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第二章 密室の解明

 翌日、二〇〇九年十二月三十日水曜日。どんよりと空が曇っている中、榊原は森本の車に乗って豊郷小学校に向かっていた。

 年末のため車で混雑する国道八号線から脇道にそれ、車一台通れるのがやっとという細い道をしばらく行くと、住宅地の真ん中に小さいビルが見える。それが滋賀県最小の自治体・豊郷町の町役場だ。パッと見た限り人影もなく、ひどく寂しい印象である。

「一見すると役場に見えませんね」

「それだけ小さな自治体なんですよ」

 榊原の問いに、森本が答える。その役場の前の小さな交差点を左折すると、唐突に役場とは比べ物にならないほど大きくて立派な建物が見える。これが、問題の豊郷小学校旧校舎だ。

 車は校内にある駐車場に入って停車した。車を降り、校舎を見上げる。何ともいえない威圧感がこちらへ伝わってくる。

「こちらです」

 森本の案内で校舎の正面に出る。玄関から中に入ると、すぐに靴脱ぎ場があった。森本が言ったように、土足厳禁らしい。その玄関の正面の窓から、一人の老人がこちらを見ていた。

「ああ、刑事さんかい」

 老人が気難しそうな表情で言う。森本は軽く頭を下げると、

「藤倉さんです」

 と、榊原に紹介した。

「また、捜査しにきたのかい」

「ええ、まあ」

「早く何とかしてくれんかのう。悪い風評が立って迷惑しとるんだ」

 藤倉は不機嫌そうに言った。

「一刻も早く解決できるよう努力していますので」

「ふん。どうだかな」

「あの部屋に入っても?」

「警察のあんたがいいと言うなら、別にいいんじゃないかね?」

 藤倉がぶっきらぼうに答える。

「どうします? 聞いておきたいことはありますか?」

「では一つだけ」

 森本の問いに榊原はそう言うと、藤倉に尋ねた。

「先ほど悪い風評が立っていると言っていましたが、一体どのような?」

 藤倉は目を吊り上げながら相変わらず不機嫌そうに答えた。

「くだらん噂が流れておるだけじゃ」

「噂?」

「三流の怪談と言った方がいいかもしれんのう。校舎を黒い影がうろついているとか、死んだあの男の声が聞こえるとか。その程度ならまだいいが、ひどい場合だと誰もいないはずなのにどこからともなく何かが震えるような変な音がするとか、どこぞの怪談とごっちゃになったような関係ない噂まで流れる始末。まったく、あんな事件が起こるとこんなたちの悪い無責任な噂が流れて困る」

 藤倉は怒り心頭と言った感じだった。

「その噂、本当なんですか?」

「まさか。都市伝説というやつじゃろう。刑事さんたちがさっさと犯人を捕まえてくれれば、こんな風評被害もなくなるんじゃがのう」

 藤倉が睨んだ。榊原は軽く咳払いすると、

「ありがとうございます」

 と、礼を言い、一歩下がった。

「じゃあ、行きましょうか」

 森本がそう言うと、二人は中央階段を上り始めた。この階段に有名な「兎と亀」のモニュメントがある。昔話の「兎と亀」をモチーフにした像で、階段の手すりに一定間隔で作られており、階が上がるごとに物語が進んでいくというユニークな作りになっている。

「こんなものが小学校にあるとは、随分豪華ですね」

「新しいだけが良いというわけではないということでしょうね」

 榊原の発言に、森本が律儀に答える。

 二階まで上がったところで、家庭科室が見える。その前で何かしゃがみながら作業をしているスーツ姿の男が見えた。

「ああ、広崎さん」

 森本が呼びかける。ということは、この男が容疑者の一人である広崎和仁なのだろう。四十歳という年齢にもかかわらず、少し疲れた様子だ。

「刑事さんですか。何かわかったんですか?」

「いえ。ですが、全力をつくしておりますので」

「そうですか」

 広崎は立ち上がった。

「何をしているんですか?」

「床が汚れているという苦情があったんで、拭いていたところです」

「大変ですね」

「まぁ、それが仕事ですから。例の壁の修復も終わって、ホッとしているところです」

 広崎は苦笑いする。

「それで、今日は何か?」

「いえ、また現場を見たいと思いまして」

「はぁ、構いませんが、刑事さんも大変ですね」

 広崎はそう答えた。

「何ならご一緒していただけますか? もう一度色々お話も伺いたいですし」

「よろしいのですか? それでしたらお付き合いいたしますが」

 広崎はそう答えると、私たちのことに気がついたようだ。

「そちらは?」

「ああ、私の友人で東京からいらした榊原恵一さん。この事件についてアドバイスをいただいております」

「へぇ、警察もそんなことをするんですねぇ」

 広崎は驚いた表情でこちらをしげしげと見つめている。

「じゃあ、行きますか」

 広崎の先導で、私たちは中央階段を上り始めた。

「残り二人の容疑者は?」

「さすがに解放しましたよ。ずっとそのままというわけにはいきませんから」

 榊原の問いに、森本は無念そうに答えた。解放までに犯人を特定できなかったのがかなり悔しかったらしい。

 階段を上がると、正面と左に大きなドアがあった。

「左が現場となった会議室です。もっとも、一部の人間いわく『音楽室』ですが」

 榊原は黙って頷くと、部屋の中に入った。幸い、見物客は一人もいないようで、ガランとしている。すでに事件の片付けはされていて、ここに死体が転がっていたとはとても思えない。

「凶器は?」

「回収しました。したがって、ギターはないはずです」

 見ると、確かにギターらしきものは見えない。榊原は、現場である唱歌室舞台袖と会議室を接続する小部屋の前に立った。この会議室側の入り口の前で被害者は事切れていたのである。すぐ横には北屋上へ続くドアがあるが、森本の話通り鍵がしっかりとかかっている。小部屋を覗くと、水道と棚があって、棚にはアニメキャラのグッズがたくさん置かれていた。その奥にドアがあり、ドアの奥は唱歌室のステージだった。

「確かに、そもそも隠れる場所が少ないですね」

 榊原が不意に言った。

「ええ。三階に犯人がいたとしたら、竹見と下澤が来たときに気がつかないはずがない。何しろ、彼らは大森の知らせを聞いた後すぐに三階に駆けつけ、そのままどこにも行くことなく三階中を調べまわっているんですからね」

「だとすると、脱出経路が必要ですが」

 榊原は小部屋に入ると、そのまま唱歌室のステージに出た。

「唱歌室は広々としていますね」

 唱歌室は机などが一切なく、後ろの楽器類が置かれた棚以外はガランとしている。そういう意味では会議室とは対照的だ。楽器の棚も楽器が乱雑に置かれているせいでとても人が隠れられそうにない。

「一目見たら誰もいないのはわかる。竹見の証言は正確ということか」

 榊原は何か考えながら呟いた。

「あれが新校舎ですか?」

 私は唱歌室の窓から見える光景を見ながら尋ねた。近代的な鉄筋コンクリート製の一般的な校舎が見える。手前には広々としたグラウンドも見えた。

「はい、今の豊郷小学校の生徒たちはあちらに通っています」

 広崎が答える。

「事件当日、このグラウンドでは数人の小学生が野球をしていました。その窓から脱出すればすぐに気づかれます」

「それに、この窓は半開き式ですか」

 榊原はそう言いながら窓を開けようとした。が、予想通り半分しか開かず、とても人が出入りできるような隙間ではない。

「駄目ですね。せいぜい腕一本が精一杯。これでは人が出入りするなんて不可能です」

 そう言いながら、榊原は会議室に戻った。こちらの窓も唱歌室のものと同様の形式だ。

「下手に小学生が身を乗り出して落ちないようにしてあるんです。だから、小学生でもその窓から出入りできないはずです」

 広崎が解説する。

「大人ではもっと無理か」

 榊原は唸った。

「窓が駄目となると、ドアか中央階段そのものしかないが」

「南北両方の屋上に通じるドアは施錠済み。鍵は役場の方で管理してあって、使用された形跡はありません。そして、中央階段前には竹見と下澤の視線」

「まさしく密室ですね」

「榊原さん、本当に昨日言っていたように衝動殺人なんですか?」

 森本が尋ねる。

「そう考えないとつじつまが合わないんですがね。だから、そんなに難しいトリックとは思えないんですが、実際に見てみると厄介ですね」

 榊原はそう言って部屋を出ると、階段前の南屋上へ通じるドアを調べた。

「随分重厚な鍵ですね」

「何しろ名建築家・ヴォーレルの作品ですからね。そこらへんの鍵とはモノが違います。古いですが、その分破るのは難しいです」

「こじ開けた痕もない、か」

 榊原が誰に言うとでもなく呟く。

「そんな痕があったら一発でばれますね」

 広崎が断言する。榊原は唸りながら部屋の中を振り返った。

「ん?」

 と、その時榊原の表情が微妙に変わった。

「どうしました?」

 森本が尋ねる。榊原はそれに答えずに、黙って南屋上ドアの前から会議室の方を見ている。

「いや、ちょっと……」

 榊原はそう言いながら、会議室のドアの入り口に近づき、何かを見つめている。しばらくすると、榊原は黙ったまま今度は唱歌室の方に入ってしまった。森本が後を追いかけて唱歌室に入ると、榊原は部屋の中央で何事か考えていた。

「だとすれば納得はいくし、該当する人間は一人しかいない。しかし、それでは大きな問題が一つ……」

 榊原はそう呟きながらステージを上がり、そのまま小部屋に入って会議室の方に出た。

「とはいえ、これで全ての辻褄があうのも事実……」

 榊原は何事か呻きながら、部屋の壁にもたれてブツブツ呟き続けている。

「あの、どうかされたんですか?」

 森本が見かねて同じ疑問をぶつけた。その声に、榊原はハッとしたような表情を見せる。

「あ、ああ。すみません」

 榊原は少し何かためらうようなそぶりを見せたが、やがてこう告げた。

「これはあくまで仮定の話です」

「何でしょうか?」

「一応、本当に一応ですが密室の仕掛けがわかりました」

 森本は傍にいた広崎は顔を見合わせた。

「わかったんですか? こんな短時間で?」

「少なくとも密室トリックに関してはこれではないかと思えるものは考えつきました。言った通り、そこまで難しいものではないと思います」

「では、犯人は?」

 榊原はしばし躊躇していたが、はっきりこう言った。

「ええ、犯人も一応は分かったつもりです。実は、私の考えた密室トリックが成立するのは、ある人物だけなんです。したがって、その人物が犯人である可能性は窮めて高いでしょう。ただ……」

 そこで榊原は急に口ごもった。この男にしては珍しい。

「ただ?」

「この推理は完全ではありません。あくまで密室と犯人に関しての考察です。したがって、大きな未解決の問題が残っています。それでも、未完成の推理であるという点をご了承いただければお話しますが」

 森本はしばらく考えていたが、

「それでも結構です。とにかく話していただけませんか?」

 と言った。榊原はしばらく森本をじっと見ていたが、

「わかりました。現時点で考えられることだけお話しします」

 と言った。


 榊原は会議室の中央に立ち、推理を語り始めた。

「では、さっそくですが。まず、この事件が衝動殺人であること。これが大前提となります。その上で、密室トリック、いや、これはトリックと言えるものではありませんね。密室のからくりが成立するのです」

「からくり、ですか」

 森本が復唱する。

「まず問題となるのは、被害者はどうやって監視のある三階に侵入したかです」

「そうです。建築学科の学生は被害者以外に三階に上がった人間を見ていません。どうやって三階にいったんですか?」

「呆れるほど単純な話だと考えられます。彼らが来る前に三階にいればいいんですから」

 あまりにもあっけない回答に、森本はしばらく唖然としてしまった。

「いいですか? 衣笠たち四人が三階を降りたのが十三時四十五分。建築学科の学生が来たのが十四時ちょうどで、被害者もそのころに三階に上がっています。その間十五分間。充分に三階に侵入は可能です」

「そ、そんな単純な……」

「しかし、それが一番簡単な解決です。少なくとも、これで『入る』という問題は除外できます」

 森本は一瞬黙りこんだが、すぐに立ち直った。

「確かに、それで『入る』行為は解決できました。しかし、問題は『出る』方です。この時にはすでに建築学科の学生がいたんですからね」

「ええ。問題は『出る』です。ここで、シミュレーションしてみましょう。最初に言った通り、これは衝動殺人です。思いがけず殺人を犯してしまった犯人。そんな犯人のまずやることは何でしょうか?」

「現場に細工とか、密室の形成ですか?」

 広崎の答えに、榊原は首を振った。

「それは計画殺人犯のやることです。衝動的に殺人を犯した犯人のまずやること。それは何をおいても『現場から逃げる』ことではないでしょうか」

「しかし、どうやって? さっきから言うように、三階唯一の出入り口の前には二人の学生が……」

「まさしく、犯人も同じことを考えたと思いますよ」

 森本はエッという表情をする。

「犯人も全く同じ考えでした。逃げようにも出入り口には二人の学生。逃げるに逃げられない。しかし、他の場所からの逃走は不可能。となったら、残る道は一つ。現場に留まることです」

「犯人が現場に残っていたというのですか?」

「当然の帰結でしょう。逃げられないなら現場にいるしかないんですから。これ以上簡単な論理はありません」

 言われてみれば当然の話に、森本はしぶしぶ頷く。

「結局、どうすることもできないまま時間が過ぎ、遺体は発見されてしまった。この時、第一発見者は会議室の入り口で遺体を見ただけで、入ることもなくすぐに引き返してしまった。したがって、これに関しては犯人がやり過ごすのは容易でしょうね。隣の唱歌室にでもいればいいわけですから。問題はこの後です」

「建築学科の学生二人がやって来た。竹見は唱歌室を、下澤は会議室を見ている。それもほぼ同時です。その上で、二人とも誰もどこにもいなかったと証言しています。犯人はどこに消えたんですか?」

 森本の問いに、榊原はこう言った。

「せっかく現場にいるんです。これは実際に実験してみたほうが早いでしょう」

「実験?」

「実際に事件を再現してみましょう。そうですね、森本さんと広崎さんが竹見と下澤役。死体役はこの椅子でいいでしょう。私が犯人役をします」

 思わぬ流れに、森本と広崎は戸惑っている。

「大森が死体を発見した後から始めましょう。二人は二階の家庭科室前に行ってください」

 榊原に言われて、森本たちはしぶしぶ二階の家庭科室前、すなわち中央階段の前にやってきた。と、森本の携帯が鳴る。出ると榊原だった。

『では始めましょう。森本さん、事件当日、大森が二階から駆け下りた直後の竹見と下澤の行動を取ってください』

「わかりました」

 相談し、広崎が竹見、森本が下澤をすることにした。二人で急いで二階に上がり、広崎が唱歌室を覗く。もちろん、誰もいない、同時に森本が会議室の方を見て会議室に死体役の椅子が転がっているの確認した。

「ん?」

 そこで森本たちは疑問に思った、今、広崎は唱歌室、森本は会議室を見ている。ということは……。

「榊原さんはどこへ行った?」

 森本は気になったが、言われた通り、そのまま会議室に二人で足を踏み入れ、椅子の元に駆け寄った。会議室の中に人影はない。さらに椅子に駆け寄ると同時に小部屋からステージの方を見るが、誰もいない。森本と広崎は顔を見合わせて小部屋から唱歌室の方に出る。が、さっき広崎が見たときと変わらず誰もいない。

「榊原さんはどこへ?」

 森本たちはすぐさま三階中を探し始めた。が、どこにも榊原の姿はない。

「一体、どうなっているんですか?」

「わかりません」

 唱歌室と会議室のドアの前で一度集合し、不気味に感じていたときだった。

「何とか成功したようですね」

 不意に榊原の声がした。あろうことか、階段の下から。

 ギョッとして階段の下を覗くと、さっき森本たちがいたはずの二階から、榊原がゆっくりと階段を上がってくるのが見えた。

「一体、どうやって」

 森本が呆然とした表情で榊原を見る。榊原は会議室に入りながら推理を語り始めた。

「いいですか? 竹見がいたのは唱歌室の入口です。ここから見た場合、唱歌室は舞台までしっかりと見ることができます。したがって犯人がいたのは唱歌室ではありません。次に、下澤がいたのは唱歌室の入り口前。ここからでは会議室の奥の方、遺体周辺は見えますが、手前の黒板周辺は見えません。が、この直後に二人は会議室に突入しているので、ここにいたらすぐにばれます。ドアの陰にいて、発見者が入った瞬間に入れ違いに出て行ったなんて非現実なトリックはここでは通用しないでしょう」

「では、どこに?」

「二人の視線が合わさらない場所。それはここしかありませんね」

 榊原が指差したのは、会議室と唱歌室を結ぶ舞台袖の小部屋、すなわち遺体のすぐそばだった。

「なっ」

 森本たちは絶句した。

「で、ですが、この直後に二人は会議室に突入して遺体のそばに行っています。そして小部屋も確認しているんですよ。これではさっきの黒板前の死角と大差ありません」

「おおありですよ。黒板前の死角は逃げ場がないゆえにすぐ発見されてしまう。ですが、この小部屋には逃げ道があります。他でもない、小部屋から舞台に出て、そのまま唱歌室に逃げるという方法が」

 アッとも森本は思わず叫んだ。

「駆け付けた段階で唱歌室には誰もいなかった。それは間違いありません。ですが、彼らが遺体に駆け寄った瞬間、唱歌室に誰もいなかったどうかなんて確認されていません」

「そうか」

 森本はこの時点ですべてを理解したようだった。

「要するに鬼ごっこみたいなものなんです。犯人が逃げる人、二人の学生が鬼です。鬼が移動するごとに、逃げる側も移動する。それがこの密室の最大の特徴なんです。まず、学生二人が唱歌室の入口の前にいた段階で、犯人は舞台袖の小部屋にいた。その数秒後、学生二人が遺体に駆け寄ったのを見て、犯人はあわてて唱歌室に逃げ込む。その際、犯人はつい今まで竹見がいた唱歌室の入口まで避難したと考えられます」

 榊原が説明する。

「その直後、学生二人の視線は、たった今まで犯人がいた舞台袖の小部屋に注がれます。当然、この瞬間に二人の注意は小部屋に向いていますから、背後の会議室の入り口で人影が動いても気がつかなかったでしょう。もしかしたら、二人とも小部屋に入っていたかもしれません」

「その隙を突いて、犯人は中央階段から堂々と脱出したのですね」

「その通りです。後は、いくら学生二人が三階を探したところで誰もいません。断っておきますが、学生二人が唱歌室の前に立ってから、遺体のそばに駆け寄り小部屋の方に注意を向けるまで一分もかかっていません。まさに早技の脱出劇です」

「なるほど、これなら確かに脱出は可能です」

 森本が感心する。

「ここまでくれば、なぜ密室が形成されたのかわかりますね。犯人は密室を作る気は全くなかった。ただ、単純に三階から脱出しただけだったんです。これ以外に他意は全くありません。むしろ、この密室は竹見たちが現場で今回のような動きをとらないと成立しません。したがって、密室が形成できたのほとんど行き当たりばったりの偶然であることはほぼ間違いないものと思われます」

 榊原が解説する中、森本は考え込んだ。となれば、犯人は一人しかいないではないか。

「榊原さん、もしかして犯人は……」

「気づいたようですね。まず、この犯行は十四時以前に三階にいないと成立しません。したがって、十四時以降に校舎に入ったことが確認されている琴平は容疑者圏外です。また、閉じ込められた以上十四時以降十五時以前にも三階にいないとならない。となると、、広崎さんは十四時以降に二度にわたって藤倉守衛に目撃されているので論外。この二人は、他人に直接見られているので、アリバイ工作などできません」

そして、榊原は断言した。

「そう。犯人は残る一人、衣笠で間違いないでしょうね」

 森本が苦々しげな表情をする。

「あいつが犯人か」

「理科室にいたというのも嘘でしょう。衣笠は、三階から脱出して階段を駆け降りると、すぐに手近な部屋、おそらくは施錠がなされていない貴賓室に駆け込んだ。この時点で学生二人はいませんから、何も心配する必要はない。その後、琴平が現れた。そこで、衣笠は貴賓室を出て琴平に声をかけ、あたかも今来たかのように振舞った。この時点で、密室は完了です」

 が、ここで森本が疑問を挟む。

「でも、それだと一つおかしなことがあります」

「ええ、それがこの推理の未完成である部分です」

 榊原がここで苦々しい顔をした。

「この推理では、衣笠は少なくとも十四時前から三階にずっといたことになります。となると、彼の撮影した新幹線の写真がネックになるんです」

「あの写真ですか」

「ええ。彼だけが直接他人に見られていないアリバイ、いわば間接的アリバイです。したがって、崩すならここしかないんですが、彼がいないまま通過する新幹線を時間通りに撮影する方法なんてあるんでしょうか?」

 榊原が自問自答する。

「問題の写真はありますか?」

「これです」

 森本は何枚かの写真を出した。豊郷町の風景の向こうに新幹線が走っている。広崎も興味深そうに覗き込んでいる。

「その、衣笠という男は写っていないんですか?」

 広崎が尋ねる。森本がそれに答えた。

「元々が風景写真ですからね。ただし、その風景は理科室から新幹線の線路を撮ったものに間違いありません」

「時刻は入っていますが、日付がありませんね」

 榊原が尋ねる。

「それが仕様なんだそうです」

「だとすれば、事前に別の日の同じ時間に撮影しておくという、極めてオーソドックスな手段が使えますが」

 森本は首を振った。

「その写真の手前を見てください」

「手前?」

 そこには何やら焼け焦げたものが写っていた。

「実は、事件の三日前に、その場所に立っていた家が火事で全焼したんです。したがって、その焼け跡が写るのは、事件の三日前までしかありえません。そして、その期間に関しては、衣笠は東京にいたという間違いのないアリバイがあるんです」

「参りましたね」

 榊原は本当に参った顔をした。

「つまり、事件当日でないと、この写真は衣笠には撮影できないんですね?」

「そうなります。ちなみに、合成の形跡はありません」

「密室の謎は間違いなく衣笠が犯人と示しています。しかし、このアリバイは厄介ですね」

 榊原は険しい顔をしている。こんなに苦戦している榊原の顔を見るのは森本も初めてだ。

「うーん、何かが引っ掛かるんだがなぁ」

 榊原はそう呟いている。

「その写真の具体的な時間はわかりますか?」

「一枚目から順に、十四時十九分、二十七分、三十八分、四十一分、四十八分です」

「その時間は正確なんですね?」

「ええ、実際にダイヤが正確な日を待って確かめてみました。間違いなく、この時間に写真が取られた地点を新幹線は通っています」

「そうですか」

 その瞬間、ふと、榊原の表情が変わった。

「どうしました?」

「いや、何か少し引っかかって」

 榊原もそれが何かまではわからないようだ。

 変に間が空いてしまったので、森本はふと気がついたことを言っていた。

「そもそも、先ほどの推理ではアリバイ工作をしているということそのものがおかしなことになってしまいますけど」

「と言うと?」

「密室の形成はあくまで偶然。本来なら、犯人は被害者を殺害すると同時に現場を脱出していた。でもアリバイ工作は、この密室ができることを前提としたものです。すぐ脱出するつもりなら、アリバイ工作を仕掛ける意味そのものがありません」

 榊原が難しい表情をする。

「確かに、あのアリバイは衣笠が被害者殺害から約一時間三階に閉じ込められるというアクシデントに近い状況が発生して初めて成立するものです。すぐに犯行を終えるつもりの人間が最初からアリバイ工作を仕掛けるとは思えませんね」

 榊原が考え込んだ。森本が不安そうな表情をする。

「となると、衣笠は犯人ではないのでしょうか?」

「ですが、あの密室を解くにはこの方法しかありえません。衣笠が犯人なのはほぼ間違いのない事実です」

「でも、衣笠が犯人なら、本来必要のないアリバイ工作を仕掛けた意味がわかりません」

 大きな矛盾が榊原たちの前に立ちふさがっていた。密室の形成は衣笠でなければ不可能である。しかし、そうするとアリバイそのものが衣笠の行動と矛盾してしまうのである。こんな馬鹿な話があるだろうか。

「これは、何か前提がおかしいとしか思えませんね」

 榊原が呟いた。

「前提?」

「この矛盾を解決する方法はそうありません。考えられるものとしては、アリバイ工作が、衣笠が現場を脱出した後に初めて仕掛けられたものであるというパターン。または、あのアリバイ工作には柿田殺しのアリバイという目的以外に何か別の意味があるのではないかというものです」

「考えつきますか?」

 榊原は何事か考えていた。

「実は、さっきから何か引っかかる事があるんです。ただ、それが何かがよくわからない。本当に漠然とした、何か些細な引っ掛かりが」

 榊原はしばらく唸っていたが、不意にそのままハッとしたような表情になった。

「そうか、そういうことか」

 榊原は突然呟いた。

「何かわかったんですか?」

 森本が尋ねるが、榊原は何か考え込んでいる。

「まだ確証はありません。ただ……」

「ただ?」

 榊原はしばらく思案していたが、

「少し電話したいのですが、よろしいですか?」

 と、不意に森本に尋ねた。

「ええ、構いませんが、何を?」

「ちょっといくつか確認する事が出てきました」

 いったん廊下に出て、携帯で何ヶ所かに電話しているようだ。森本には何が起こっているのかわからなかったが、榊原の推理が大詰めに向かっていることはなんとなく予想できた。

 十分くらいたっただろうか、榊原は戻ってきた。

「どうでした?」

「必要な確認は取れました」

 榊原は短くそう答えた。心なしか、その表情が硬い。

「正直、こんなアリバイ崩しは初めてですよ」

 何の脈絡もなく榊原は告げる。

「と言いますと?」

「これは、アリバイ崩しであってアリバイ崩しではありません」

 意味がわからない言葉を言った後、榊原はしっかりこう告げた。

「お話しましょう。この事件のすべてを」

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