その日(後編)
電気がつくようになって初めて、震災の規模を知った。
繰り返し流れる津波の映像を見て、愕然とした。
家が傾くほどの揺れを起こした震源地は、遠く離れた東北沖だった。
浦安市近辺は確かその時、震度5程度とされていたように思う。
(その後震度6弱に訂正された)
これだけ離れた場所で、この被害が出ているのだ。
では、ここより近い場所にある町では……?
千葉県内でも、津波による被害や、大規模な火災が発生しているようなのである。
親戚や友人に電話をかけた。
だが、結局この日のうちには連絡を取れたのは都内に住む兄弟と、県内の友人1人だけだった。
都内に住む兄弟にもなかなか連絡は繋がらなかったが、向こうからも連絡を取ろうとしている形跡があって、生きてはいるらしい、と判断することができた。
(21時頃連絡を取ることができた時には、家に戻れないので職場で過ごすとのことだった。結局家に戻れたのは翌朝だそうである。いわゆる帰宅困難者というやつだ)
市内の高層ホテルに勤める兄弟も、怪我もなく無事だった。
ただ、当時20階あたりにいたらしく、物が自分目がけて飛んでくるのを見、頭にかすって気を失ったところを同僚に救助されたそうだ。
(首のあたりに飛んできたからギロチンされたかと思った、とは当人談。兄弟に向かって飛んだ金属の板は壁に深さ数センチの凹みを残したそうだ。生きててくれてありがとう、の境地である)
当人は怖くて当時のことを良く覚えていないと言っていたが、それでも「怖い」、「夢に見る」と半月ほど洩らしていた。
ホテルは緊急時には避難所として指定されているらしい。
兄弟もスタッフとして対応したようだが、電車がストップして帰宅できない従業員も多く、「帰れるならば」とそう遅くない時間に帰宅を許可され、帰ってきた。
水が出ないというのは、思いのほか不便だった。
まず、トイレが流せない。
当然、シャワーも浴びれない。
手も顔も洗えない。
飲食用の水がない。
そして、食器が洗えない。
洗濯は言わずもがなである。
17時の時点で家にあった水と言えば、買ってあった1.5リットルの未開封ペットボトルが1本、そしてひと月ほど前に汲み置いてあった4リットルの水、ポットの中に残っていた半分と、前日に使った湯船に張ったままの水、それですべてだった。
皆考えることは同じで、コンビニや自動販売機の飲料水は全て売り切れた後。
スーパーは軒並み閉店し、ペットボトルの飲料水を無償で配ってくれたスーパーもあったものの、我が家では手に入れることはできなかった。
それでも、コンビニにはジュースやお茶、珈琲の類はいくらか残っていたようで、それを手に入れることができた。
いざという時に飲めるものがあるのとないのでは、精神的な余裕が全く違った。
トイレは風呂の残り湯で強制的に流した。
(小は数回分まとめて、大は仕方がないので1度ずつ流した、と言えば切迫した状況が幾分か伝わるかと思う。残り湯は結構あったはずだが、トイレを1度流すのにバケツ1杯分が必要で、使える回数はそう多くない)
使用したトイレットペーパーは詰まると困るので流さず、不透明のビニール袋(買い物のときについてくるやつをいくらか貯めてあった)を2枚重ねて仮のごみ箱とした。
下水管が詰まると水が逆流してくるので、様子を見ながらだった。
我が家には1階と2階にトイレがあるが、この際2階は使用禁止とし、1階だけを使った。
歯を磨く、あるいは手や顔を洗う為の水として、ひと月前の汲み置きの水を使おうとしたが、念のため沸騰させたところ、酷い臭いがした。
顔を洗おうと近付けると息が止まるくらい、そして手を洗えば臭いがつくくらい……。
風呂の残り湯とどちらが清潔かつ安全だろう、と真剣に悩んだ。
だが、歯を磨くのにはどちらも危険だろうと言うことで、残り少ない飲料水を使った。
残り湯を追い焚きして風呂に入れるかと考えたが、残念ながら給湯機が作動しなかった。
問い合わせたところ、水が流れない状態では故障かどうかの判断がつかない為、水が出るようになってから試してほしいと言われた。
皿が洗えないので、食器にはサランラップをかぶせて使った。
魚を焼いて乗せたら、当たり前だがラップが熱で溶け、意味をなさなかった。
そりゃそうか、と家族で笑った。
次から、熱いものにはアルミホイルを使うことになった。
コンビニで売り切れたのは、おおよそ下記のようなものである。
・紙コップ、紙皿など
・飲料水
・トイレットペーパー
・ウェットティッシュ
・化粧落とし(ふき取りタイプの水を使わないで済むもの)
・パン、調理が不要なもの
・米、カップラーメンなど、長期保存のきくもの
・菓子類
・生理用品、オムツ類
・携帯電話用充電器(乾電池式のもの)
・乾電池
夜になって、千葉県成田市に住む友人と連絡を取ることができた。
電車は止まったものの、近辺に住む同僚が車で送ってくれたらしく、帰宅困難者にはならずに済んだようだ。
友人宅では重ねた物が崩れ、井戸水がシェイクされて砂混じりとなり使えなくなった他は、特に被害がないとのことだった。
震源地からの直線距離にすれば成田市よりも浦安市の方が遠いのだが、やはりしっかりした地盤と埋立地では、後者の方が液状化する分、建築物の被害が大きいのだろう。
友人は飲食用の水を手に入れる必要があるとのことだったが、浦安市のように手に入らない、というような事態ではないようだった。
起きている間、緊急地震速報が来る度に、家族は2階、家具の少ない部屋に避難した。
家の危険度が分からないことが一番精神的にこたえた。
寝るときは各々枕元に懐中電灯と、いざという時に持って出るもの、そして靴を用意した。
飼い猫は2つの部屋に1匹ずつ、すぐにケージに入れて逃げられるように、トイレも分け、逃げ回って行方知れずとならないように扉を閉めた。
父と兄弟の携帯には緊急地震速報が届くが、母と私の携帯は古く、届かないタイプのもので、母は古いラジオを父に引っ張り出してもらっていた。
母の寝台はヘッドボードの方が明らかに下がっていたが、そのまま眠ることにしたようだ。
私は部屋のテレビを点けたまま寝ようかと迷ったが、結局消して寝ることにした。
点けたままでは眠れなさそうだったからだ。
それでも結局、たびたび発生する余震の度に目が覚め、ほとんど休めなかった。