被災生活1日目
2011年3月12日土曜日。
目が覚めた時最初に思ったのは、「家がある」ということだった。
余震の度に傾いていく家は、だが一夜明けてもしっかり建っていた。
何度も余震があってあまり眠れず、眠いと言うよりは体が重かった。
トイレに行っても水は流れないままだし、手や顔も洗えない。
できる身だしなみと言えば、せいぜいが髪を櫛でとかすくらいである。
震災前に買ってあったパンと食材で朝食は問題なく食べられた。
住民は、朝から泥のかき出し作業に精を出した。
高齢の方の住まいから始め、順繰りに各家の泥をシャベルで山にしては、各家庭から持ち寄ったバケツに入れて近くの林に持っていく。
誰かが提供してくれたリヤカーは、皆で泥を運ぶうちに片側の車輪が歪んでしまい、それを何度も直して使わせていただいた。
近所の子ども達の、「ボクだってできるよ!」が微笑ましかった。
浦安市や水道局のホームページから必要事項をプリントアウトして配ってくれた人もいた。
(浦安市のホームページは繋がりにくい状態でもあったため、とてもありがたかった)
市内は広範囲で断水していて、学校などで給水をしている、という情報も載っていた。
以前買ってあった水を入れる容器を持って行くと、『一家庭につき4Lまで』とのことだった。
我が家は大人4人だから、一人につき1L。
飲食分のみでしかない。
地域によっては『一家庭につき2Lまで』の所もあった。
スーパーは営業できない状態で、コンビニの商品は仕入れができないのか、品薄が続いていた。
ガソリンスタンドも閉まっていて、電車もろくに動いていない。
いつ飲用水が手に入るか分からないから、喉が渇いても少し我慢しようか、のレベルである。
個人的には、結構切迫した状態なのではないかと思っていた。
そんな中。
千葉県船橋市近辺に住む友人から連絡があった。
「昼から遊びに行かない?」
呆気に取られた。
それどころの話か、と一瞬怒りも湧いたけれど、船橋市は遊びに行けるような状態なのだとわかった。
もしかしたら、浦安市の状況があまり伝わっていないのかもしれない、とも思った。
川を隔てた位置にある東京都江戸川区に住む友人に連絡を取ると、特に何事もなく生活できているとのことだった。
江戸川区も船橋市も、物が多少落ちたり、そのせいで何かが壊れたり、という程度の被害はあったそうだが、ライフラインに問題はないらしい。
浦安市の被害は、「地震が大きかったから」出たものではなく、「液状化したから」酷くなったようだった。
隣接する街が無事なのだ。
酷い状態は長く続かないのではないかと思えた。
大量に湧きだした泥は、一日では片付かなかった。
夕方まで続けたため、住宅地の道路や駐車場などの大部分から泥を撤去できたものの、我が家では駐車場がまだ片付いていなかったし、家の裏手にある泥が丸々残っていた。
浦安市内の断水状態は地区によってはかなり酷く、我が家近辺も復旧するまでに十日ほどかかると水道局のホームページに載っていた。
泥にまみれたせいもあって、風呂に入れないのは結構厳しい。
だが、浦安市内の銭湯は軒並み休業している、と泥かきの間に情報を交換しあったばかりだった。
この状態がしばらく続くようなら、友人宅に押し掛けて風呂を借りるか、と勝手なことを考えていた。