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第一章 聖地の殺人

 当小説は実在の自治体・建物を舞台としているが、冒頭で述べられる解体問題の事実説明を除き、作中で起こる事件・人物等はすべてフィクションであり、現実の自治体・建物・及びそれに関連する人物とはなんら一切関係ない。今回は内容が内容だけにここで改めてこの点を強調させていただく。なお、作中で使用している見取り図は、二度にわたる実地取材で実際に建物を歩いて自作したものであり、自治体作成のもの等とは一切関係ないことを明記しておく。

 二〇〇九年十二月二十九日。滋賀県彦根市。

 私立探偵・榊原恵一がこの街にふらりと訪れてから数日が経過していた。先日、近くで発生した事件を解決した帰りであり、その静養がてらにこの街に住むかつての友人の元を訪れていた。

 森本敏明。滋賀県警の警部補であり、かつて刑事だった榊原とは以前合同捜査をした際に意気投合して、今でも個人的に友人関係を築いている男である。彦根市に自宅があり、現在は滋賀県警の所轄署である彦根署の刑事課に所属していた。突然の訪問に森本は最初驚いていたが、そこは榊原の友人だけあって寛容に彼を受け入れていた。

 森本の住んでいる辺りは観光都市・彦根市とは思えないほど田んぼが広がる田舎であり、静養にはもってこいの場所だ。静養中、榊原はどこか特定の場所に出かけるでもなく景色をボーっと眺めたり、読書をしたりするなどしてすごしていた。森本も仕事でほとんど家におらず、話し相手がいなかったというのも大きいらしい。

 二十九日の夜、その森本がようやく家に帰ってきたので、せっかくだということで二人はこたつで鍋をつつくこととなった。すでに先日の大雪で庭には雪が積もっており、その雪を月が照らしている。絶好の月見ならぬ雪見日和であり、榊原たちはそんな庭を眺めながら他愛もない話をしていた。

「しかし、見事な積雪ですね」

 榊原が感嘆したように庭も見ながら言う。積雪は軽く二十センチはあり、子供なら雪だるまが二つ簡単にできるくらいの量である。もっとも、見る分には美しいが、駐車場などに積もった雪は必死に除雪しなくてはならない。

「まあ、この辺りは豪雪地帯とまでは行かなくても、十分積雪地帯ですから。このくらいでもまだ軽い方なんですがね」

「東京では五センチでも積もったら十分豪雪ですよ。それで鉄道が混乱するんだから大変なんですけどね」

「こっちでは十センチくらいなら何の支障もなく運転しますね。ただ、さすがにここまで来ると信号機故障やらなんやらで停まってしまいますが」

「そうなんですか」

「それでもこの辺はましです。県北部になるとそれこそ日本有数の豪雪地帯ですからね。伊吹山ではかつて世界最高積雪量を観測しています。たしか十一メートルだったかな。戦前の記録ですが、現在でも破られていないようですよ」

「ほう」

 榊原は興味深そうな声を上げると、鍋からつみれをとって口に運んだ。

「それにしても、随分忙しいようですが、何か事件ですか?」

「気になるんですか? 静養中だと聞いていたんですが」

「やはり探偵としては少し」

「まぁ、そういうことです。ちょっと厄介な事件が起こっていまして、どうも行き詰まりの様相を呈しているんですよ。で、今日は一度家に帰って休んでこいという署長命令でこうして帰ってきたんですがね」

 森本はそう言うと、皿に取った白菜を口に入れる。

「どんな事件ですか?」

「そうですね……。考えてみれば、榊原さんにはぴったりの事件かもしれません」

「私にぴったり、ですか」

 どうやら、榊原は興味を持ったようである。森本は鍋をつつきながら話し始めた。

「豊郷町という自治体をご存知ですか?」

「いいえ。初めて聞きます」

「彦根市の隣にある小さな自治体なんですけどね。彦根署は彦根市だけでなく、その周辺のいくつかの町の事件も管轄していますので、豊郷町の事件も彦根署が担当することになります。その豊郷町で、数日前に殺人事件が起こったんですよ」

 殺人事件とは穏やかではない話である。

「事件そのものは、豊郷町にある小学校の音楽室で男が一人殺されたという事件なんです」

「被害者は教師か何かですか?」

「いいえ、観光客です」

 榊原は首をかしげた。

「なぜ観光客が小学校の音楽室で殺されるんですか?」

「その小学校というのは豊郷小学校の旧校舎なんですよ」

 榊原はきょとんとしている。

「どういうことですか?」

「説明しましょう」

 そう言うと、森本は豊郷町のことを含め、問題の豊郷小学校のことについて説明し始めた。


 滋賀県豊郷町は彦根市東部に位置し、市の南部で隣接している。人口約七千人弱、面積約七㎢という小さな自治体で、二十分もあれば町内を車で一周できる、おそらく、滋賀県で一番小さな自治体ではないだろうか。そんな、真っ先に吸収合併されそうな町であるが、安土町など有名な町でさえ合併の危機に瀕しているこのご時世で、このマイナーな町はなぜか今まで近隣市町村との合併の話が活発化したことはない。平成の大合併以前に、一応、彦根市と、周りの甲良町を含めた三市町による合同計画はあったが、そこまで活発化することもなくうやむやになってしまった。これには、主体となる彦根市が、滋賀県下の地方自治体には珍しく、これ以上の合併を望んでいないこともある。要するに、彦根城など全国的な観光資源を持つ彦根市はこれ以上の行政的負担を背負いたくないのだが、それ以外にも各住民が合併にそれほど乗り気でないという事情もある。特に彦根市民は、彦根城がある中でいまさら合併しても意味がないと考えている節がある。

 さて、そんな運がいいのか悪いのかわからない豊郷町であるが、以前一度だけ全国紙にその名をさらしたことがある。『豊郷小学校旧校舎保存問題』だ。

 豊郷小学校旧校舎は、一九三七年、豊郷町出身の実業家で、丸紅創設者の古川鉄次郎が、メンソレータムの近江兄弟社設立などに功績を残す高名なアメリカ人建築家であるウィリアム・メレム・ヴォーレルに設計を依頼した由緒正しいもので、小学校としては大規模な唱歌室と図書室、階段の「兎と亀」のモニュメント、当時としては非常に珍しい鉄筋コンクリート製校舎とそれに追従する講堂は、町のシンボルとして語られていた。それが平成に入って大問題へと波及する。

 一九九九年、当時の豊郷町長が旧校舎の老朽化と耐震性を理由に、豊郷小学校の新校舎建設、及び旧校舎の解体を宣言し、町議会もこれを可決。しかし、先のように伝統が残るこの校舎の解体には町民が大反対を示し、二〇〇一年、町民側が大津地方裁判所に工事差し止め訴訟を起こす。これに対し、大津地裁は差し止めを認め、町側も講堂の保存は了承したものの、校舎そのものの解体は依然として方針転換しなかった。

 その後、大津地裁は校舎解体差し止めの仮処分を出したのだが、二〇〇二年、事件が発生してしまう。町長側が町民の反対はおろかこの大津地裁の仮処分までもを一切無視して解体工事を強行し、校舎敷地内に工事車両を突入させて強引に解体を始めてしまったのだ。これには住民も激怒し、住民が強制工事の行われる旧校舎に立てこもる事態に発展。一触即発の中、報道も全国化して町長への批判が強まり、ついに町長側も工事の中止を表明する。

 さらにその後、工事の理由とされていた耐震性の不足に関しても、データに不自然な部分があることが発覚。日本建設学会も、耐震性には問題がなく、改修はともかく解体までには至らないと結論付け、いよいよ問題が顕著化する。一連の背景には、新校舎建設と旧校舎解体に伴う公共事業促進を狙い、国からの補助金が低い改修より解体の方が利潤になるとした町長側の判断があった。

 この事態に、ついに行政・司法ともに全面的な戦争が発生する。行政面での戦争としては、町長に対するリコール請求がなされ町長が失職。しかし、続く町長選挙では、町民側の分裂などもあって失職した町長が再選を果たす。その後、住民側は新校舎建設差し止めを求めるが、新校舎は完成してしまう。二〇〇六年、豊郷小学校は正式に旧校舎から新校舎に移る。二〇〇七年、統一地方選挙でこの町長は県議会議員選挙に立候補するも、一連の騒動における暴挙は県民も許せなかったらしく、あっけなく落選している。

 一方司法側の戦争であるが、まず裁判所の仮処分を無視して強行に解体工事を行った町長と業者は二〇〇四年に書類送検される。さらに二〇〇三年には町長に対する損害賠償請求、新校舎建設費支出差し止め訴訟及び損害賠償請求という三つの訴訟が行われ、最高裁まで激しく争われた結果、町長への損害賠償と支出差し止め訴訟は町民側の全面勝訴。残る一つは和解が成立し、とりあえず一連の裁判は終了した。だが、すべてにけりがついたわけではない。二〇〇八年、統一地方選落選によって引退した町長の後任となった新町長は五億円をかけて旧校舎の耐震・補強工事を実施。だが、町民側は設計事務所に依頼して調査を行った結果、一部分以外の補強工事は不必要だという結果が出たとして、二〇〇九年に不必要な工事で文化財的価値を損傷したことに対する建設委託費の返還訴訟を町側に起こした。この裁判は現在も続行中である。

 なお、肝心の旧校舎は、耐震工事の後、図書館や教育委員会の入る複合施設となり、有名建築家の設計した学校という触れ込みで観光地としても一般に公開されている。


「なるほど。その解体問題なら当時私もニュースで見たことがあります。ただ、複合施設になっているとは知りませんでした」

 榊原はそう感想を漏らした。

「要するに、その旧小学校の音楽室で事件が起きたというわけですね」

「ええ」

 森本がカキをつまみながら答える。

「ただ、表向きにはその程度しか発表していません。本当は厄介な問題があるんです」

「というと?」

 森本は告げた。

「実は、その事件は密室殺人だったんですよ」

 その言葉に榊原が唸った。

「詳しく聞かせてください」

 森本は頷くと、事件の詳細を話し始めた。


 事件は十二月十三日の日曜日に発生した。豊郷町は彦根市ではないが、管轄的に彦根署の管轄なので、通報を受けた彦根署の森本は早速現場に駆け付けた。

「ここが、問題の豊郷小学校旧校舎か」

 駐車場でパトカーから降り、三階建の校舎を見ながら森本は呟いた。彦根市では雪は降っていなかったが、それより北の米原辺りでは初雪が観測されててんやわんやの騒ぎになっているらしい。そのせいか、この辺も非常に寒く、森本は思わず首をすくめた。

 ちなみに、一連の騒ぎは森本も知っており、特に強制工事の際は万が一の事態に備えて出動待機をしていた。その点でも、他人事ではない校舎である。

「現場は?」

「ここの三階です」

 先着していた部下の金原三郎刑事が冷静に答える。

 この校舎のつくりは特殊で、二階までが普通で、三階がその二階建て校舎の中央部分の上に乗っかっている構造になっている。言ってみれば、前から見ると漢字の「凸」のような形に見えるのであり、その「凸」の突き出た部分が三階となる。ゆえに、三階は他の階に比べ面積が狭いはずである。

「行くぞ」

 森本は旧校舎の正面玄関から入った。校舎は土足厳禁で、玄関にはスリッパが置いてあり、正面に校舎の歴史等が展示されている展示室がある。森本たちはスリッパに履き替えると、右手にある中央階段を上って三階に向かった。階段には、有名な「兎と亀」のモニュメントが乗っかっている。

 そして、三階に到着する。階段を登りきったところには二つのドアがある。正面にあるのが唱歌室。左手には「会議室」とプレート表示されているが、一方でその上に「音楽室」という別のプレートが置いてあった。

「現場はこの『会議室』です」

 金原が告げる。森本は部屋に入った。

「なんだこれは?」

 それが森本の第一声だった。そこはどう見ても会議室には思えなかった。部屋の中央には長椅子が置かれ、その向こうに生徒机を四脚合わせて一つの机にしてあるのだが、その机の上に作り物の菓子類が置かれている。その向こうには二台の譜面が置かれ、その傍らに小さなギターが立てかけてある。教室の隅には小学校によくある旧式電子オルガンが三つ置いてあり、その上にラジカセが置いてあった。とにかく、どう見ても音楽室にしか見えないのである。

 そして、部屋の奥にある別室へ通じるドアの前に被害者はうつぶせに倒れていた。すでに鑑識員が部屋のあちこちで作業をしており、遺体のそばには検視官がいる。被害者は古びたトレンチコートを着込んだぱっとしない中年男だった。頭の裂傷が痛々しい。

「どうも」

 森本は検視官に挨拶した。

「ああ、どうも」

「具合はどうですか?」

「死後一~二時間といったところかな。遺体発見は今から一時間前。発見までの一時間以内に殺されたとみていいだろう。死因は頭部挫傷による脳出血。当たりが悪かったのかほぼ即死だ。声を上げる暇もなかっただろうな。詳しくは解剖待ちだが、まず間違いないだろう」

「遺体を動かした形跡は?」

「ないね。死斑も動いてないし、血痕なんかも考えると、ここで殺されたというのが妥当だな」

 森本は礼を言って、改めて辺りを見渡した。すると、また妙なものが目に飛び込んできた。今入ってきた入口の横に黒板があるのだが、そこにおびただしい量の落書きがしてあるのだ。それも「Mちゃん最高!」とか、「私がRだ!」とか、明らかに何かのキャラに関する落書きで、よく見ると、黒板の周りにもアニメか漫画のキャラと思しき絵があちこちに張り付けてある。ふと、別の方向を見ると、ホワイトボードがあり、そこにも同様の絵などがしっかり貼り付けてあった。

「金原、何なんだこの部屋は? とても会議室には見えないが」

 森本が質問する。

「どうも、いわゆる『聖地巡礼』の場所らしいですよ。ここは」

「聖地巡礼?」

 何かの宗教だろうかと森本は思った。

「いわゆる、アニメオタクたちが、アニメや漫画の舞台となった場所を巡り歩くことで、その舞台となった場所を、その手の人たちが『聖地』と呼んでいるんです」

「すると、このアニメの絵は?」

 金原がよどみなく答える。

「ここは今年になって放送された、音楽系のアニメに登場した高校の外観のモデルになった場所なんです。そのアニメが大当たりして、経済波及効果なんかもすごいことになったらしいですよ。その結果、この学校も『聖地』になったみたいです」

「どんなアニメだ?」

「廃部寸前の軽音部で女子高生がバンドを組んで演奏するというのが大体の流れですか。この会議室は劇中では音楽室となっていて、その登場人物たちが普段練習している場所で、言ってみればアニメの主舞台です」

「だから、アニメの通りに再現してあるというわけか」

 森本は苦々しげに言った。

「正確には、町が自ら行ったようですよ」

「何だと?」

「今言ったように、そのアニメの経済波及効果はものすごいものなんです。登場人物の一人の使う楽器が馬鹿売れして、二年分の在庫がなくなったという話もあります。とにかく今はアニメも立派な経済効果ですからね。同じような事例として、あるアニメで舞台になった埼玉県の神社の参拝客数が急増して、一気に五倍近くになったとか。市としても放っておけずに、昨年春に登場キャラを住民登録するなど、そのアニメを使った町おこしを行っているそうです」

「なんて世の中だ」

「一昔前まではアニメ好きは社会から疎外されていましたが、今では逆に彼らが町おこしの主体です。行政も進んでアニメを使った町おこしをやってくる。アニメのもたらす経済効果について研究している経済学者もいるそうです」

「お前、やけに詳しいな」

 金原はにこりともせずに答えた。

「報告を受けてすぐに調べました。捜査の基本ですよ」

 常に冷静沈着。それが金原刑事であった。その冷静さは彦根署でも評判で、森本の良き相棒として活躍している。ただ、愛想が悪いのが玉に傷ではあったが。

「とにかく、これは町の町おこしの一環というわけだな」

「ええ。何しろ小さな自治体ですからね。少しでも観光収入はほしいでしょう。現に、バンド公演なんかもあったそうですし、そっちの方面に対し全面的にバックアップしています。なんなら、一階の展示室を見たらどうですか。さっき見てみたら、例のアニメがビデオで流れていましたよ」

 森本は複雑な表情をしていたが、すぐに気を引き締めた。

「問題は、なぜこの男がこんなところで殺されたのかだ」

 森本は遺体を見下ろした。

「身元は分かったか?」

「身元を証明するようなものは持っていませんでした。ただ、駐車場に停めてあった車の中に、持ち主不明のものが一台ありまして、それを調べたらダッシュボードの中に免許証が入っていました。顔写真と一致したので被害者のものと断定。それによると、名前は柿田翔平。本籍地は愛知県豊中市。生年月日から逆算される年齢は四十六歳。車のナンバーは名古屋ナンバーでした。現在、愛知県警に被害者の情報を要請しています」

「愛知県の人間か」

 森本は手帳にメモしていく。

「第一発見者は?」

「別の観光客ですよ。観光客といっても『聖地巡礼』中の人間で、勇んでこの部屋に入ってみたら、アニメキャラではなく死体に遭遇したということです」

「その第一発見者は信用できるのか?」

「彼がここに来たのは死体発見の直前です。死亡推定時刻は死体発見までの一時間。その時点で、彼はここからかなり離れたところにあるガソリンスタンドで給油していたと言っています。該当するガソリンスタンドの防犯カメラを調べた結果、間違いなく彼は映っていました。アリバイは成立です」

「なるほど」

 森本はそれをメモすると、次の質問を始めた。

「ところで、容疑者は?」

「はい。まず、この校舎に入るには、さっき入った玄関を必ず通る必要があります。そして、その玄関の正面にある展示室には町の守衛がいて、展示室の中から直接玄関を見ることができるんです。その守衛の証言では、被害者が校舎に入った時点から、死体発見までの三時間の間に、入った人間は数名いるものの、出て行った人間は一人もいないとのことです」

「つまり、犯行はその時校舎にいた人間に限られるということだな」

「次に、その三時間に校舎内にいたのは守衛を含めて十八人。そのうち二人は一階にある町の教育委員会の職員で、一歩も教育委員会の部屋から出ていないのをそれぞれが確認しており、犯行は不可能。また、別の二人は建築関係者で、こちらも二人で行動していてアリバイ成立。さらに客のうち三人は展示室で例のアニメをずっと見ており、それを同室にいた守衛がずっと見ているのでアリバイ成立。逆にその守衛も、その三人が常に確認しているのでこれまたアリバイ成立。また、残り十名のうち、司書二名を含めた六名は一階の町立図書室、すなわち旧図書室にいたんですが、この図書館は場所こそ校舎の中にありますが、玄関とは別の入り口からしか入ることができず、図書館からこの校舎の中に直接来るのは不可能です。来るにはいったん外に出た後、改めて玄関から入る必要があり、反対に図書館に行くときも玄関からいったん外に出て、専用の入り口に行かなくてはいけません。そうなると守衛の目に必ずとまります。なので、この六名も削除です。そして、残る四人のうち、一人は例のアリバイのある第一発見者です。彼も除外されます」

「残るは三人か」

「ええ、この三人が現状での有力容疑者です」

 金原は自らもメモ帳を出して、それぞれの容疑者を確認し始めた。

「まず広崎和仁、四十歳。滋賀県豊郷町在住。豊郷町の職員で、事件当時は一階にあるねっと湖東観光推進室に一人でいたと言っています。二人目は衣笠喜佐夫、四十二歳。東京都杉並区在住。事件当時は二階北側の理科室に一人でいたと言っています。三人目は琴平達臣、二十三歳。静岡県静岡市在住。事件当時は一階南側の旧南昇降口付近にいたと言っています。三人とも証人はありません」

「そもそも、この校舎の内部の詳しい見取り図がわからないんだが……」

「これが見取り図です」

 金原が校舎の見取り図を取り出した。森本はそれを一瞥する(以下見取り図)。

挿絵(By みてみん)

 校舎は玄関入って左手が北であり、全体としては東向きに立っている。校舎の一階はほとんど豊郷町の公共施設が入っており、玄関の正面に小学校の歴史などが展示されている展示室。その左手、すなわち北側に向かうと、廊下の東沿いに教育委員会と、旧図書室を改造した町立図書館があり、図書館の向かいには木工・金工室がある。ただし、金原が言ったようにこの町立図書館は玄関からは入れず、校舎北側にある別の入り口から入る構造だ。

 玄関のすぐ脇の北側にトイレ、南側に「兎と亀」のモニュメントがある中央階段がある。階段はこの中央階段の他に、北側の図書館の前にある北階段と、玄関右手、すなわち南の突き当たり近くにある南階段の計三ヶ所がある。その玄関右手であるが、廊下の東沿いに、展示室の横から順にシルバー人材センター、相談室、ねっと湖東広域観光推進室、老人クラブ連合会、会議室、子育て支援センターが入っている。子育て支援センターの入る部屋の向かい側に、南階段、旧売店、旧エレベーターがあり、さらに廊下の突き当たりには当時小学生たちが使っていた南昇降口がある。その昇降口から南に通路がのびていて、この先は講堂に通じているが、現在は封鎖されて行き止まりだ。

 二階は大半が一般教室のまま保存されている。中央階段のほぼ正面に家庭科室。その家庭科室の向かいが現役時代に客用として用意された貴賓室。北側の突き当たり、すなわち北階段の前にコンピューター室、理科室、理香準備室が固まっており、南側の突き当たり、すなわち南階段の前に地歴室とトイレがある。

 三階には中央階段だけが通じていて、階段上って正面に唱歌室、右手に現場となった会議室がある。以上が大まかに言った校舎の構造だった。

「ここの校舎はすべての部屋が入れるのか?」

「いいえ、現時点で公開されている部屋以外は鍵で閉鎖されています。二階では、理科室、貴賓室、6の2教室以外は完全に施錠されていて入ることはできません」

「この現場の様子を見ると、三階の二部屋は両方入れるようだな」

「ええ。何しろこの校舎の目玉ですからね。あと、一階は木工・金工室、旧売店、旧EV、中庭以外は入室可能です。講堂は時々イベントで使われますが、現在は施錠されていますね」

「図書館はどこから入るんだ?」

「図の北側に中庭に通じる十字路があるでしょう。その十字路の南側が入り口で、そこを東に曲がると図書館に入れます。そこ以外は図書館からの出入りはできません」

「西側に曲がった先にあるのは?」

「何かの記念館です。中には例のアニメに感化して開店したカフェがあります。中には数名の客がいましたが、物理的に校舎に行けないので彼らも削除です」

「なるほどね」

森本は頷くと、容疑者三人がいた場所に丸をつけた。

「ところで、この現場になった三階に来るには必ずこの中央階段を上る必要があるんだな」

 森本が見取り図を叩きながら言う。

「その通りです。実はそれに関して問題があるんですが……」

「何だ?」

「それは現場の説明をしてからお話しします。その方がよりわかりやすいでしょうから」

 そう言って、金原は二枚目の図を渡した。それは、現場となった三階の様子をより事細かに記したものであった(以下見取り図)。

挿絵(By みてみん)

 階段を上った正面に唱歌室、左手に会議室があるのは先も述べたが、右手には南側の屋上に通じるドアがある。唱歌室は広々と広がっており、入って左側の奥に大きな舞台がある。

 一方、会議室は入ってすぐ左手に黒板があり、西の窓沿いに長椅子が設置されている。室内にはホワイトボードやいくつもの机が置かれ、北の突き当たりに北側の屋上に通じるドアがある。そのすぐ横に別のドアがあって、その前に死体が転がっていた。死体が転がっているドアは小さな小部屋に通じており、その小部屋はさらに唱歌室の舞台袖に通じていた。要するに、唱歌室の舞台と会議室がこの小部屋で通じていて、会議室が一種の控え室のようになっているというわけだ。会議室の北側と西側、唱歌室の東側には半開き式の窓があり、三階からの景色が見えている。

「被害者が倒れていたのは隣の唱歌室の舞台袖に通じるドアの前です」

「唱歌室というのは、要するに音楽室になるんだな。小学校の音楽室に舞台があるというのは変わっているな」

「ここを造ったヴォーレルという有名建築家の意向で、唱歌室は小学校にしてはかなり立派なものが造られています。ちゃんと舞台袖というものがあって、この場合、会議室そのものが大きな控え室になるという仕組みです」

「その舞台袖の入り口で被害者は殺された」

「ええ。それはさておき、この三階は先ほど森本さんが言われたように、図右下の中央階段以外に出入りができません。ところがです」

 そこでいったん金原は言葉を切った。

「先ほど、アリバイ検証の際に建築関係者二人がいたと言いましたね」

「ああ。二人でいたのでアリバイが成立したとかいう話だったな」

「この二人は京都の芸術大学の建築学科の学生で、有名建築家の建設したこの建物の見学及び実地研究をしていたんです。ところで、最初の図を見ればわかるように、中央階段は二階の家庭室前を通ります。逆にいえば、ここを通らないと三階には行けないわけです」

「何が言いたいんだ?」

 金原は結論付けた。

「実は、被害者が発見される一時間ほど前から遺体発見まで、この建築学科の学生二人が問題の家庭室前に陣取っていたんです」

「何だと?」

 森本は嫌な予感がした。

「家庭室前で建物の測量、スケッチ等をずっと行っていたそうです。これは他の観光客の証言もありますので間違いありません。彼らはその間、この場所から全く動いていません」

「それで?」

「彼らはこう証言しています。自分たちが作業を始めたころに被害者が三階に上がるのを見た。しかし、その後は例のアリバイがある観光客による遺体発見まで三階への人の出入りは一切なかったというのです」

「おい、ちょっと待て」

 思わず森本は止めた。

「じゃあ、何か? 現場となった三階には被害者以外の人間は出入りしていないというのか?」

「そうなるんです」

「しかも、被害者はここで殺された公算が強い。じゃあ、犯人はどうやって現場に入って、そしてどうやって現場から消えたんだ?」

「それが全く分からないんです」

 金原はあくまで冷静に言う。

「中央階段以外に全く出入り口はないのか?」

「あるにはあります。中央階段上がって右手にある南屋上ドアと、被害者の遺体のすぐ横にある北屋上ドアは、それぞれ二階の各屋上に通じています。ただし、ここは事件当時施錠されていて、出入りは不可能です。こじ開けた形跡等も発見できていません」

「南屋上ドアのそばにある三階屋上階段は?」

 森本が図の該当箇所を指差しながら聞く。

「ここは南屋上ドアを出てすぐのところにありますが、当然南屋上ドアを出ないと到達できません。ドアが施錠されていた以上、これを使うことは不可能です。なお、町側の許可をとって屋上もすべて調べてありますが、二階屋上はもちろん、この階段を上った先にある三階屋上、通称『気象教授室』にも異常はありません。まあ、教室なんて名は付いていますが、要するに野外観察のスペースだと考えていただいて結構です。もっとも、屋上といっても三階ですから、屋上に人がいたら外にいる人間に必ず気付かれます」

「窓は?」

 即座に森本は次の可能性を示唆した。が、金原は首を振る。

「窓はすべて半開き式のもので、人間が通ることは不可能です。そもそも、ここは三階ですよ。西側に位置する窓は正面玄関に面しているので、何かあったら玄関や駐車場、さらには学校の前を通る道路を走るドライバーが気付かないなどということはありません。東側の窓は現在も使われている豊郷小学校のグラウンド、さらには豊郷小学校新校舎に面しています。今日は日曜ですが、事件当時、グラウンドでは何人かの近所の生徒が野球をしていました。また、新校舎には教師も何人かいます。この状況下で東側の窓から出れば、彼らに必ず気付かれます。また、仮に彼らに気付かれなくても、着地点は展示室の真ん前です。展示室で放映されているアニメですが、これを放映しているテレビは窓側に設置されています。そんなところに降りたらテレビを見ている人間に間違いなく気付かれます。北側の窓は単純に北屋上に出るだけですので、先ほどの理由でこれもだめ。南側にはそもそも窓そのものがありません」

「どこかに隠れていたという可能性は?」

 金原は首を振った。

「遺体発見後、慌てふためいた発見者は誰かを呼びにいったん二階に下りますが、そこで先ほどの建築学科の学生と会ったので事情を話し、自身は展示室の守衛を呼びに行きます。一方、建築学科の学生二人は三階に上がり、そこで守衛が来るまで遺体の番や三階のチェックをしたんですが、三階に犯人らしき人間はいなかったということです。そのまま彼らは警察が来るまでそこにいましたが、その後警察によって屋上も含めた三階は徹底的に捜索されました。結果は、それらしき人間が隠れている様子はないということです」

 森本の顔が苦々しくなった。

「要するにあれか? これは推理小説なんかでおなじみの……」

「ええ、一種の密室殺人ということになりますね」

 森本はしばらく黙っていたが、

「遺体発見者と、例の建築学科の学生に話を聞きたいな」

「展示室に待機してもらっています」

「わかった」

 森本は部屋を出ようとしたが、不意に振り返って、

「そう言えば、被害者を撲殺した凶器は何なんだ?」

 と聞いた。金原はよどみなく答える。

「遺体のすぐ近くに立てかけてあるギターからルミノール反応が検出されました。おそらく、これが凶器でしょうね」

 アニメ聖地でアニメの小道具を使った殺人。森本は皮肉なものだと思いながら部屋を出た。


「なるほど。被害者以外出入りがなかった三階で殺人が行われた。三階に犯人らしき姿はない。犯人はどうやって三階に侵入し、そして、出て行ったのか。まさしく、正真正銘の密室殺人ですね」

 森本の話を聞いた榊原がそう感想を漏らした。

「詳しいタイムテーブルですが、遺体発見は当日の十五時きっかり。死亡推定時刻は十四時から死体発見までの一時間で、例の建築学科の学生が、被害者が三階に上がるのを見たのは十四時少し過ぎたあたりなので、そこから死体発見までの一時間に三階で何かが起きたんです。警察の初動捜査班は遺体発見の十五分後には現場に到着。私が到着したのは遺体発見から一時間後、十六時ごろです」

 すでに鍋の中の具はあらかたなくなっていたので、森本はうどんを鍋の中に放り込んで蓋を閉めた。

「それで、事件関係者に話は聞いたんですね?」

「ええ。そう言えば、被害者と容疑者以外の名前を言っていませんでしたね。遺体の第一発見者は大森間太郎、二十一歳。照会した結果、群馬県前橋市在住の大学生で、講義を放り出してアニメの聖地巡礼をしているそうです。例の建築学科の学生は、竹見笹雄と下澤舟といって、両名とも二十二歳。京都彩花芸術大学建築学科四回生です。あと、展示室にいた守衛は藤倉源介という七十五歳の地元の人間で、旧校舎保存派にいた男です。町の施設とはいえ、例の騒動があったためか直接の運営は町民自身が行っているみたいです」

「わかりました。それでは、それぞれの証言を聞かせていただきますか?」

 鍋の蓋から湯気が出ている。

「わかりました」

 森本は話を再開した。


 それぞれの尋問は、一階シルバー老人センター横にある相談室で行われた。関係者たちの待機している展示室の南側へ二部屋隣の部屋である。

 最初に呼ばれたのは、第一発見者の大森間太郎であった。大森は、おずおずと相談室に顔を出し、森本と机を挟んで座った。

「名前を聞かせていただきますか?」

 森本は丁寧に尋ねた。

「大森間太郎」

「職業は?」

「大学生です」

「今日は何しにここへ?」

「Mちゃんのいた場所を拝みに来たんですよ」

 「Mちゃん」とは、例のアニメのキャラの一人である。が、森本はそのキャラを知らなかったし、別に知らなくても問題ないと考えながら、とりあえずその名前をメモしておいた。こんな馬鹿げたこともメモしなければならないのが取り調べなのである。

 森本は改めて質問を開始した。

「では、具体的にどのように遺体を発見したのか話していただけませんか」

「はあ、さっき話したんですがね」

「もう一度詳しく聞きたいのですよ」

 大森は不愉快そうな顔をしていたが、やがてゆっくり話し始めた。

「あれは十五時ちょっと前でした。僕は車でここにやってきたんです」

「現住所は?」

「群馬ですが」

「群馬からここまで自動車で来たんですか?」

 森本は呆れた口調で聞く。

「聖地のためならどんなことでもしますよ」

「はあ」

 森本は咳払いして先を促した。

「車を降りて、校舎の写真を何枚か撮った後、すぐに中に入って三階を目指しました」

「なぜ三階に?」

「それが目的だからですよ! アニメの舞台になったのは三階なんですから。ここに来てそこに行かないなんてどうかしていますよ!」

 大森は興奮しながらまくし立てた。感情の起伏が激しいらしい。森本は冷静さを保っていた。

「三階に行くまでに誰かに会いましたか?」

「展示室の守衛さんと目があいましたよ。向こうがこっちを知っているのかは知りませんが。二階に行くと、二人組が何かスケッチやら計測やらをしていました。まったく、神聖な聖地で何をしているんですかね?」

「そして三階に行った」

「そうですよ」

「どちらの部屋に入りましたか?」

「そりゃ、音楽室ですよ。Mちゃんの部室はあの部屋ですからね!」

「正確に証言してください。三階にあるのは会議室と唱歌室です。どちらですか?」

 森本は三階の見取り図を示して聞いた。大森は迷うことなく会議室を指した。

「でも、僕たちにとってはあの部屋は『音楽室』ですよ!」

「あなたの主張は聞いていません。事実を聞きたいのです」

 森本は冷ややかに切り返す。大森は不服そうに森本を睨んでいたが、無駄と悟ったのか再び話し始めた。

「入った瞬間、妙なものが目に入りました。奥にあるドアの前に誰かが倒れているんです」

「何だと思いましたか?」

「最初はあっけにとられました。その後、人形かと思ったんです。でも、その後、床に血が付いているのが見えて」

「異常に感じた?」

「いいえ、その時点で死んでいると感じたんです!」

 大森はヒステリックに叫んだ。が、重要な場面なので森本は身を乗り出した。

「どうして死んでいるとわかったんですか? けがをしていると思わなかったんですか?」

「だって、全く動かなかったし、血の量が半端じゃなかったし……どう見ても死んでいるとしか思わなかったんです」

「その後は?」

「慌てて部屋から飛び出して、そのまま階段を駆け下りましたよ」

「ちょっと待ってください。では、あなたは遺体のすぐそばには近づいていないんですね?」

 森本は確認した。

「ええ」

「それをどこで見たんですか?」

「どこって、『音楽室』の入り口のドアですよ。あそこなら入った瞬間に死体が見えますから」

「入った瞬間に遺体が目に入り、すぐに階段を駆け降りた?」

「そ、そうです」

「その後は?」

「階段を降りたところにいた二人組に事情を話して、三階に行ってもらって、僕は一階にいた守衛さんに知らせに行ったんです」

「守衛を呼んだ後は?」

「そのまま展示室にいましたよ。だって、二度と死体なんか見たくありませんからね!」

 大森は首を振った。

「死体を発見してから、二階の二人組が三階に行くまでどれくらいかかりましたか?」

「そ、それこそ三十秒くらいです。一分は経っていませんよ」

「つまり、二階の二人組の前を通って三階に行き、慌てふためいて再び二階にかけ下りるまで約一分ということですね」

「え、ええ」

 それで大森の尋問は終了した。

 続いて、例の二人組こと、建築学科学生の竹見と下澤の二人が一度に呼ばれた。

「君たちは、学校の実習でここに来ているということでよかったですね?」

「はあ、卒論の共同研究でして。ヴォーレルを研究しているんです」

 二人のうち、竹見は聡明そうで、下澤は神経質そうな表情をしていた。質問にはもっぱら竹見が答えている。

「家庭室前で何をしていたんですか」

「教室の測定とか、スケッチとか、校舎の材質確認とかいろいろです」

「作業を開始したのは十四時で確かですか」

「はい」

「それ以降、三階に行く人間はいましたか?」

「え、ええ。私たちと同じころに中年の男の人が。それから死体発見の直前にオタクみたいな人が来ました」

 前者は被害者の柿田、後者は大森だろう。

「それ以外は?」

「いませんよ」

「見逃した可能性は?」

「絶対ありません。作業の範囲的に中央階段は必ず視界にありましたから、何かあったらすぐわかります。なぁ」

「う、うん」

 竹見の言葉に、下澤が同意する。

「では、事件発覚時の状況を教えてください」

「十五時ごろでしたか。いきなり直前に三階に上がっていったオタクの人がすごい勢いで駆け下りてきたんです」

「どんな様子でしたか?」

「血相を変えて、ただ事ではないと感じました。何事かと思っていたら、いきなり『お、音楽室で人が死んでいる!』って叫びだしたんです」

「どう思いました?」

「初めは何かの間違いかと思ったんですが、どうも真剣だったので、下澤と二人で三階に行ってみることにしたんです。そのオタクは一階に守衛を呼びに行ってくるといって、そのまま階段を駆け下りていきましたが」

「で、すぐに三階に?」

「ええ、階段を上がって、唱歌室に飛び込みました」

「唱歌室? 遺体があったのは会議室ですが……」

 そこで竹見は苦々しい顔をした。

「あのオタクが『音楽室』なんて言うから間違えたんですよ。僕たちがここに来たのは研究目的で、いわゆる聖地巡礼なんかじゃありません。そんなアニメがあったなんて知りませんでしたから、僕たちの認識では、あくまで会議室は会議室だったんです。『音楽室』と言われたら、普通は最近まで音楽室として使われていた唱歌室の方を思い浮かべますよ」

「でも、会議室のドアは開けっ放しでしたよね。遺体は見えなかったんですか?」

「会議室は階段の左にあります。唱歌室は正面です。てっきり唱歌室に死体があると思っていたんで、左にある会議室は全く眼中になかったんです。でも、いざ唱歌室に飛び込んでみても、何もなかった。僕は唱歌室のドアのところで思わず茫然として、そのせいで下澤は部屋に入ることができずにドアの前で止まったんです。そして、その直後に、下澤が何気なく会議室の方を見て、死体が会議室にあるのを見つけたんです」

「その後は?」

「すぐに二人で会議室の方に飛び込みましたよ。近づいてみると、あの人は血まみれで、どう見ても死んでいるとわかりました」

「失礼ですが、誰か不審なものは見ませんでしたか?」

 そこで、二人は考え込んだ。

「いや、最初に唱歌室に飛び込んだ時も、見渡す限り何も異常はなかったし、死体に近づいた後も、部屋の中や、遺体のすぐ横にあった小部屋から唱歌室の舞台の方を見ましたけど、特に怪しいものはなかったように思います。その時は、なんで唱歌室の舞台と会議室がこんな小部屋でつながっているんだと思いましたが、後であの小部屋は唱歌室の舞台の舞台袖だって聞いて、納得しましたけどね」

「唱歌室に竹見君が飛び込む前はどうですか? 竹見君は見ていなかったようですが、先に死体を見つけた下澤君はどうですか?」

 下澤は少し考えていたが、

「いえ、特に怪しいものは見なかったように思います」

「ふむ。では、遺体を発見した後は?」

「まだ犯人がいるかもしれないと思って、二人で手分けして三階中を調べました。結局、何も出てきませんでしたけどね」

「そうですか」

 それで二人の尋問は終わった。

 続いての尋問は一階展示室にいた守衛の藤倉源介である。七十五歳になるとは思えないほど元気のいい老人で、聞けば例の解体騒ぎの際に先頭に立って校舎に立てこもり、解体反対派の主軸となっていたらしい。

「この校舎はわしが三歳のときにできたんじゃ。当然わしもここの卒業生でのう。こんな立派な校舎を壊そうなど、罰あたりにもほどがあるわ」

 入ってくるなり、藤倉はそう言った。森本は苦笑しながら尋問を開始した。

「この校舎に来たのは何時ですか?」

「正午じゃ。いつもその時間からやっている。それまでは町の人間が守衛をしておるはずじゃ。もっとも、交代のときに人の出入りは引継ぎを受けるから、見逃しはないはずじゃが」

「なるほど、では問題の十四時から十五時の間の校舎への出入りについて確認したいのですが」

「何人か入ってきたが出て行ったやつはいなかったな」

「被害者が入ってきた時間は分かりますか?」

「ああ、何せ来るやつは少ないんでな。よく覚えとるよ。確か十四時少し前だったと思う」

「何か変わったところは?」

「いんや、脇目もふらずに階段を上がって行きよった」

 答えはひどくあっさりしたものだった。

「では、その一時間の間に入ってきた他の人間はこの中の誰ですか?」

 関係者の写真を机に示して尋ねる。藤倉はまず容疑者の一人である琴平の写真を指差した。

「この男は死んだ男が来てから十五分くらいして入ってきたよ」

 続いて大森を指差す。

「そして、こいつは死体が見つかる直前かのう。大体十五時か」

「やけに正確に時間がわかるんですね」

「展示室で放映されているアニメがのう、一本三十分くらいで、大体の場面で時間がわかるんじゃ。毎日嫌でも聞かされていたらそうなるよ」

 藤倉は苦々しげに言った。

「アニメで町おこしなどどうかしとるわ。この校舎だけでも十分価値はある。わざわざアニメなんぞに頼る必要はない。あんなオタクなんぞが来ても、何もうれしくないわ」

「では、なぜ守衛など」

「この校舎はわしが守る。あの問題が起こってからずっとそう思っておる」

 森本は少し黙ったが、やがて質問を再開した。

「遺体が発見された時のことを話していただけませんか?」

「ああ、十五時少し過ぎたころだったかのう。いきなりすぐ前にやって来た男が血相変えて駆け下りてきたんじゃ。そのまま展示室に飛び込んで、わしの元に来ると、『人が音楽室で死んでいる!』と叫びよった」

「それで?」

「何とか落ち着かせて事情を聴いた後、すぐに三階の会議室に向かったよ」

「おや、会議室とわかったんですね」

「よう会議室を音楽室と勘違いする輩がおるんじゃ。慣れてしもうてのう」

 藤倉は首を振った。

「その後は?」

「二階に行ったら、二人の人間が階段の前で不安そうな顔をしておった」

「誰ですか?」

「この二人じゃ」

 指差された写真は、容疑者のうち衣笠と琴平の二人であった。

「何やら騒がしいので様子を見に来たと言っておった。わしはすぐに三階に上がった」

「その二人は?」

「二階におったよ。わしが止めたんじゃ。三階に着いたら、事前に実地研究を申請しておった京都の学生さんがうろついとった。三階に犯人がおらんか確認しとったらしい。その後、学生さんの電話で警察に電話したんじゃ。電話の後は、そのまま三階で待っておったよ」

「他に三階に上がって来た人は?」

「わしが来てしばらくたったころに、教育委員会の二人が騒ぎを聞いて上がってきたが、階段のところで、校舎の中にいる人間を出さんように頼んだ。二人はその後校舎中を駆け回って関係者が校舎の外に出んように指示していたらしい」

 それで藤倉の尋問は終了した。

「次はどうしますか?」

 束の間の休憩時間に、金原が森本に聞いた。

「容疑者三人の話が聞きたい。今までの関係者の話と適合するかどうか確かめたいからな」

「わかりました」

 しばしの休憩の後、いよいよ森本は容疑者たちと対面することになった。

 まず、最初に呼ばれたのは観光推進室にいた豊郷町職員の広崎和仁である。スーツ姿の広崎は、部屋をきょろきょろ見渡しながら席に着いた。

「広崎和仁さんですね?」

「はい」

 広崎は実直そうに答えた。

「職業は?」

「豊郷町役場観光課で働いています。ここ数日は仕事でここの観光推進室に通っています」

 観光推進室は、この相談室の南隣である。

「観光課は長いんですか?」

「いえ、観光課そのものができたのが最近でして、それまでは地域開発課という部署で課長補佐をしていました。ただ、例の解体騒動で大規模な人事異動があって二〇〇六年からこの部署に」

 広崎は苦笑いしながら言った。地域開発課となると、解体を推進していた町長の意にしたがってその事務処理をやっていた部署だろう。解体騒動の責任を取っての左遷とも取れる。森本はそんなことを考えながら、質問を開始した。

「今日ですが、いつ頃この校舎に来たんですか?」

「朝からですよ。仕事がたまっていましてね。ただ、午前中は藤倉さんがいないので、正午までは私が守衛の代わりをしていましたよ」

 藤倉の話通り、午前中は町の人間が守衛をするらしい。

「藤倉さんが来たのは?」

「普段通り、正午きっかりでした」

「その後は?」

「観光推進室でずっと仕事をしていました」

「では、事件が起きた時のアリバイはありますか?」

「十四時から十五時とのことでしたね。そのころはずっと仕事で、一人で部屋にこもっていましたから証人はいません。先ほど話した通りですが?」

「一応の確認です。これも仕事ですので、ご理解ください」

 そう言っておいて、森本はさらに質問を重ねた。

「三階に行っていないということは証明できますか?」

「証明といわれても。ずっと隣の観光推進室に一人でいましたからねぇ。アリバイがないわけですし」

「十四時から十五時までの一時間ずっとですか?」

「えーと、いや、確か十四時十五分くらいに一回部屋を出しましたね」

「どちらへ?」

「北階段ですよ。二日ほど前だったかな、踊り場の壁のコンクリートはがれかけているって苦情があったもんで、業者を呼んで塗り替えを含む壁の修復作業が行われていたんです。言っておきますけど、ちゃんと許可は取っていますよ。解体騒ぎで少し修理するのも許可が必要になりましたから」

「業者の人間はいないみたいですが」

「今日は作業がありませんでしたからね。けど、客が近づかないように壁の近くを封鎖する必要があって、その作業をしていたんです。その作業は業者じゃなくて町がすることになっていましたからね」

 北階段は校舎の北側に位置し、二階の理科室の前にある。

「どれくらいかかりました?」

「三十分くらいです。終わったのは十四時四十五分くらいですか」

「証明してくれる人は?」

「藤倉さんですよ。私のいた観光推進室から北階段に行くには必ず展示室の前を通る必要があります。だから、十四時十五分ごろ、藤倉さんは北階段に行く私を見ているはずです。確か、挨拶もしましたよ」

「他に気がついたことは?」

「そうだ、確か修理に行くときに誰か学生さんとすれ違いました」

 写真で確かめると、その学生は南昇降口にいたという琴平だとわかった。藤倉の証言と一致する。

「作業の後は?」

「すぐに観光推進室に戻りましたよ。その際、展示室の前を通ったので、藤倉さんともう一度挨拶をしています。その後は、事件が発覚して教育委員会の二人が呼びにくるまでずっと一人です」

「二階にはいっていないということですか?」

「その通りです」

「それを証明できますか?」

「二階に行ったら、例の建築学科の学生さんが気づきますよ。廊下は南から北まで丸見えなんですから」

 言われてみればそうである。森本は一応頷いた。

「遺体が発見された十五時ごろ、あなたはどうしましたか?」

「どうって、何やら展示室の方が騒がしいなと思いましたが、別に気にも留めずに仕事を続けていました」

「では、いつ事件を知ったのですか?」

「しばらくして、教育委員会の二人が部屋にやってきましてね。そこで初めて事件のことを聞かされました。その後は、藤倉さんの命令とかで彼らと一緒に校舎内部の人間が外に出ないようにしていました。ええ、その際は常に教育委員会の人と一緒に行動していましたよ」

「現場には行っていない?」

「そうなりますね。そのまま教育委員会の部屋に待機していましたので、事件後は教育委員会の二人以外には会っていません」

 森本は写真を取り出した。被害者の免許証の写真である。

「この人物に心当たりはありませんか?」

 広崎はしばらくその写真を見ていたが、

「いや、別に。はじめて見る顔です。この方が何か?」

「被害者です」

 広崎は目を細めた。

「そうですか。恐ろしいことです」

 その後、二、三の質問がなされたが、特に事件に関係あると思われる情報は出ず、そのまま彼への質問は終わった。

 続いての容疑者は、事件当時理科室にいたという衣笠喜佐夫である。年齢四十二歳。どこか脂ぎった顔で、ハンカチで汗を拭きながら入室してくる。背中にはリュックサック。アニメの美少女キャラのプリントされた服を着込んでおり、森本は目のやり場に困った。

「衣笠喜佐夫さん。本籍は東京都。間違いありませんね?」

「はあ」

 衣笠は何か緊張しているのか汗を拭きながら答える。

「ご職業は?」

「はあ、あの、昔は公務員だったんですが、アニメ好きがたたって辞める事になってしまいまして、三年前ほどから秋葉原のビデオレンタル店で働かせていただいております。今日は休暇を取って、聖地巡礼に来たんです」

 森本は眉をひそめた。またしても「聖地巡礼」という言葉が出た。どうも、この男も第一発見者の大森と同じ類の人間らしい。しかも、大森がまだ二十代なのに対し、こちらは一応の職を持つ立派な中年男。そんな男がアニメに熱中している姿はどうも違和感がある。

「お休みの日には、よく?」

「ええ、日本の『聖地』はほとんど回りました。これが写真ですが」

 衣笠は頼まれもしていないのに、リュックから小型のアルバムを出した。そこには、いろいろな場所の前でピースをしている衣笠の姿が写っている。例えば、最初の写真には「二〇〇八年一月一日 鷲宮神社に初詣で H姉妹の故郷」という説明文とともに、どこかの神社の写真が貼ってあり、その写真には、カメラを構えるオタクと思われる人間や、「祝! H家が鷲宮町に住民登録!」と書かれている看板が写っていた。ちなみに「H姉妹」だの「H家」だのというのは、この神社を舞台とする別のアニメのキャラらしい。どうやら、さっき金原が話していたアニメで町おこしをしている神社の事らしかった。

「さて。あなたがここに来たのは何時頃のことですか?」

「ええと、十二時ちょうどですかね。着いた後、しばらく酬徳記念館の中にあるカフェでお茶を飲んでいました」

「その後は?」

「十三時半ごろに校舎に入って、その後すぐに三階に上がりました」

「誰かに会いましたか?」

「三人ほど先着がいました。十五分くらいそこで見物した後、彼らと一緒に二階に下りました。そこで別れて、その後は理科室にいました」

「何をしていたんですか?」

「いやぁ、実は私、鉄道マニアでもありまして」

「は?」

「理科室から新幹線がよく見えるんですよ。それを写真に撮ったりしていました」

 確かに、理科室からは学校のすぐそばを通る新幹線がよく見える。ちょうど線路より少し高い位置に位置するため、防音壁より上から見下ろす形になり、絶好の撮影ポイントになるのだ。

「写真は提出願えますね?」

「ええ」

 衣笠はカメラを差し出した。

「ところで、そうなるとあなたが被害者の来る前に三階に立ち寄った最後の人間ということになりますね」

「心外ですね。私の他にも三人いましたよ」

「それは誰ですか?」

 関係者の写真を示すと、衣笠は展示室でアニメを見ていた三人だった。彼らはアリバイがあるので犯人ではない。彼らが証人である以上、この証言はおそらく事実だろう。

「出る際に誰か部屋に残りませんでしたか? もしくは誰かいませんでしたか?」

「いや、誰もいませんでしたよ。何なら他の三人に聞いてくださっても結構です」

 森本は咳払いをした。

「では、遺体発見時ことについてお話し願います」

「何か廊下の方で騒がしかったので理科室から出てみたんです。ちょうど、家庭室前にいた二人が階段を駆け上がっていくところでした」

「その後は?」

「何かと思ってみていたら、廊下の向こうから誰か歩いてきました」

「誰ですか?」

「この人です」

 衣笠が指したのは琴平の写真だった。

「南階段を上ってきたみたいですね。そのまま中央階段を見たまま動かなくなったので、私も気になってそっちに向かい、彼に声をかけたんです。その直後に守衛さんが一階から上がってきて、そのまま三階に上がって行きました」

「その後は?」

「その後はずっとその南階段から来た人と一緒にいましたよ」

 それで衣笠の証言は終わりだった。

 最後に、事件当時一階南昇降口にいた琴平達臣が呼ばれた。二十三歳の漫画学部に所属する学生ということであるが、厚底のメガネをかけており、しばし目を細める動作が目立った。

「静岡芸術大学漫画学部四回生、か」

 差し出された学生証を見ながら森本が呟く。

「小生は今、卒論のテーマとして、漫画が世論に与える影響について研究しております。そこで、今までに例を見ない経済波及効果が発生したあのアニメの実地調査として、この学校にやって来た所存であります」

 かなり堅苦しいしゃべり方をする学生である。しかも一人称が「小生」である。

「二十三歳ということは……」

「小生は一度高校受験に失敗して、浪人しているのです」

「そうですか」

 森本は本題に入った。

「この校舎にはいつ来たのですか?」

「小生は十四時ごろこの学校の到着し、十五分ほど周りを見て回った後、十四時十五分に校舎に入りました。確か、職員さんとすれ違っているはずです」

 藤倉や広崎の証言と一致する。

「それで?」

「その後、一通り一階を見て回り、いざ二階に行こうしたところ、電話がかかって来たのであります」

「電話?」

「静岡にいる、小生の許嫁であります」

 森本は少し驚いた。

「許嫁がいるのですか?」

「学部も同じです。一日一度、あちらから電話をかけてくるのです」

「それで?」

「その後、迷惑にならぬように南昇降口に移動し、そこで三十分ほど話をしていましたが、急に二階が騒がしくなったので電話を切って、南階段から二階に上がったのです。二階に上がると、小生は中央階段のところに行き、何事かと階段を見ていたのですが、不意に後ろの方から中年の男性に肩をたたかれました」

 おそらく、それは衣笠であろう。

「ということは、アリバイはないのですね」

「いえ、小生の携帯は、テレビ電話です」

「て、テレビ電話?」

 森本は思わず聞き返した。

「小生、そのテレビ電話で三十分間ずっと話し続けていました。許嫁に聞けば、小生の背景が南昇降口であったことが証明されるでしょう」

 森本は難しい表情をしながら質問を重ねた。

「南昇降口にいたとき、誰か出会いませんでしたか?」

 出会わなかったとすれば、少なくとも一階にいた人間が、南昇降口から丸見えの南階段を使う事がほぼ不可能になる。そして、琴平は期待を裏切らない解答をした。

「誰とも出会っておりません。出会っていれば、テレビ電話の際にそのことを口にしているはずです」

 そう言って、琴平は証言を締めくくった。


「以上が、関係者の証言です」

 森本が話し終えた。うどんはすでに出来上がり、全員が自分の皿に盛り分けている。

「尋問後にいろいろ検討しましたが、それぞれの証言の関係性に矛盾はありません。したがって、少なくとも二人以上で行動していた際の証言に関しては全員が真実を述べているとみて間違いないでしょう」

「広崎の作業の話や、琴平のテレビ電話、衣笠の写真はどうでしたか?」

「まず、藤倉に改めて話を聞いたところ、広崎は間違いなく十四時十五分に展示室前を通っています。最初のときに言わなかったのは外部の人間について聞かれたからだと」

「挨拶をしたそうですが」

「短いものですよ。最初に行った時は作業用具が入っていると思われるバッグを提げていて、藤倉が『どちらへ』と聞くと、広崎は『ちょっと』と答えただけです。帰りは広崎の深刻より五分ほど誤差があって十四時五十分くらい。『終わりました』と広崎が言ったので、『お疲れ様』と藤倉が声をかけておしまいです。でも、十四時十五分と十四時五十分に広崎が展示室前を通ったのは間違いない事実です」

「他の二人は?」

「静岡にいる琴平の許嫁に話を聞いたところ、間違いなく該当時刻に話をしているそうです。しかも、南昇降口の背景がしっかり映っていたとか。衣笠の写真に関してもあまりよろしくありません。時刻表を照合した結果、該当する一時間にあの線路を通る新幹線のうち、ランダムに選ばれた上下五本の車両があの地点を通過する時間ぴったりの撮影時刻に撮られていました。これは自動撮影では不可能な芸当です」

「しかし、カメラの時刻は細工できる」

「あいにく、そのカメラの時刻は電波時計形式で、外部からの細工ができません」

 榊原は少し考え込んだが、そのままうどんをすすり始めた。

「熱いうちに食べましょう。話してばかりではどうにも持ちませんから」

 森本もいったん話を中断しうどんをすする。しばしの休息である。

「どうでしょうか?」

 食べ終わった後に、森本が尋ねた。

「これだけの証言で、この密室が解けますか?」

「うーん」

 榊原は唸った。

「いくつか聞きたいことはあります」

「何でしょうか?」

「被害者は何をしていた人だったんですか?」

「あの後、愛知県警に照会を行った結果、被害者の柿田翔平は名古屋市内で建築事務所を開いていることがわかりました」

「建築士だったんですか」

「ええ。もっとも、あの建物は建築家の中では有名ですから、いてもおかしくはありませんが」

「しかし、仕事納めで忙しいこの時期に来るでしょうか?」

「さあ。ただ、事務所の職員に聞いたところ、『二、三日休みます』と言って出て行ったらしいです。被害者は休暇を利用して物件を見たりするので、いつものことかと思ったみたいですね。まさか、こんなところで死んでいるとは思わなかったそうです。彼の仕事の内容を一番把握しているのは事務所を取り仕切っている伊東真代という第一秘書なんですが、こちらは病気療養中とかで今月十日頃から海外に行っているらしく、会うことはできませんでした」

「名古屋の建築士ですか」

 榊原は考え込む。

「では、その事務所は繁盛していたのですか?」

「少なくとも、名古屋市内では割と有名な事務所みたいですね。昨年、名古屋に建てられた日向ビルというビルがあるでしょう。大神グループの建てた地上百階建てのあのビルの設計を担当したのが柿田だったらしいです」

「大神グループ?」

 榊原の表情が険しくなった。

「森本さん、愛知県警への照会はクリスマスの辺りに?」

「ええ、正式な解答があったのはそのころです」

 榊原は鬼神島の際に少しだけ名前が出ていた、愛知県警が滋賀県警の要請で調べていたという殺人事件のことを思い出していた。被害者の名前も一致する。どうやら鬼神島事件で名前だけは出ていながら、事件には直接関係がなかった別件の殺人事件のようである。

「あと、例の鬼神島の事件の舞台になった合宿所。あれも柿田の設計らしいです」

「なんですって?」

 思わず榊原は聞き返した。

「まぁ、関係ないとは思いますけどね。榊原さんの尽力で鬼神島の事件は解決したはずですから」

「ええ、そうですね」

 榊原はどこか歯切れの悪そうな表情で頷いた。思わぬところで鬼神島事件の忘れ形見を見つけたような気分なのだろう。

 榊原は話題を戻すように森本に質問し始めた。

「では、前情報はこれくらいにして、まず、出られる出られない以前の問題として三階の窓の鍵は?」

「全部閉まっていました。また、どの鍵にも埃がかぶっていて、長い間開けられた形跡がないそうです」

「窓の線は薄いか。では、二つの部屋のドアは普段から解放されているのですか?」

「そうです。二つの部屋ともドアは常に開けっ放しです」

「では会議室と唱歌室を結ぶ舞台袖の小部屋の二つのドアは?」

「ここも常に開放状態です。だからこそ、会議室から唱歌室の舞台が見えるわけですが」

「つまり、外に出るドアや窓は厳重だが、三階内のドアに関しては常に開放されていると」

「その通りです」

 榊原は、森本に渡された見取り図にそれを書きこんだ。

「指紋はどうでした?」

「何しろ多数の人間が訪れる部屋です。あちこちに付着していて判別がつきませんでした」

「凶器のギターには?」

「これには血も含め一切付着していません。犯人が拭き取ったものかと」

「拭き取った布はどうですか?」

「ギターの後ろに捨てられていました。どうも、唱歌室の掃除用具入れに会った雑巾のようです」

「どうも行き当たりばったりの犯行に思えてなりませんね」

 榊原が感想を漏らす。

「どうしてですか?」

「凶器がギターという時点で妙なんですよ。そのギターはそれほど高価なものではないんでしょう?」

「どうしてそう思うんですか?」

「開放されている会議室ですからね。誰が持っていくのかわからないこの状況下で、そんなに高価なものは置いておかないと予想したまでです」

「その通りです。問題のギターはアニメで使用されたギターの再現版です。大きさは一般のギターに比べて小さく、傷が致命傷に至ったのは、ギターそのものの硬度によるものが大きいらしいです」

「そんなに硬いんですか?」

「いいえ、普通のギターくらいでしょうね。とにかく、重さで殺したという感じではないのです」

「私が犯人なら、そんなギターよりもっと確実に殺せるものを用意しますよ。例えばハンマーとか。それに、この犯行でわざわざ撲殺にする理由が見当たりません。私なら、返り血がない絞殺を選びますね。血を拭くにしても、有り合わせの雑巾より持参した布なりで拭きますね」

「衝動殺人ということですか?」

「その可能性が高いと思うんです」

 榊原はお茶を一口飲むと話を続けた。

「もし、この事件が衝動殺人なら、密室殺人も即興で考え出されたものとなるはずです」

「とするなら……」

「そんなに難しいトリックは使っていないはずです」

 森本は唸った。

「そもそも、一番気になるのはこの事件における密室の必要性です」

「と言いますと?」

「推理小説における密室殺人の形成理由には何があると思いますか?」

 突然榊原は森本に話を振ってきた。

「どういう意味ですか?」

「最近の推理小説では、単に密室を出しただけでは散々に叩かれます。密室を出す以上、密室を形成した理由が必要になるからです。その理由にはどんな種類があると思いますか?」

 森本はしばらく考えたが、

「そうですねぇ、一番多いのは被害者が自殺したと思わせるというパターンですか。密室なら被害者以外の人間は入らない。だから自殺だという結論になる。他には、捜査の撹乱とかですね」

「しかし、今回は二つとも当てはまりません。そもそも撲殺の時点で自殺はないし、捜査の撹乱にもなっていない。事実、容疑者は簡単に特定されていますからね。では、今回の事件において、この密室はどんな目的があって形成されたのでしょうか?」

 森本は腕を組んで厳しい表情をしている。

「そんなことは考えもしていませんでした。目の前の密室に精一杯で、その理由にまで考えが及んでいませんでした」

「先程の話ですが、これが衝動殺人で会った場合、その密室の形成理由はあっけないものになるのかもしれません」

「と言うと?」

「自殺に見せかける、捜査の撹乱、そんな高度な理由は計画犯罪の場合です。衝動殺人でとっさに思いつくものではない」

「では、どんな理由が?」

 榊原は答えなかった。そして、図面に目を通し、メモした各関係者の証言をもう一度眺めている。

「どうですか?」

 森本が聞く。そのまましばらく時が過ぎる。不意に榊原は顔を上げた。

「これは一度現場を見てみたほうがいいかもしれませんね」

 榊原は森本にそう言った。

「すでに警察の捜査は撤収していますから、現場には普通に入れると思いますよ」

「それでは、申し訳ありませんが明日案内していただけませんか?」

 榊原は頼んだ。

「……わかりました。それでは明日ご案内しますよ」

 森本はそう答えた。

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