第8話 治療室と涙の雨
「失礼します。」
桜田さんに習って、そう言った。
多分礼儀作法やマナーの一環なのだろうが、それにしても本当桜田さんは凄い。
まるでどこかの貴族の従者みたいだ。
とても兵士には見えない。
「ああ、そんな硬くならないでくれ。普段通りにしていいから。」
澄んだ氷のような繊細な声。
コーヒー片手に現れたのは、30代前半ぐらいのお兄さんだった。
爽やかというよりかは、凛とした雰囲気を纏っているが、よれよれの白衣とグレーのツナギ、サンダルの3点セットでぶち壊しだ。
「まあ、そこの椅子にでもかけて。状況の確認したら、ベッドに寝転がってもらうから。」
「あ、はい。」
唐突に始まった診察に戸惑いつつ、渋々従う。
「じゃあ、まず名前と生年月日、年齢から。ちなみに僕は田辺 龍だ。こんな見た目でもちゃんと医者だから。よろしく。」
田辺さんは紙に何かを書きながら、さらっと言った。
「月夜見 冷夏です。生年月日は…不明です。ただ仮に6月20日とだけなっています。年齢は推定7歳で、数日以内に8歳になります。よろしくお願いします。」
椅子に座っているため、会釈程度に礼をした。
一応最低限のマナーは守れるよう、きっちり指導を受けている。
問題は無いはずだ。
「不明ね…まあ、仮でも誕生日があるならそれでいいよ。えっと、れいか君だっけか。れいかって字は?」
桜田さんと似た質問だったせいか、溜息をつきそうになった。
こう言うのは、もう少し頭捻ってからにしてほしいものだ。
しかし、少しばかりheavyなことを言った気がするのだが、あっさりと切り替えられたのはちょっと拍子抜けした。
いくら大人で色んな事情の兵士、ときには騎士を見てきただろうに、
「冷たい夏と書きます。」
そう告げると田辺さんは、流れるような手付きで、サラサラっと紙に記し出した。
「月夜見…冷夏君か。で、早速だが怪我した経緯軽くでいいから説明よろしく。」
軽く、か…
ちょっと難しい加減の仕方を強いてきたな。
グロを抑え気味に、さらっと要点をかいつまんで説明した。
少し不明な点や複雑な所は誤魔化し、話した結果、10分ちょい掛かった。
「成る程ね…だから、怪我って聞いてたのに目立った外傷や致命傷があまり見当たら無いわけだ。これは副団長や妹さんに感謝しなきゃな。じゃなきゃ、話聞く限りだと今頃あの世か瀕死状態、或いは昏睡状態になってたよ。」
落ち着き払ってるように見せてるものの、動揺してるのは僕から見ればあからさまだった。
ま、当たり前って言ったら、そうなのだろう。
まだ年端もいかなぬ少年が兄妹の為に闘う、だなんて普通聞いたらありえない話だろう。
年齢より、まだ幼く見える子供が、正当防衛とはいえ、相手をギリギリまで蹂躙し殺害するだなんて。
その後、涼しい顔して会話を交わしたりするとなれば尚更だ。
そんなの幼い頃から、そういうことを仕込まれていなければ、冷静な判断どころか、対処なんて出来るはずが無いのだ。
それくらいこの世界では表立った殺人は無いレベルで平和なのだ。
「はい。僕もそう思っています。僕的にはポーションで大分回復したので、治療は必要無いんですが、何分兄が心配性なものでして…」
苦笑いがつい溢れる。
これは本当だ。
あまりにしつこいから、途中から聞かないことにしたが、草原から街に出る時に自分がおぶるっていくと言ってちょっと揉めたのは記憶に新しい。
アレの状態の時の記憶は慶兄及び向日葵両名には無いから、というのもあると思うが。
「あはは…まあ、仕方ないよ。弟や妹ほど兄にとって可愛いものは無いだろうから。でも心配なのは僕も同じだ。いくらポーションで回復したとはいえ、限度がある。例え今痛くなくても、後で…何てこともざらじゃ無いんだ。」
あまりの剣幕に椅子ごと後退りする羽目になった。
「そ、そういうものですか…あ、あの…兄や妹以外にあんまりこうやって言われたことなくて…どうしていいか分からないんですけど…」
これも諸事情のため事実だ。
爺や…世話係の八千の事だが、その爺やでさえ主人の目を掻い潜り、僕に配慮しなければならなかったため、目立った行動が出来なかったのだ。
「そう…複雑な事情があるみたいだね。こういう時は、素直に『心配してくれて、ありがとう。』って言うんだ。それに君はまだ幼い少年なんだ。ときには子供っぽくしてもいいんだよ。」
田辺さんは安心させるようにそっと頭を撫でてくれた。その表情はとても柔らかく、優しさが溢れていた。
暖かい手は僕の中の壊れそうな何かを優しく溶かしてくれた気がした。
「…!…その、あの…し、心配してくれて…あ、ありがとう…ございます!」
ポタ
視界がぼやけて、田辺さんの顔がよく見えない。
…え?
どうして僕…泣いてるの?
ポタポタポタ…
溢れ、流れる涙は止まぬことを知らぬ雨のように降り続いた。
「その歳で声も出さずに泣く子なんて、初めて見たよ。そんな困った顔しなくても、泣きたい時は思いっきり泣いて、笑いたい時は思いっきり笑えばいいんだ。」
「いいの?僕がそうしても怒らない?」
思考が段々と停止していき、完全に幼児化した発言に田辺さんは目を見開いていたけど、すぐ笑顔になって頷いてくれた。
力強く、存在を肯定するように…しっかりと。
「ひっぐっ、うっ、うっ……僕は…田辺さんも桜田さんも…優しいから…すき。慶兄も向日葵も、一緒にいて、楽しいから…すき。だから…守りたい。でも、父上も母上も…みんなみたいにあったかくない。冷たい。」
言葉が途切れても、ちゃんと耳を傾けてくれる。
「怖かった。でも僕は…抗えない…それが嫌だ。自分で自分が嫌になる…僕は…僕は…どうすればいいの?」
泣きすぎて、空気がうまく吸えない。
頭もボーッとする。
「そっか、そっか…それは辛かったね…でもそれは冷夏君が悪いわけじゃないと思うよ。だから…冷夏君は冷夏君の人生を歩んで。まだ難しいことは分からないかもしれないけど、きっといつか冷夏君にも良い出会いがあるよ。」
田辺さんはそっと頭をポンポンとしてくれた。
そう言えば、こんなに長く人と目を合わせたのは初めてだ。
「いい出会い?」
「そう。自分の人生を大きく変えるような運命の人と出会ったり、沢山の友達ができたり…まだまだたくさんあるよ。」
「すごいね…僕も、そんな人になってみたい…な…」
あれ?
体に力が入らないや。
そこで意識が切れた。
ー桜田 saidー
「おっと…どうやら眠ってしまったようだ。桜田君、ベッドに冷夏君を。」
泣き疲れたのか、冷夏君は田辺先生の方に倒れ込み、寝息を立てている。
「はい。」
起こさないよう、ひそひそ声で話し、そっと冷夏君を抱えた。
身長が低いためか、普通の子供より軽く感じる。
ベッドに横たえると、田辺先生がやってきた。
「寝てる間に治療しておくから、桜田君は副団長に今の様子でも伝えてきてよ。」
「はい、分かりました。」
しかし…体の負担は減っていいかもしれないが、本人がどう思うかの方が問題だ。
この子はしっかりしてるように見えて、どこか危うい感じがする…
念のため、見張り兼警護にでも付けるよう、兵士長に頼んでおこう。
そんなことを考えながら、治療室を後にするのであった。