姉の遺したもの
僕の姉は自動車を買い、一年後の同じ日に交通事故で死んだ。
車もめちゃめちゃになってしまったので、もう乗ることはできず、スクラップにされた。相手の運転手も電柱に衝突して死んだが、それ以前に急性心不全で心停止していた可能性もあると聞かされた。彼の心臓は僕の姉を殺すために停止したのかもしれない。この度の死神はビリヤードが趣味だったのだ、きっと。
わずか一年で身近なものがごっそりと消えていくというのは、何とも遣る瀬無いことだった。僕は姉の死を知らされてからしばらくの間、自分が空から吊り下げられた操り人形でもあるかのように、漠然と時を過ごした。
その数日後、僕は姉の夫と会った。彼は悲壮な顔をしていたが、彼が言うには僕の顔も同じようになっているらしかった。残念ながら、僕はその言葉が本当だということを知っていた。そして、もしこのまま表情が変えられなくなってしまったとしたら、この先どうすればいいだろうか、などと考えていた。
幸いなことに、彼と話しているうちに、どちらも小さな冗談で何度か笑顔になることができた。それは瞬きのように一瞬のことではあったが、氷のように凍った心も場合によっては解けると分かっただけで、それなりに大きな収穫だった。
別れ際に、彼は小さな箱を渡してきた。
「結婚記念日のために買っておいた宝石だ」と彼は説明した。「僕よりは君が持っていたほうがいいような気がする。僕はもう他人になってしまったけれど、君はまだ弟のままなんだから」
言われてみればそうかもしれない、と思ったので素直に受け取っておくことにした。僕に宝石を愛でたり飾ったりする習慣はない。もちろんない。でも、そのうち何かのきっかけで、持っていてよかったと思うことになるのではないか。僕は彼と同じように、そんな予感を覚えていた。
彼がどこかへと帰って行ったあと、僕は宝石の入った小さな箱を食卓の上に置いた。箱の蓋を開けてみると、赤く煌く宝石が現れた。僕はまったく詳しくないが、おそらくルビーだろうと考えた。赤い宝石など他に知らない。
姉の乗っていた車は赤かった。姉は昔から赤という色が好きで、状況が許す限り、服飾のどこかに赤系統の成分を入れていた。なぜかは知らない。僕は青が好きだ。彼は確か緑が好きだと言っていた気がする。
姉は僕たちに好きな色のことを訊いたとき、光の三原色だと喜んでいた。青と緑だけだとシアンになる。青の僕に赤いルビーでは紫だ。いずれにせよ、もう白にはならない。
僕はふらふらになりながらも、思い出に浸る趣味のなかったことが幸いして、徐々に元気を取り戻した。ある休日、散歩に出ようとした僕は、ふとあのルビーのことを思い出した。太陽の下で見たらどのように見えるのか、と何となく疑問に思った。僕は宝石の本来の使い方なんて知る由もないし、どうせ店でライトアップされているときが一番綺麗なのだろうとは想像していたが、気まぐれで確かめてみることにした。
僕は一粒のルビーを箱から出して無造作にポケットに入れ、外に出た。暖かい白色光に晒されながら僕は歩き、人気のない場所に来た。ポケットから宝石を取り出して、空にかざしてみた。きらきらと三角形やら四角形やらの形で光が反射したり透過したりする。そうやって綺麗に見えるよう、わざとカットが入れてあるのだ。光学的には興味があるが、これを身に着けようという気持ちにはならないし、これを身に着けた人を好きになるということもないだろう。それよりは、その辺の木漏れ日のほうが僕はずっと好きだ。
近くにあったベンチに腰掛け、掌の上で宝石を転がした。その手の上にも反射・屈折光が模様を描いた。素手でこんなに触ってしまったら、きっと専用の布で拭いたりしないといけないんだろうな、と僕は想像した。皮脂がついたままにしたら石が変質してしまうとか、そういう注意事項があるに違いない、きっと。彼は宝石を買った店で、そのような説明を受けただろうか? 男性であれば特に、ぞんざいに扱ってはならないと注意される気がする。男というのは大体にして、恋人に対してすら、ぞんざいに扱う傾向があるのだから。
その点、姉は大切にされたと思う。結婚のときのダイヤの指輪だけでなく、記念日にもこんなものを送ってもらっている。もし生き続けていたとしたら、この愛は一体いつまで続いただろうか? 愛の尽きる前に死んでしまったことは幸福と言えるのか。死んで幸せなんてことがあるのか。僕の心はつい、そんな想いに揺れ動いた。
考え事をしていた僕の手は宝石を軽く投げ上げてはキャッチすることを繰り返していたのだが、心が揺れたことで石を取り落としてしまった。草むらの中にその赤い宝石は転がって行った。宝石商が見たら卒倒するかもしれない。僕は屈んでそれを拾い上げ、ふっと息を吹きかけて塵を払った。
帰ろうとしたとき、子供が一人、僕の目の前に立った。そういえばさっきから、ちらちらと視界に入っていた気がする。
「さっきの宝石?」とその子供は訊いた。
「そうだよ」と僕は答えた。
「見せて」と子供は言った。
「見るだけだよ」と僕は言って、宝石を掌に載せた。
子供はそれをじっと見た。あまりにじっと見ているので、僕はこの子のことが少し心配になった。ちょっと変わった子なのかもしれない。
「ルビー」と子供は言った。
「そうだよ。たぶんね」と僕。「よく知ってるね」
「お母さんが売ってる」
「お母さんが?」
子供は頷いた。そして「偽物」と言った。
「偽物の宝石を売ってるの?」と僕は訊いた。
「偽物のお母さんが、偽物の宝石を売ってる」
どうやら複雑な事情を持つ家庭らしい。
「君は一人で来たの?」と僕は気になったので訊いてみた。
子供は頷いた。
「この宝石、欲しい?」と僕はついでに訊いた。
「いらない」と子供は首を振り、それから顔を上げて言った。「これも偽物だし」
僕は五秒ほど思考停止したあと、気を取り直して、子供に訊いてみた。
「土で汚れているからそう見えるんじゃなくて? 本当に偽物?」
「うん」と子供は頷いて言った。「お母さんが売ってるのと同じ」
それから「じゃあね」と言って子供は去って行った。
僕もベンチから立ち上がって、家に帰ることにした。その道すがら、姉の夫に宝石が偽物だと知っていたかどうか尋ねるための言い方を何通りか考えたが、最終的には、何もしないほうがいいと判断した。訊いてみて返ってくる答えが本当であるという保証はどこにもないのだから。
家に戻ったあと、僕は偽物の宝石をできるだけ綺麗に洗い、元の箱の中に置いた。本物だったらここまで手を掛けなかったかもしれない。できるだけ美しく見えるよう、僕は箱の中で位置を調節した。
最高に綺麗な偽物に満足すると、僕は箱の蓋を閉じた。