかんだ。

「父さんと母さんとは話をするよ。……最初はショックを与えちゃうかもしれないけど、ちゃんと本気だっていうことを話せれば、あの二人なら分かってくれると思う」

 多分、和那の言う通りだ。貴子も先ほどはあえてああ言ったが、あの両親はきっと家族としての体裁よりも子どもたちがどうであれば幸せなのか、をきちんと考えてくれると思う。

「それに、他の人たちがどう思うかなんて、関係ない。例えそれが間接的に亜希や父さんたちを傷つけることになるんだとしても結論は変わらない。10年間、この気持ちを忘れようとしてきた唯一の理由は、それが亜希への裏切りだと思ってたからだよ。それ以外のどんな理由があったとしても、俺の中で貴姉を諦める選択肢はとっくに消えてなくなってる。貴姉はそうじゃないの?」

 まっすぐに貴子を見据える和那の目から逃れるように、貴子は自分の腕を握る和那の手に視線を落とす。そしてその手に引かれるように、浮かせていた膝をそっと床についた。

「ずるいよね、和那は。すごく自分勝手なことを言ってるはずなのに、そんな風に言われたらさ……」

 嬉しそうにも、困っているようにも見えるあいまいな笑みを、貴子は浮かべる。

「じゃあ」

 不安の中に期待の色を交えながら和那が問うと、貴子は頭を振った。

「ごめん。私はまだ自分の気持ちに正直になりすぎるのは、怖い。取り返しのつかない間違いをしちゃうんじゃないか、ってまだ思ってる。もう少しだけ、せめて父さんや母さん、亜希と話してから。そうしたら、覚悟を決められると思う」

 すまなそうに顔をうつ向かせた貴子の手を、和那はそっと握る。

「分かった。貴姉がちゃんと自分で納得できるまで、待ってるから」

 その言葉に、貴子ははにかむような笑顔を浮かべた。

「でもね、和那。私が今抱いているこの気持ちとは別に――」

 そう言いながら身体を倒して、和那の胸に額を押し当てる。

「弟としてのあんたも、ちゃんと好きだったよ」


 貴子と和那との会話を済ませて、PCをシャットダウンした亜希はぐっと腕を上に伸ばして、伸びをした。

「惣太君、今日はこのまま会社行くの?」

「そうだね。もう一回寝るには半端な時間だし、早めに出社することにするよ」

 ちらりと視線を向けた壁時計は午前6時付近を指していた。

「私は講義の時間まで結構あるし、惣太君には悪いけどこのまま寝ちゃおうかな」

「いいよ、全然。そもそも気にする事ないのに」

 ありがと、と笑って亜希はノートPCを片付け始める。その様子を眺めていた惣太が不意に、

「何も言わなくて良かったの? 和那に」

 そう尋ねると、亜希は一瞬動きを止めた後、それに答える。

「私さ。中学生の頃好きだった少女漫画があるの。その物語の中でヒロインの友達が告白しようか迷っているシーンがあったんだけど、そこでヒロインが彼女に対してこう言ったの。『後悔しないよう、ちゃんと告白した方がいいよ』。私、これでこのヒロインが一気に嫌いになっちゃった」

「どうして? 良くあるシーンだと思うけど」

「うん。だけど私は好きじゃなかった。だって、それはとても自分勝手だと思ったから。そりゃ、自分は例え振られたとしてもすっきりするかもしれないよ。それに告白しなければ、確かにいつか後悔することだってあると思う。けどね、逆に言えば告白するんじゃなかった、って後悔することだってあり得る。そしてそう思うのは、多分自分が傷ついた時じゃなく、他人を傷つけたって気づいた時なんじゃないかな」

 ああ、なるほど。この子らしい。

 惣太は素直にそう思った。

「和那を傷つけると思ったんだ」

 亜希はかすかに逡巡を見せた後、こくりと頷いた。

「和兄はさ、私のことを大事な妹だと思ってくれてる。そして私が和兄に抱く気持ちもそれと同じだと思ってる。だから、私がありのままの気持ちを話したら、すごくショックを受けると思う。そして、それに応えられないことに対して、すごく苦しむと思う。それは、嫌だよ」

 亜希の予想は、多分正しいと惣太も思う。きっと亜希の気持ちには気付いていない。和那がそういう所について鈍いのは、良く知っている。

「それに、貴姉のこともあるんだ。歳が少し離れているせいか、私に甘くてさ。例えば昔、私が小学校に入ったばかりのころ、貴姉が大事にしていたクマのぬいぐるみを欲しい、ってわがままを言ったことがあったの。そうしたら、貴姉は嫌がる素振りを全く見せずに『大事にしてくれるなら、いいわよ』って。でもね、その後しばらくして、貴姉が私の部屋でそのぬいぐるみをじっと見つめて、優しくなでてた姿をたまたま見ちゃったんだ。後でママに聞いたんだけど、それ、子どもの頃父親とうまくいってなくて、家では一人で部屋に閉じこもっていることが多かった貴姉にママがプレゼントして、それからずっと精神的な拠り所になっていた大切なものだったんだって」

 呆れちゃうよね。眉を寄せながらそう言って、力のない笑みを浮かべる。

「だからさ。もし私が少しでも自分の気持ちをほのめかすような事を言えば、きっと貴姉は身を引いちゃう。いつも、自分の気持ちは後回しにしてさ。お姉ちゃんだからって、我慢ばかりする必要ないのにね」

 そう言ってどこか寂しそうな表情を浮かべる亜希に、そっか、と惣太は優しく微笑む。

「それとさ。もしかして亜希ちゃん、僕にも気を遣った?」

 そう言われて、ぎくりとした表情を浮かべた亜希が、目を逸らした。う、ん、とあいまいな言葉を口にしながら、覚悟を決めたのか視線を戻す。

「正直に言えば、それも少し考えた」

「馬鹿だなぁ」

 率直に、思ったことがそのまま口に出る。

「僕は知ってるんだから、いいのに」

「知ってるからって、傷つかないとは限らないでしょ」

 不満そうな表情で口をとがらせる亜希に、惣太は苦笑いを浮かべる。

「和那も貴子さんも。それから、もう少しで僕も。亜希ちゃんの家族なんだからさ。もう少し甘えていいんだよ。和那なんて困らせてやればいい。あの鈍さで今まで散々楽したんだから。貴子さんのことも、それであの二人がうまく行かなくなるなら、結局その程度のことなんだよ。この先もっといろんなことを乗り越えないといけないんだからさ」

 けれども亜希は少し困ったような表情で笑う。惣太も自分が少し乱暴なことを言っているのは分かっている。それでも。

「だって、今まで一番苦しんできたのは亜希ちゃんだろ? 和那と貴子さん二人の気持ちをきちんと分かっていて、あきらめるべきだと思いながら、それがなかなかできなくて。それでもこうやって二人のために動き始めた。それなのに、自分は本当の気持ちを言うことさえできないなんてさ。悲しすぎるよ」

 悔しそうな表情さえ浮かべて惣太が言うが、

「違う。違うよ、惣太君」

 亜希はふるふると、頭を振った。

「悪いのは、私。あの二人が、私のために自分たちの気持ちを押し殺そうとすることなんて分かってたのに。それなのに、貴姉と和兄と私。皆が兄弟っていう対等な関係でいられることがあまりに心地よくて。私がどうするべきかなんて初めから分かっていたのに、それを怠って甘えちゃった。状況を変えられるのは私だけだって知ってたのに、勇気がなかった。だから、確かに苦しいことはあったけど、それは私の自業自得なんだ。むしろ、こんなにも長い間二人の関係を歪に縛っていたことが、本当に申し訳なくて――」

 言葉に詰まって、亜希は両手で顔を覆った。

 それでも、指の間からぽろぽろと大粒の涙が流れ落ちる。

 本当に、この人は。わずかな呆れと、溢れるばかりの愛おしさに満たされて、惣太はそっと亜希を抱き寄せた。

「君は本当に、意固地というか、頑なというか。損な性分だね」

 そう言って、亜希の背中を優しく叩く。

 しばらくそうしていると、少しずつ亜希の涙がおさまっていく。

「惣太君さ」

 そして、亜希が顔を惣太の胸にうずめたままで尋ねる。

「どうして私と結婚しようって言ってくれたの? もう何回も同じこと言ってるけど、やっぱり私、少なくともすぐには和兄より好きになることはないと思う」

 本当に、何度目の問答だろう。そう思って、惣太は少しおかしくなる。

「分かってる。それで、いいよ。僕は和那が好きな亜希ちゃんを、好きになったから」

 いつもの回答に、亜希の不満げな反応が顔を見なくても伝わってきた。

「それが分からないんだよね。それってどういうことなの?」

 いつもは適当にごまかしてたが、そろそろちゃんと答えないと本当に納得してくれなさそうだった。

「何度か、見たことがあるんだ。一番印象的だったのは、いつだったかな、亜希ちゃんが和那にバレンタインのプレゼントをした時か。あの時、和那にお礼を言われて、頭をなでられてた。その後、亜希ちゃんは一人で隠れて泣いてたよね。多分、嬉しかったのと、悲しかったのとで感情が高ぶって。でもひとしきり泣いた後、指で涙をぬぐうと、気合を入れるようにキッと強い視線を真っすぐ前に向けてた。その後妹として和那の前に出ていくための覚悟をそこで見せてた。この時の亜希ちゃんの目が、綺麗で、尊くて、気高さを感じさせて。それから亜希ちゃんのことを気にして見ることが多くなって、和那とのやり取りの中で見せるちょっとした反応が目に留まることが多くなった。和那のふとした仕草に、言葉に、喜んだり、悲しんだり、がっかりしたり、驚いたり。決して分かりやすい形で表に出てきていたわけではないけど、僕の目にはその一挙手一投足が鮮やかで、一つ一つの感情の発露がまばゆく見えて、気づいた時にはすっかり惹かれていた」

 惣太の話をじっと聞いていた亜希はこつん、と額を惣太の胸にぶつけた。

「そんなとこ、見られてたんだ」

 少し照れた声で言いながら、

「でもさ、なんかちょっとマニアックな感じだよね」

 からかうような言葉を向ける。

「だよね。だから言いたくなかったんだよなぁ」

 そう言って嘆息する惣太に、亜希はくすくすと笑みをこぼす。

 そんな亜希に、惣太はすっと抱きしめる腕に少し力をこめて言葉をかける。

「ねぇ、亜希ちゃん。だから、いいよ。今なら、聞いてるのは僕だけだから。一度くらい、僕を和那の代わりにしてもいい。思いきり、和那が好きだって、言っていいよ」

 びくり、と亜希は一度大きく身を震わせた。

 優しく背中を撫でる惣太の腕に誘われるように、再び亜希の瞳から涙がこぼれ、惣太の胸を濡らす。

 ――き。

そして、かすかに、亜希の口から言葉が漏れた。

「――大好き」

 ああ、と惣太は天を仰ぐように顔を天井に向ける。

 この期に及んでなお、亜希はその言葉の主語を口に出さない。頑なで、意地っ張りで、とことん、優しい。それがたまらなく、愛おしかった。

 和那も貴子も、亜希も。この三人の兄弟は、大切な人のために、自分の大切な何かを犠牲にしてきた。そのために、自分の幸せに向けてずいぶんと遠回りしてきた。

 それでも、まだ遅くない。全員が幸せになってほしい。それが惣太の偽らざる思いで、そのためには多分自分が頑張らなくてはいけないのだ。

 自分の腕の中で泣きじゃくる亜希を抱きしめながら、思う。

 いつか、亜希が心の底から幸せだと、和那や貴子に言えるように。

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