被災生活2日目
2011年3月13日日曜日。
この日も朝から泥のかき出し作業に追われた。
それでも、道路や駐車場など、大まかには終わっていたので、前日に終わらなかった分と、後回しにしていた我が家の駐車場、そして裏庭をメインに作業した。
近所の皆さま方に手伝っていただいたおかげで、大変な量であると思われた泥はあっという間に姿を消した。
給湯器・クーラーの室外機のフィルターにかかっていた泥を全て除けて、簡単に水洗いしたところ、クーラーは動くようになった。
だが、給湯機は使えないままだった。
給湯器は水が出るまで、壊れているかどうかの判断すらつかないまま保留となった。
家の蛇口から水は変わらず出なかったが、公園の水が出る、と近所の方から教えていただいた。
公園の水は『1日4Lまで』という制限がなく、大多数の住民が公園や学校など、水が出る場所を探しては汲みに行った。
我が家でも、残り少なくなっていた風呂桶の水を足すことで、トイレ用水を確保することができた。
皿もこの水で洗うことができた。
何より嬉しかったのは、顔や手を洗う水が何の臭いもしないということだ。
震災以前では当然のように受けていた恩恵を、被災中は幾度も感謝した。
近隣の家を建てた建築会社の方が、震災の翌日(12日)にはウェットティッシュを配りながら、様子を見に来てくれた。
その時は、簡単に外観から危険の有無を判断するだけで、家の中の詳細な確認は後日ということだったが、予想外に早く、この日に我が家の危険度を確認しに来てくれたのには心底ほっとした。
建築会社によると、『天井から糸を垂らし、1メートルにつき5センチ以上の傾きがある場合は倒壊の危険がある』とのことだった。
この時点で測った我が家の傾きは、1メートルにつき1.8センチ程度。
数値だけ見れば、大したことはないと思われるかもしれない。
だが、少し想像してみてほしい。
扉の一番上から1メートルの紐を垂らすと、扉の取っ手の辺りでは2センチ近く離れているのだ。
ともかく、『即座の倒壊の危険はない』ということに、ようやく安堵することができた。
倒壊の危険がある家は、壁に亀裂が入る、扉や窓の開閉ができないなどの状態になり、見れば分かる、とのことだった。
この日の確認は機械などでの計測はなく、家の中の様子を確認し、目安を伝え、こちらの疑問について答えるところまでで帰られた。
建築会社とは別に、自治体関係の方も被害状況を視察していた。
こちらは外観から危険度を判断し、家に関する相談窓口を設けてあることを連絡して行かれた。
この日の夜、市内のホテルを取った。
夕食は川向こう、江戸川区まで車で出かけた。
市内の道路は酷い有様で、いくつかの銭湯の前を縫うように走ったものの、まだ休業していた。
ガソリンスタンドも、どこも閉まっていてた。
だが、浦安市と江戸川区を結ぶ橋は被害もなく、江戸川区に至っては何事もなかったかのように、平穏な夜だった。
ファミリーレストランも、震災による食材の不足などからメニューがわずかに制限されていたものの、特に気にするまでもない程度だった。
我が家では変わらずに水が使えなかったから、『皿で普通に食事ができること』に少し不思議な感じがした。
三日ぶりの風呂は、余震を気にしながらになった。
何も、よりによって風呂に入っている間でなくともいいだろうと思うのだが、揺れるものは仕方がない。
家族交代で風呂に入りながら、「緊急地震速報出たから気をつけてねー」、などと声をかけあった。
地震発生から三日目。
世間的に落ち着いたのか、この日は、友人・親戚・知人から、予想もしない人までが連絡を下さった。
あまりにも沢山の方から連絡を頂いて、本当に頭の下がる思いだった。
気が緩んだ分もあったのだと思う。
少し弱音を吐いたら、叱咤激励を返してくださった方もいた。
親戚の中にはまだ連絡が取れない人もいて、一刻も早く事態の収拾がつくことを願って眠りについた。