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第三章 事件の真実

 榊原は会議室の中央で森本たち二人を前に立っていた。

「榊原さん、これがアリバイ崩しであってアリバイ崩しではないとはどういうことですか?」

「衣笠のアリバイを崩すには、純粋にアリバイのことだけを考えていては絶対に解けないという意味です」

 森本の問いに、榊原はそう答えた。

「意味がわからないのですが」

「では説明していきましょう。一般的に推理小説におけるアリバイ崩しとはどのようなものでしょうか?」

 唐突にそのようなことを話し始めた。

「アリバイ崩しですか。それは、容疑者と思しき人間にアリバイがあって、そのアリバイが作られたものであることを証明する。一般的には時刻表なんかを使うわけですが」

「ええ。それがミステリーにおける極めてオーソドックスなパターンでしょう。ですが、このアリバイ崩しという分野には大きな前提があります」

「前提?」

「アリバイは容疑者と思われる人間の事件当日の行動を詳しく分析する事で崩せるというものです」

 言われてみるまでもなく当たり前のことである。森本は当惑した表情を浮かべた。

「アリバイトリックは、どんなトリックでも犯人が当日何らかのアクションを起こすことで発生します。逆に言えば、そのアクションが矛盾を生み、その矛盾を追うことで探偵はトリックにたどり着くわけです。ところが」

 榊原はいったん区切ると告げた。

「この事件の犯人にそんなアクションを起こす時間的余裕はない。アリバイトリックそのものの必要性が犯行直前にはなく、犯行の最中にアリバイトリックが必要化するという極めて異例の事態です。密室を脱出するのに精一杯の犯人に、そんなトリックが考案できるはずがない。しかし、現実にアリバイが成立している。ここに大きな矛盾が発生してトリックを解く事が出来なくなる。つまり、一見するとアリバイ崩しであるのに、アリバイ崩しの正攻法が使えない特殊な事件なんです」

「じゃあ、解けないということなんですか」

 森本が聞く。

「いいえ。こうなってしまうのは、そもそもこれがアリバイトリック解明問題ではないからなんです」

「え?」

 森本は思わず声を上げた。

「衣笠のアリバイを崩すのがアリバイ崩しの問題ではない?」

「まぁ、確かによくわからない話ではあります。ここで、例の衣笠のアリバイの拠り所になっている写真について考えてみましょう」

 榊原は突然話題を変えた。

「あの写真ですが、実は大きな矛盾があるんです」

「また矛盾、ですか?」

 森本の発言に、榊原は頷く。

「あの写真ですが、時刻表通りの時間に線路を横切る新幹線を撮っているものでしたね」

「ええ。完璧なアリバイです」

「実は、その時点で矛盾しているんですよ」

 森本には何が矛盾しているのかさっぱり分からない。

「私もさっき気がついたばかりなんですよ。森本さんの話では、あの日、彦根市より北の米原市では初雪が観測され、てんやわんやの騒ぎになっていたらしいですね。となると、一番に影響が心配されるものがあるはずです」

「あっ!」

 森本は思わず叫んだ。

「新幹線のダイヤが……」

「そう、米原~岐阜羽島間は東海道新幹線きっての豪雪地帯。雪で新幹線のダイヤが滅茶苦茶になることはしばしばあります。まして、あの日は初雪で、米原市は騒ぎになっています。おそらく交通網が麻痺状態になっていたんでしょう。そんな状況下で、新幹線のダイヤが正常に動いていると思いますか?」

「それじゃあ」

「JRに確認してみました。あの日、間違いなく新幹線のダイヤは狂っています。つまり、あの日に限って時間通りに新幹線が通過することは間違ってもありえない。つまりあの写真は、当日に撮られたとしたらありえない写真なんです」

「でも、じゃあこの写真は一体何なんですか?」

 森本が尋ねる。

「撮影時刻が変えられない以上、変えられるのは日付です。民家の火事が起きてから事件前日までの三日間のいずれかに撮られたと考えるしかありません」

「で、ですが、衣笠にはその日東京にいたというアリバイが……」

「ええ、だからこう考えるしかありません」

 榊原はあまりに予想の斜め上を行く断言をした。

「あの写真は衣笠以外の誰かが撮影したものなんです」

 衝撃の話に、森本はその場で固まってしまった。

「きょ、共犯がいたということですか?」

「その可能性は極めて高いと考えます。ただし、この共犯は対等ではありません。どちらかと言えば、共犯者が衣笠を操っていたというのが妥当だと思います。その共犯者があらかじめあのアリバイを作り、事件後に衣笠に渡した。だから衣笠はアリバイ工作に関しては何もしていない。これでは容疑者の行動を追うというアリバイ崩しの王道をやったところで、衣笠のアリバイが崩せるわけがありません。本当に何もしていないのですから」

「誰ですか、その共犯者は?」

「事件前日からあの校舎に出入りできる人間。豊郷町関係者の可能性が非常に高いと思います」

 断言する榊原に、森本はついていけない。が、何かとんでもない事が起ころうとしているという予感が森本の頭の中を突き抜けた。

「事件関係者の中で、事件前から豊郷町にいた人間。そんな人間は一人しかいなません」

「……ま、まさか」

 森本がその名を口にする前に、榊原が鋭く告げた。

「広崎和仁!」

 後ろに控えていた広崎がビクッと肩を振るわせた。

「観光推進室にいた豊郷町観光課職員のあなたがこの事件の共犯、というよりもこの事件の真の黒幕です!」

 榊原の予想外の告発に対し、森本は広崎を見た、その広崎は、どこか無表情な感じで榊原の方を見つめていた。森本にはその顔が、今までと違って冷たい能面のように見えた。

 まさかこの段階で起こるとは思っていなかった探偵と犯人の一騎打ち、すなわち榊原と広崎の対決が始まった瞬間だった。


「アリバイ崩しであってアリバイ崩しではない。つまりこれはそう言うことだったんです。衣笠のアリバイ崩しは単純なアリバイ崩しでは行き詰ります。これは衣笠のアリバイを崩す問題ではなく、衣笠のアリバイを仕込んだ共犯者を暴く問題だったんです」

「問題そのものに罠があったわけか」

 森本は呻いた。

「ちょっと待ってくださいよ。私がこの事件の黒幕? 冗談じゃありませんよ。大体、その衣笠って人と私との間につながりなどありませんよ。あんなオタクと私が知り合いなわけがないでしょう」

 広崎が苦笑しながら反論する。が、目が笑っていない。冷たい視線で榊原を射抜いている。榊原はそれを受けながら推理を続けた。

「そもそもの話として、本当に衣笠はアニメオタクだったんでしょうか?」

 広崎の苦笑が消えた。

「どういうことですか?」

「私は、衣笠が聖地巡礼をやるようなアニメオタクだとはとても思えないんですよ」

 森本は思わず榊原の方を見た。

「しかし、やつが秋葉原のビデオレンタル店に勤務しているのは事実ですし、何より聖地巡礼した写真がありました」

「その写真がくさいんです。これ見よがしに警察に見せた時点で、わざとらしすぎるんです。何かをアニメオタクというレッテルで隠していると思えるほどにね」

「というと?」

「自分が聖地巡礼中のアニメオタクである、すなわちこの豊郷町とは一切関係ない人間であることをアピールしたかったのではないか。そう考えれば納得がいくんですよ」

「根拠を言ってください」

 広崎が押し殺したような声で告げた。

「証拠はやつの見せた聖地巡礼中の写真です」

「あれが?」

 森本が訝しげな表情をする。

「衣笠は尋問の際に今まで自分が聖地巡礼で撮って来た写真を見せました。その先頭にあった写真について、森本さんはこう言っています。『最初の写真には「二〇〇八年一月一日 鷲宮神社に初詣で H姉妹の故郷」という説明文とともに、どこかの神社の写真が貼ってあり、その写真には、カメラを構えるオタクと思われる人間や、「祝! H家が鷲宮町に住民登録!」と書かれている看板が写っていた』。おおむねそんな感じですね」

 森本が頷く。よく覚えていたものだ。

「いいですか、問題の写真の説明では、参拝は二〇〇八年の一月一日ということでしたね」

「ええ」

「ですが、それは絶対にあり得ません。なぜなら、この神社が舞台となった問題のアニメに登場する『H家』が鷲宮町に住民登録されたのは、この四ヶ月も後、すなわち二〇〇八年の四月一日だからです」

「はい?」

 森本は思わず同時に聞き返した。

「本当なんですか、それは?」

「本当です。念のため、さっき電話で問題の神社に確認しました。なのに、この写真にはそれをほのめかす看板が写っています。この写真も他と同じく時刻だけ表記されるタイプだ。つまり、衣笠はこの写真を二〇〇八年の一月一日の写真と偽っていたことになるんです」

「どうしてそんなことを?」

 広崎のイライラしたような問いに、榊原は答える。

「本当にアニメオタクなら、こんな写真を作る必要はありません。それは、すなわち衣笠がアニメオタクではなかったことを証明しているともいえます。この写真は急ごしらえで作られたものかもしれません。写真には季節感を示すものが写っていませんから、もしかしたら事件の数日前にまとめて制作された可能性さえあります」

「でも、全国の聖地に行かない限りは……」

「合成写真で十分です。警察が事件に関係ないこの写真を調べる可能性は低いですからね。実際、写真の押収すらされていませんから」

 広崎の反論を、榊原は軽くいなす。

「それにしても、榊原さん、よくこの事実に気がつきましたね」

 森本は感心したように言ったが榊原は首を振る。

「いや、森本さんの話の中で金原さんが『昨年の春』に住民登録されていたと言っていたのでもしかしたらと思っただけです。二〇〇八年の一月を春とは言わないでしょうから」

「あぁ、そう言えばそんな事を言っていましたね。でも衣笠はなんでこんなことを?」

「さっきも言った通り、自身をオタクに見せかけるため。それしかないでしょう」

 森本の問いに、榊原は答える。

「ということは、衣笠はアニメオタクではない。つまり、少なくとも事情聴取で嘘をついていたことは確実ということですか?」

「その通りです」

「すると、やつがこの小学校に来たのは、聖地巡礼が目的ではないということになりますね。となると、最初から柿田を殺すつもりだったとしか」

「動機については後で話しますが、いずれにせよ、衣笠が柿田に会うために豊郷を訪れたのは間違いないでしょう。となると、ここで疑問が一つ。衣笠は柿田の豊郷小学校訪問をなぜここまで正確に知る事ができたのか」

「それで豊郷側の共犯者ですか」

 森本は広崎を睨んだ。が、広崎は無表情に榊原を見つめているだけだ。

「いかがでしょうか? 広崎さん」

「言いたいことは山ほどありますがね、仮に、仮にですよ、私が犯人だとしてなぜ被害者を殺さなければならないんですか? 私にしろ、その衣笠って男にせよ、動機がないんですよ。通り魔なんかならともかく、動機のない犯罪なんてありえないでしょう。それとも、あなたは衣笠と私がここに来る人間を無差別に殺害するつもりだったとでも言うつもりですか?」

 広崎はせせ笑いながらそう言った。が、榊原はひるまない。

「そもそもの話として、柿田はなぜ豊郷小学校なんかにいたんでしょうか?」

 唐突にそう聞き返す。

「愛知県警に連絡を取ってみました。そしたら、事務所の人間も不思議がっていたそうですよ。『なんで柿田は今になってヴォーレルの建物なんぞ見に行ったのかわからない。おまけにあの問題になった豊郷小学校などとは、まったくもってわけがわからない』とね。確かに、名古屋の日向ビルを設計するような有名建築家が、建築家にとって常識でもあるヴォーレルの建物を今になって何の目的も無く見に来ると考えにくい。そもそも殺人まで起きているんです。こんな事態になっているからには、ただの観光とは思えません」

「ではなぜ?」

「仕事でいたと考えるのが自然ではないでしょうか」

 広崎の表情が少し硬くなる。

「何しろ、この小学校はつい最近まで解体だの改装だの耐震補強だので揺れていた学校です。建築関係で何かどろどろしたものがあってもおかしくありません」

 すかさず、広崎が反論する。

「待ってくださいよ。旧校舎の建築面に関する問題はすでに最高裁で和解による解決がなされています。改装による裁判も継続していますが、こう言っては何ですが町民側最後の抵抗といった感じで、殺人まで発展する要素はありません。これは豊郷町役場の人間として断言しますよ。要するに、素人考えなんです。旧校舎に関係して建築関係の揉め事が起こる可能性はありえません」

「揉め事が旧校舎だけとは限りません」

 広崎の自信満々の反論を、榊原は一刀両断した。広崎の顔が引きつる。

「何が言いたいんですか?」

「依頼主は旧校舎保存に動いた町民側の誰かとみていいでしょう。だが、あなたの言った通り、旧校舎に関してはすでに町側を糾弾するのはほぼ不可能です。となれば、彼らが町側を糾弾する方法は一つしかありえません」

 森本はそこで気がついた。

「新校舎ですか」

「ええ。あれだけ強引な工事で騒がれた町側の対応です。肝心の新校舎に関しても何かあったと町民側が考えてもおかしくないでしょう」

 当の町役場の人間の前で、榊原は遠慮ない推理を述べた。広崎が押し黙ってしまったので、代わりに森本が尋ねる。

「でも、柿田がいたのは旧校舎ですよ」

「少なくともこれは事務所の人間にも知られていない極秘の依頼です。実際に運営されていて、教師が多数いる新校舎を直接訪ねるわけにはいかないでしょう。ですが、柿田ほどの有名建築士なら、外から見ただけでも充分問題があるか否かは判断できるかもしれない」

 森本はそこで二つの校舎の位置関係を思い出した。

「もしかして……」

「そう。柿田が旧校舎の三階にいたのは旧校舎を見るためではない。唱歌室の窓から見える、向かいの新校舎をよりよく観察するためだったとすれば、充分辻褄は合います。学校の前をうろうろしていたら怪しまれるでしょうが、観光地であるこの校舎から見ている分なら全く怪しまれる心配はありません」

 森本は息を呑んだ。

「では、広崎の動機は……」

「柿田が新校舎を視察するのを阻止するためでしょう。本当に新校舎に欠陥があったのかもしれないし、仮になかったとしても、あらぬ疑いをかけられて町が糾弾される可能性は少なくない」

「馬鹿馬鹿しい!」

 広崎が吐き捨てた。

「いくらなんでも町のために殺人までしませんよ。尋常じゃない。私はそこまでお人よしではいないつもりですがね」

「確かに普通ならありえないでしょうね。ですが、個人的動機ならどうでしょうか?」

 榊原がズバリ告げる。

「森本さんの事情聴取のときに言っていたそうですが、あなたは二〇〇六年まで豊郷町役場の地域開発課の課長補佐をしていたんですよね。地域開発課は例の校舎解体騒ぎで町長側の事務を担当していた部署です。あなたの観光課への異動も解体騒ぎに伴うものでしょう」

 広崎は黙って榊原を睨みつけている。思い出したくもない話をされて少々不愉快に思っているようだ。

「いずれにしろ広崎さん、あなたは立派な解体推進派の人間ということです。おまけに、町民側の猛反発で異動処分になったという苦い過去がある。さて、ここで肝心の新校舎に欠陥があるなどと嘘であっても報道されたらどうなるでしょうか?」

 広崎は答えない。榊原は容赦なく続けた。

「旧校舎から新校舎への学校機能移転が行われたのは二〇〇六年、すなわちあなたが観光課へ異動時期です。時期的にみて、次の担当者に異動理由となった事案を押し付けることはしないでしょうから、この新校舎関連の事務をやったのは人事異動直前だったと考えられます。おそらく、新校舎移転を狙っての人事異動だったんでしょうね。当然、当時課長補佐のあなたも新校舎関連の事務にかかわっていたはずです。その新校舎に欠陥があるとなれば、その責任を負うのは当時新校舎に関する事務を一手に引き受けていたあなたたちということになるんです」

「そうか、そうなれば今度は異動処分どころじゃすまない。下手をしたら公務員とはいえ辞任に追い込まれかねない」

 森本が納得したように呟く。

「こんな小さな自治体の職員では、ましてや異動処分に引き続いて責任引退をした職員では、再就職は非常に難しいでしょう。つまり、あなたにとっては柿田の新校舎視察は自分の進退にかかわる脅威以外の何物でもなかったということです」 

「だから、先手を打って柿田の口を封じたということですか」

「おそらくは」

 広崎は唇を噛み締めている。だが、ここで森本は疑問を持った。

「ですが、衣笠はどうつながるんでしょうか? 確かに広崎に動機はありますが、衣笠に動機があるんでしょうか? それに、そもそもどうやって広崎と衣笠がつながったんでしょうか?」

「そうですよ、何度も言うように、私は衣笠なんて男は知りません」

 広崎が言う。が、そこで榊原はフッと笑った。

「それです。それがずっと気になっていたんですよ」

「はい?」

「さっき衣笠のアリバイ写真を見たとき、あなたは『その、衣笠という男は写っていないんですか?』と言いました」

「言ったら問題でもあるんですか?」

 広崎が挑むように聞く。

「大ありですよ。あなた、何で衣笠が『男』だと知っているんですか?」

「は?」

 思わぬ質問に広崎は思わず聞き返した。

「我々はずっと容疑者の衣笠喜佐夫のことを『衣笠』としか呼んでいません。事件当日も、あなたは現場に行っておらず、衣笠とは直接会っていない。事件前も琴平には会っていますが、すでに上にいた衣笠には会っていません。事情聴取の際も衣笠の写真等は見せられていませんし、あなたが衣笠を男であると確認する根拠はどこにもないんですよ」

 広崎の表情が思わず険しくなった。森本には「しまった」と感じているように見えたのだが、広崎はすぐに態勢を立て直した。

「ここに来るオタクは大抵男なので、早合点してしまったんでしょうね」

「……実はそれも気になっていたんですよ。なぜ、あなたは衣笠がオタクだと思ったんですか?」

 榊原は切り返す。

「これはこの推理が始まった直後に気がついたことなのですが、あなたは私に犯人と名指しされた直後に、『あんなオタクと私が知り合いなわけがないでしょう』と言っている。さっきも言った通り、あなたは衣笠に会っていない。さらに、警察は必要以上に他の証人に対する情報提供はしない。そして、あなたがこのセリフを言ったのは、私が衣笠の事をアニメオタクであると明かす前です。もっとも、実際はさっき証明したように、アニメオタクであるというのは衣笠が偽証していたことだったようですけどね」

 広崎は口を閉ざした。

「本当は、あなたも衣笠がアニメオタクである方が都合良かったんじゃないんですか。私の推理では、この偽装を指示したのは衣笠の共犯であるあなたである可能性が高いと思っているくらいなんですけどね」

「何のために、何のために衣笠をアニメオタクに見せかけねばならないんですか」

 広崎が押し殺した声で再度切り返す。が、榊原はひるまない。

「あなたとの関係を隠すため。それ以外にありえません」

「なんですって……」

「この事件では、衣笠とあなたの関係がばれたらおしまいです。ここまで身元を隠すのは、身元がばれたらあなたとの共犯関係が疑われてしまうからでは」

「ですが、やつの身元が秋葉原のビデオレンタル店の店員なのは間違いありません」

 森本が厳しい声で言う。

「確かに今はそうでしょう。ですが、過去はどうでしょうか?」

「過去?」

 思わぬ話に、森本が戸惑う。

「事情聴取で言っていたはずです。衣笠は三年前まで公務員で、そこから秋葉原のビデオレンタル店に勤めている。三年前、すなわち二〇〇六年です。二〇〇六年に辞めた公務員。やつは辞めた理由をアニメにはまったためと言っていましたが、アニメオタクが嘘とわかった以上、他の理由があったはず。ここに広崎と衣笠が知り合いであるという事実を組み合わせれば、想像できることがあるはずです」

「ま、まさか」

 思いついた予想外の話に、森本が唸った。

「やつも、三年前までは豊郷町の職員だったというつもりですか?」

「その可能性が非常に高いんです。それなら、広崎と衣笠が顔見知りであるのも頷けます。二〇〇六年、すなわち広崎とほぼ同時期に辞めている点から見て、彼も解体推進派の人間で、その責任を取って自分から辞めたと考えるのが自然でしょう。もしかしたら、同じ地域開発課の所属だったのかもしれません」

 私たちは広崎の方を見た。

「どうなんですか? 調べればすぐにわかることですが」

 森本が厳しい声で言う。広崎はしばらく何か考えていたが、不意に息を吐いた。

「確かに、衣笠は三年前まで私の部下でした。やつのことを知っていたのもそれが原因です。それは認めましょう」

 初めて広崎が推理を認めた瞬間であった。広崎としても、この一件に関しては不本意ながら否定しきることは不可能と感じたらしい。

「なぜ言わなかったんですか?」

「それこそ知らなかったからですよ。私は当日衣笠と会っていないんですよ。後日連絡を取ってやつだとわかりましたけど、今さら言えるわけないじゃないですか」

 森本の問いに、広崎はそう答える。

「それに、知り合いだとしても私と衣笠が共犯だという証拠にはならないと思いますが」

 森本が詰まる。広崎の発言には一理あるからだ。

「それに、仮に、仮にですよ衣笠が犯人だとしても、さっきも言ったように衣笠に動機はないんですよ。やつはすでに役場を辞めた身です。あなたの推理が正しくて被害者が新校舎の視察をしていたとしても、やつにとっては何の関係もないんです。なぜ、私に協力する義理があるんですか?」

 榊原は黙って聞いている。勢いに乗って、広崎が畳み掛けた。

「要するに、あいつが殺人の協力をする可能性なんて、万に一つもないんですよ!」

「つまり、殺人でなければ協力する可能性はあるということですね」

 間髪入れずに榊原は反論した。勢いづいていた広崎が押し黙る。

「妙だとは思いませんか? 今までの話ではこれは計画犯罪です。ですが、実際の犯行は衝動殺人です。衝動殺人だからこそあの密室が成り立つわけですし、何より竹見たちに家庭科室前の作業を許可したのは観光課職員のあなた自身です。辻褄が合わないんですよ。つまり、黒幕のあなたにとっては計画殺人、実行犯の衣笠にとっては衝動殺人。こんなわけのわからない共犯関係が成立しているんです」

「じゃあ、共犯じゃなかったんでしょうよ」

「そうはいきませんよ。つまり、黒幕のあなたにとっては、これは計画殺人だが、衣笠の認識ではこれは犯罪ですらなかった。そう考える他ないんです」

 榊原の言葉に対し、森本が尋ねる。

「どういうことですか?」

「つまり、衣笠は広崎の殺人計画に利用されたに過ぎないということですよ」

 榊原の答えに、広崎は榊原を睨みつけた。

「これがこの事件の最も恐ろしいところでしてね。広崎は衣笠を利用して殺人を行った。だが、衣笠に直接殺人を起こすよう依頼したわけではない。ここから先は私の想像になりますが、おそらく、広崎が衣笠にした依頼は、元職員として柿田を説得してくれないかということだったと思います」

「説得?」

「新校舎の視察をやめるように言ってくれないか、とでも言ったのでしょう。職員でない衣笠だからこそできることです。その際、元職員として接触したのでは、最初から柿田を警戒させて、姿を見ただけで逃げ出すかもしれない。だから、あの校舎が『聖地』であることを利用して、衣笠がアニメオタクであることにしようと考えた。あのアルバムは、依頼の後に合成などで作り、適当に日付などを定めたものでしょう。ただ、鷲宮神社の住民登録の件だけが誤算だったわけですが」

 そこで榊原は声をひそめた。

「だが、それはすべて広崎の計画のうちだった。広崎はわかっていたんです。衣笠の性格的に、彼が衝動的に柿田を殺すであろうことが」

 森本の背筋が寒くなった。

「衣笠の心理を予想していたということですか。そんな事が可能なんですか?」

「衣笠は広崎のかつての部下で、少なくとも長年連れ添った知り合いでした。広崎は部下であった衣笠の性格をほとんど知りつくしていた。そして、そこから今回の計画を立てたのだと思います。すなわち、衣笠の性格からして柿田殺害は間違いなく発生するだろうと。つまり、今回の事件は、実行犯にとっては衝動殺人以外の何物でもなかったが、裏で手を引いていた広崎にとっては、衣笠の行動を熟知した上で行った計画殺人だったということなんです。それに、万が一殺人が発生しなくても広崎に被害は一切ない。つまり、計画が失敗しようが成功しようがどちらでも構わず、殺人が発生すればそれでよしという、広崎にとってはこれ以上ないほど都合のいい計画犯罪だったということになります」

「『未必の故意』ですか」

 森本が刑法用語を口に出した。何が何でも殺してやるという明白な殺意ではなく、相手が死んでもいいや程度の殺意で犯罪を実行することを指す。まさしく、今回のケースそのものだった。

「なんてことだ……」

 森本は思わず呟いた。そして、さらに背筋が凍ることに気がついた。

「ちょっと待ってください。衣笠が三階から出られなかったのは、家庭室前で学生二人が実地研究をしていたせいですね」

「その通りです」

「その許可を出すのは先ほど榊原さんも言っていたように、当然管理している豊郷町、もっと言えば観光課の広崎です。広崎は、衣笠が殺人を起こすことを予期しながら、彼らに許可を出したというわけですか」

「そうなりますね」

「どうして、そんな自分の首を絞めることを?」

「簡単です。殺人さえ起きれば、広崎にとって衣笠は用無し以外の何者でもない。だから、学生二人にとどめを刺させようとしたという事でしょう」

 森本はうすら寒くなった。

「広崎は、最初から衣笠を見捨てるつもりだったんですか?」

「おそらく。考えてみれば、衣笠にとってこれは自身が犯した衝動殺人。きっかけは広崎にあるとはいえ、まさか広崎がここまで周到に計画していたとは考えていないでしょう。つまり、衣笠が逮捕されても、広崎には全く実害がない。となれば、いつまでも犯人が捕まらずにいたずらに疑いをかけられるよりも、犯人がその場で現行犯逮捕される方が、広崎にとっては都合がいいはずです」

 森本の背筋が凍った。

「衣笠は生贄だったということですか?」

「ええ。衣笠は殺人実行犯として、そして広崎の身代わりとして操られていたに過ぎません。最終的に、殺人人形として本当に動機があった広崎の代わりに逮捕されるように」

 人間というものは、ここまで残酷になれるものなのだろうか。森本は思わず広崎を睨みつけたが、広崎は意にも介していないようだ。

「ですが、誤算が起きた」

「衣笠が無事に脱出してしまった」

「あの密室は広崎にとって完全に予想外だったはずです。おまけに、その余波で密室殺人になってしまい、あろうことか自身が疑われてしまった」

 榊原はいったん言葉を切った。

「ここで、例の新幹線の写真に戻ります。あの写真ですが、衣笠を生贄にするつもりだった以上、あれが衣笠のアリバイ工作のために作られたとは思えません。となれば、あれは自身のアリバイ工作のために作られたのではないかと考えられます」

「広崎自身の……」

「考えてみれば階段の修理をしていたというアリバイはあまりにも弱いものです。ですから、本当は仕事の合間に理科室に行って新幹線を撮影していた、とでも言うつもりだったんでしょう。事情聴取の内容を聞けばわかりますが、本人は藤倉さんに『修理をしにいく』とは一言も言っていません」

 森本は慌てて思い出してみた。確かに、そんなことは言っていなかった。多分、修理用具が入っていると後に供述していたあの鞄は、本当はカメラが入っていたと供述するつもりだったのだろう。つまり、本当は理科室で写真を撮っていたというのが広崎のアリバイだったのだ。榊原が続ける。

「本来、衣笠は学生二人に見つかって捕まるはずで、そうなったら理科室にいた云々のアリバイは主張できないから、これで広崎のアリバイは成立するはずでした。これは想像ですが、日付が確定するきっかけとなった民家の火災も、実は広崎が自身のアリバイ工作のために放火したものかもしれません」

「あの火事も広崎の仕業ですか」

 森本が驚愕の表情を浮かべる。どこまで冷酷になれば気がすむのだろうか。

「が、衣笠は脱出してしまった。しかも、あろうことか理科室にいたなどというアリバイを出してきた。こうなると、自身が撮ったこの写真は爆弾以外の何物でもありません。何しろ、衣笠がいたという理科室に自身がいたことになってしまうからです。こうなると、二人の証言が矛盾するため、この時点でどちらかが犯人と警察に特定されてしまいます。実際は二人とも犯人なのだから、これはどちらが捕まっても一利もない。だから、広崎は衣笠にカメラを渡し、衣笠のアリバイを確保して自身も保身をしようと考えた」

 だが、その時点で森本は疑問を感じた。

「しかし、その推理はおかしいです。そもそもどうしてそんなアリバイを作る必要があるんですか? 殺人は衣笠がやっているんですから、当日に直接理科室に行って自身が写真を撮ればいいだけの話です。わざわざ前日に工作して偽写真を撮る意味がないんですよ」

「つまり、広崎本人にもこの写真が必要な事態が発生していたという事なのでしょう」

 藪から棒に、榊原はそのように告げた。

「アリバイが必要な事態って……」

「少なくとも仕事をしていたということはないでしょうね。ここまで手の込んだアリバイを作ったんです。おのずと、その可能性は限られると思います」

 森本は息を飲んだ。

「犯罪ですか?」

「おそらくは。そして、そうなると気になる情報があります」

「何ですか?」

「柿田の第一秘書です。森本さんも言っていたじゃないですか。柿田の第一秘書が病気療養中で海外にいるらしく、連絡が取れないと。確か、名前は伊東真代でしたか」

 森本はハッとした。

「彼女が病気療養に入ったのは十二月十日。事件の三日前です。都合がよすぎると思いませんか?」

「まさか……」

 森本が絶句する。榊原は間髪入れずに衝撃的な推理をはぶちまけた。

「伊東も柿田に同行していたんじゃないかという推測が成り立つんです。消えたのは事務所のナンバー2である柿田の第一秘書。柿田の仕事については全部管理していると考える方が自然でしょう。となれば、今回の視察のことも知っていて、もっと言えば同行したとしたと考えるのが筋です。しかし、事は解体問題となった小学校に関する仕事です。町側には広崎のような解体推進派も多いですし、本人たちも隠密性が要求されることは充分承知していたはずです。となれば、二人が一度に消えて不審がられることがないように、別々の理由で事務所を休養し、現地合流したんだと思います」

「待ってください。じゃあ、伊東はどこに消えたんですか? 彼女は未だに連絡がついていないんですよ」

 森本の問いに、榊原はとても重い表情で告げた。

「広崎がアリバイを作っていたことと彼女が失踪している現状。何があったのかおおよその予想は容易につきます」

 森本は青ざめた。

「まさか、広崎がアリバイを作ってまでやろうとしたのは……」

「伊東真代の殺害。だとすれば辻褄は合います」

 榊原の爆弾発言に、その場にいる全員が凍りついた。もう一件の殺人を告発された広崎は、怒りのこみ上げた表情で榊原を睨みつけている。

「もう一件別の殺人が起こっていたと言うつもりですか」

「おそらく、衣笠は柿田のことだけ知らされて、伊東が来ることまでは知らされていなかったんでしょう。どういう理由かは知りませんが、広崎はあくまで伊東を自身の手で始末をつけるつもりだった」

「しかし、伊東の姿は確認されていないんです」

「それを証言したのは藤倉守衛です。藤倉守衛が守衛に立ったのは正午以降。それ以前、すなわち午前中の人の出入りを見ていたのは当の広崎自身なんです」

「あ……」

 森本は絶句した。

「複雑になって来たので最初から広崎の計画を説明しましょう。広崎の狙いは二人、柿田と伊東です。まず、衣笠に柿田を説得するように依頼して柿田の自動殺害の伏線を張る。こっちは、最後は衣笠を逮捕させて、決着をつける気だったんでしょう。一方、伊東に関しては自身が決着をつける気だった。まず、伊東は藤倉がおらず広崎が守衛をしている午前中に来館し、そこから校舎を視察していた。正午になって藤倉が広崎から守衛を交代しますが、この際広崎は伊東の来館記録を消し、人数をごまかした。そして、柿田が来館し、衣笠が柿田を殺しているであろう時刻を見計らって北階段に行き、そこで今まで視察を続けていた伊東を殺害した。要するにあの時刻、館内の別々の場所で別々の殺人が起きていたということです」

 が、ここで広崎が反論する。

「待ってください。その伊東という秘書が、私が行ったときに北階段にいるなんて偶然、ありえないと思うんですけど」

「何度も言う通り、あなたは午前中守衛をしていた。その段階なら、守衛の立場を利用して来館者に罠を仕込むことも可能でしょう」

「罠?」

「例えば、話があるので該当時刻に北階段に来てください、といった感じです。町の職員であるあなたの頼みなら、伊東さんも断れなかったと思いますよ」

 榊原の隙のない反論に、広崎は再度畳み掛ける。

「ですが、仮にあなたの言う通りだとして、なぜそんな面倒くさいことをしたんですか? そんな、自分が仕込んだ殺人トリックの際に別の殺人を犯すなんて、わけがわかりません」

「そんなことはないでしょう。これこそがこの犯行で一番巧妙な点なんですから」

「……どういうことでしょう?」

「伊東殺害を柿田殺害の中に埋もれさせてしまった。そういうことです」

 広崎が詰まった。この機を逃さず、榊原が逆襲する。

「手品の基本ですよ。一度調べたところは二度と調べない。あなたが使ったのはこれです。一度殺人事件の捜査で調べた場所に、別の殺人事件の被害者がいるなんて普通は思わないでしょう。まして、被害者は『この場にいないはずの人間』なんです。殺人事件で殺人事件を隠す。これがこの二重殺人のからくりです」

 森本は唾を飲み込んだ。

「柿田殺害は、伊東殺害の目くらましですか」

「柿田殺害という大事件で犯人が逮捕された。まさかその陰に別の事件の別の被害者がいるなど誰も思わない。伊東が消えたことも殺人に比べたら何でもない事件だから調べられない。殺人と失踪を比較させて、伊東の存在を消す。それが広崎の狙いです」

「危険すぎませんか? 今回の犯行では柿田が殺されるかどうかは衣笠にかかっています。万が一衣笠が柿田を殺害しなかった、もしくはできなかった場合、当の柿田の証言から伊東がいなくなった事がばれてしまいます」

「なら、殺人が発生した事を確認して犯行を行えばいい。広崎としても殺人が起こったかどうかはリアルタイムで知りたいでしょうから、おそらくこの部屋のどこかに盗聴器のようなものが仕掛けられていると思いますよ。それを使ってこの部屋で無事殺人が発生した事を確認した上で、彼自身も伊東殺害を決行した。万一この部屋で殺人が起こらなかった場合は、自身も伊東殺害を中止して次のチャンスを待てばいいだけの話です。まぁ、彼の中ではそうなる可能性は低いと考えていたはずですが」

 榊原が広崎を見据えると、広崎は視線をはずした。

「では、あのアリバイは?」

「万が一、遺体が見つかった時に主張するはずだったアリバイです。見てみればわかりますが、あの新幹線の写真の時刻は広崎が作業していたと主張する問題の三十分間に集中しています。あの写真が元々広崎のアリバイ用だったのは明白です」

 慌てて写真の日付を見ると、確かに時刻は広崎の作業時刻と一致していた。榊原が抱いた違和感というのはこれのことだったのだろう。榊原の推理は続く。

「だが、衣笠が脱出したことで状況が変わってしまった。衣笠が現行犯逮捕された場合、現場検証は三階だけで済みます。ですが、衣笠が罪を逃れたため、校舎中が調べられる危険が出てきた。そればかりか自身も容疑者です。ここで、理科室に行ったときに衣笠がいなかったと言って、衣笠を逮捕させることは可能でしょう。しかし、それは衣笠にとっては裏切り行為に他ならない。何しろ、柿田にあって説得するように依頼したのは広崎なんですからね。もしそれに逆上した衣笠が真実を述べたら、その時は身の破滅です。現行犯で捕まったのなら、衣笠も自業自得と考えてあえて町の不利になるようなことは言わないでしょうが、裏切られたとなれば話は別。だから、広崎は写真を渡して衣笠のアリバイに協力するしかなくなったんです。おそらく、衣笠には当日自分が撮ったものだから使えとでも言ったのでしょう。事件当日顔を合わせていないというのは嘘で、事情聴取前にトイレかどこかで瞬間的にこの打ち合わせをしたんだと思います。もっとも、これは万が一衣笠のアリバイが崩れても、あの写真は広崎がくれたものだということになり、そうなったら自然に広崎の伊東殺害のアリバイが成立するというからくりもあるはずですがね」

 恐ろしく複雑な論理に森本は絶句した。が、広崎は動揺した様子を見せず、ふてぶてしく笑みを浮かべながらこう切り替えした。

「いやぁ、すばらしい妄想ですね。いっそ、小説家に転身することをお勧めしますよ」

「これだけ言っても認めませんか?」

「言ったはずです、すばらしい妄想だと。今までの話は妄想に過ぎないんですよ。根拠が一切ない、ただ言葉尻を捕らえただけの辻褄合わせだ。物的証拠はどこにもないじゃないですか」

 榊原が黙る。広崎の反撃は続く。

「大体の話、あなたの推理が正しくても、私は何の罪に問われるんですか? 少なくとも、あなたの推理では私は衣笠に『殺せ』と命じたわけではない。これが衝動殺人だと言ったのはあなたですよね。仮にどんな魂胆があったとはいえ、私は衣笠が被害者を殺すのを予測できなかったわけです。私が説得を頼んだのに、衣笠が勝手に殺しただけ。いわゆる未必の故意も当てはまりませんし、これって刑法犯罪に該当するんですか?」

 さすがに公務員だけあって多少なりとも法律には詳しいらしい。まして、この男は校舎解体問題で法廷漬けになっていた人間だ。普通の人間より法律に詳しくて当然である。

 しかし、それは元刑事の榊原にとっても同じことであった。広崎の問いに、榊原はこう答える。

「確かにあなたの言う通り、柿田殺害に関してはあなたを逮捕することは不可能でしょう。刑法でいう『因果関係』がありませんからね。刑法の因果関係はまず『条件公式』というものに当てはめられます。俗にいう『あれなしばこれなし』理論というものです。簡単に言えば『犯人のこういう行為があったから被害者は死んだ。だから因果関係がある』という事になるでしょうか。この場合、『広崎が依頼しなければ衣笠は柿田を殺すことはなかった』という関係が成立しそうですが、判例はもう一つ『相当因果関係説』というものをとっています。これは『条件公式』に当てはまったもののうち、一般常識的に見てもあり得るもののみ因果関係を認めるというものです。今回の場合、衣笠への依頼そのものは単なる説得です。それがまさか柿田殺害に結び付くなど一般常識的には考えられない。したがって、この相当因果関係説で引っかかって、広崎の行為は罰せられない。もっとも、それこそがあなたの狙いの一つでしょうけどね。万が一ばれても法は裁けない」

「教唆でも無理ですか?」

「殺人を指示したわけではないから無理でしょうね」

 森本の言葉に榊原は首を振る。広崎は勝ち誇ったように言った。

「そら見なさい。その推理が当たっていようがいまいが、私にとっては関係ない話なんですよ」

 だが、そこで榊原は語気を強める。

「しかし、伊東殺害に関しての罪は逃れることはできません。自身が直接やった以上、間違いなく殺人罪は成立する。あなたが伊東殺害を必死に隠したのは、柿田殺害と違ってばれたら裁かれることを知っていたからです」

「何度も言わせないでくださいよ。決定的な物的証拠がありません。今までの推論はすべて状況証拠です。伊東なる人物が死んでいるというのはあなたの想像でしかありません。肝心の死体が発見されない以上、いくら推論を並べても広崎は逮捕できません。そもそも、その伊東という人物の死体はどこに消えたんですか? どうであれ殺人事件が起きた校舎です。警察が一通りは調べている。隠す場所なんかありませんよ。死体が見つからないんじゃ、あなたの考えも成立しませんね」

 榊原は答えない。広崎は最終通告を突きつけた。

「どうやら、証拠はないようですね。これ以上の話し合いは無駄でしょう。それと、今までの無礼な推理は耐えがたいものです。しっかり訴えさせていただきますので覚悟しておいてください。では、私は仕事があるのでこれで」

 広崎は背を向け、会議室から出ようとした。

 その瞬間、突然榊原がポツリと言った。

「ここ最近、不思議な噂が流れているそうですね」

 広崎がドアの辺りで足を止める。

「校舎を黒い影がうろついたり被害者の悲鳴が聞こえたり、ひどいのだと誰もいないのに何か震えるような変な音が鳴ったり。前者二つはともかく、後者は意味不明ですね。今回の事件に、そうした音は無関係です。どう思われますか?」

「……何が言いたいんですか?」

 広崎は背を向けたまま聞く。

「確かに、死体を隠すのは困難でしょう。ただし、その場所を推測するのは可能です。あなたも言ったように、二階の廊下に出れば家庭科室前の二人の学生が気づかぬはずがない。また、一階に出れば藤倉守衛が気づかぬはずがない。となると、伊東真代殺害現場はあなたがいたと主張する北階段以外に他ならず、ゆえに死体を隠すのもその北階段以外にありえないとなる。簡単なロジックです」

「馬鹿馬鹿しい」

 広崎は無視して出ようとする。が、その背中に榊原が鋭い言葉を突きつけた。

「エドガー・アラン・ポーの『黒猫』」

 広崎の方がビクリと震え、歩みも止まる。

「さすがにこの古典的名作は知っていましたか」

 榊原の問いに、広崎は答えない。背を向けたまま固まっている。

「誰もいないはずなのに聞こえる音。ところで、柿田の事務所の江古田第二秘書は、柿田の死後に事後処理などがあるので『病気療養で休職中』の伊東に何度も電話しています。当然携帯電話でしょうね。警察も、彼女に連絡を取ろうと携帯電話にかけているはずです」

 森本が息を呑んだ。今までの榊原の話から、最悪の想像が頭をよぎった。

「まさか、その音というのは……伊東の死体の隠し場所というのは……」

「当時修復途中だった北階段踊り場の壁の中」

 榊原がズバリ告げた。広崎は動かない。

「死体を捜しているわけじゃないんです。警察も修復中の壁の中までは調べませんよ。そもそもここは解体問題で今もくすぶり続けている校舎です。いったん埋めてしまえば、改装だけで反対運動や裁判沙汰が起こるようなこの校舎の特性上、行政的観点から掘り返すのはほぼ不可能です。多分、その場にあったセメントかなんかで死体を修復中の壁に埋め込んだ。後は、業者の人間が壁を埋めてくれる。まさか、壁の向こうに死体があるなんて思わずに。ポーの『黒猫』そのものじゃないですか」

 広崎は答えない。その首筋に汗が浮かんでいるのが見える。

「だが、そうとは知らない事務所の人間や警察が電話をかけ、壁の中に死体と一緒に埋め込まれた携帯電話はそれを受信した。かくして、見えない音……携帯のバイブレーター音が出現した。『黒猫』で黒猫が果たした役割を、携帯電話が代行したんです」

 榊原は静かに、しかし明瞭な声で止めを刺しにかかった。

「問題の壁を掘り返してみましょうか? 私の推理では、そこから伊東真代の死体が見つかるはずです。事件から半月程度しかたっていない上にほぼ真空のコンクリートの中です。保存状態は良好でしょう。解剖結果も正確に出るはずです。あの北階段の壁に死体を埋めるチャンスがある人間。そんな人間は一人だけですよね」

 榊原は広崎にしっかり告げた。

「事件当時、北階段で作業をしていた広崎和仁、あなただけです。さて、まだシラを切りますか? それとも、あなたの言う決定的証拠が壁から出るのを待ちますか?」

 沈黙がその場を支配した。広崎は動かず、我々もどうすることもできないままその場に突っ立っている。榊原は広崎の背中をジッと睨みつけている。そのまましばらく時が過ぎた。

 と、次の瞬間、広崎は急に肩を震わせ、そのまま私達に背を向けたまま会議室の入り口に崩れ落ち、嗚咽を漏らし始めた。

「あ、あいつが……あいつが視察なんてしなければ……衣笠があんな幸運に見舞われなければ……完璧だった……私の計画は完璧だった……私は……私は……」

 茫然自失という風にブツブツ呟き続ける広崎。榊原に敗れたその表情が森本に見えることは、ついになかった。

 外を夕暮れの暗さが覆おうとしていた。


 広崎はそのまま森本によって任意同行され、犯行を自供したため即日緊急逮捕。翌日、すなわち二〇〇九年最終日である十二月三十一日木曜日の大晦日。豊郷小学校は改めて再捜査が行われ、町長や町民に許可を取った上で該当箇所の壁が掘り返された。その結果、榊原の推測通り、北階段の修復場所から、ビニールシートに包まれた女性の絞殺死体が発見された。

 あらかじめ、名古屋の歯医者から伊東の治療記録が送られていたため、歯型から遺体が伊東真代であることが確定。これにより、事件の全貌が一気に明るみに出ることになる。

 同日、すべての証言が整ったことから、東京では滋賀県警の要請を受け、警視庁が杉並区の衣笠宅を強襲し、衣笠喜佐夫が正式に逮捕された。逮捕後、衣笠はかたくなに犯行を否認していたが、すべてが広崎の差し金であったと知らされるや否や激高し、そこからは全面自供した。それによると、生活苦で苦しんでいた衣笠に広崎が接触し、柿田を説得してくれれば多額の報酬を出すと依頼したのだという。それに伴い、元役場勤務と悟られぬようオタクのふりをすることに決まり、衣笠が自身の勤めるビデオ店で入手した写真を合成することでオタクに見せかけたのだという。ただ、そのためオタク知識は付け焼刃のものしかなく、鷲宮神社の住民登録の件については広崎にしろ、衣笠にしろ、全く知らなかったのだという。

 犯行時の行動だが、衣笠は三階で柿田に接触してさりげなく話しかけ、柿田を説得しようと試みるも、柿田はこちらの目的に気付き、三階から降りようとしたため、逆上して思わず近場に会ったギターで殴りつけたのだという。その後、パニックに陥ったが逃げるに逃げられず、例のからくりを使ってなんとか密室から脱出した。その後、広崎から例のカメラをもらってアリバイを証明したが、まさか最初から裏切られていたなど夢にも思っていなかったという。

 なお、広崎の動機となった肝心の新校舎だが、事件を受けて改めて数名の建築士が検査した結果、広崎が恐れたような異状は特にないと判定された。皮肉なことに、広崎はする必要もない殺人を犯したことになる。

 かくして、このアニメ聖地で起きた世に有名な殺人事件は、榊原の手によって完全解決に落ち着くことになったのである。


 全てに決着がついた十二月三十一日大晦日の夜。森本と榊原は森本の自宅で紅白歌合戦を見ながら、遠くから聞こえる除夜の鐘を聞いていた。

「すると、依頼人は殺された伊東真代本人だったんですか?」

 榊原は森本に尋ねた。つい数時間前に彦根署から帰ったばかりの森本は頷いた。

「改めて伊東真代の住民票を調べた結果、本籍地が問題の豊郷町だという事がわかりました。例の解体騒動の際にも住民側として参加していて、解体問題が一区切りついた後名古屋に引越し、柿田の事務所に勤めていたそうです。広崎とは解体問題の際に激しく論争していたと住民からの証言も取れています」

「なぜ建築事務所に?」

「豊郷町に今も住んでいる伊東の母親に聞いたところ、解体問題では建築技術の知識が住民側になかったために苦戦を強いられた。そのような事が二度と起こらないように、建築の勉強をしたかったとのことです。今でも、町側の対応には不満を持っていたらしいですね」

「で、思い余って事務所のボスに依頼した」

「ええ。ちょうど例のアニメであの校舎が注目されていて、町側にダメージを与えるなら今だと思ったようです。この事は町側はもちろん住民側にも極秘に進めていました。ところが、何かの拍子にこの話が広崎の耳に入ってしまった。どうも、広崎自身も解体問題の際に痛い目をみた伊東の事を気にして、それとなく彼女の事を監視していたようです」

「それが、あの悲劇の始まりですか」

「そういうことです。結局、解体問題とか町と住民の確執とかはあまり関係がない建前的なもので、詰まるところは伊東と広崎の個人的な確執に柿田と衣笠が巻き込まれたことによって生じた事件だったということですよ。なんともやりきれない話ですがね」

 榊原は黙って出されているお茶を飲んだ。紅白は終わり、すでに『行く年来る年』になっている。今年ももうすぐ終わりだ。

「これからあの校舎はどうなるんでしょうか?」

「聞いた話だと、例のアニメの第二期が四月から始まる事が決定しているそうです。したがって、ますますアニメ関連のイベントが行われるようなことになりそうです」

「そうですか」

 榊原は考え込んだ。

 アニメの効果が絶大なのは今回の事件でいやというほどわかった。その第二期となれば、今以上に聖地巡礼の客が集まるだろう。だが、彼らはあの小学校がかつて住民と町による戦場になったことを知っているのだろうか。そして、それをめぐって何人もの人間の人生が狂ったことを感じ取る事ができるのだろうか。

「そろそろですね」

 森本が呟く。見ると、テレビではカウントダウンが始まっていた。

『明けましておめでとうございます! 二〇一〇年の始まりです!』

 アナウンサーが言い、激動の二〇〇九年は幕を閉じた。

「明けましておめでとうございます」

「おめでとうございます」

 榊原と森本は挨拶した。

「今年はもう少し楽な年になればいいんですがね」

 榊原はそう苦笑し、再びお茶を口に含んだ。今までの事件のラッシュが嘘のような、静かな年明けであった。

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