涙
ー喉仏は喉の骨ではなく首を支える骨なんですー
爺ちゃんの納骨の際、火葬所の職員さんが言ったセリフだ。
まだ熱を帯びたその骨は僅かながらにも確かにそれは爺ちゃんの姿をしていた。
婆ちゃんや叔母さんは泣きながら納骨してた。
私は泣けなかった。不思議と何も感じなかった。
葬式の時もそうだ。お経が読まれている間も、霊柩車が出る時も、私は泣けなかった。
なんてだろう。友達のお父さんが死んだときはあれほど泣いたのに、自分の爺ちゃんが死んだときは涙一つないんだ。自分が怖くなった。
私は自分のためには泣けないのだ。
婆ちゃんはそれから私により一層甘くなった。
1人であれだけ大きい家に住んでいるのだ。寂しかったのだろう。遊びに行くとよくお菓子やパンを持たせてくれた。
婆ちゃんちに遊びに行くときは必ず仏壇に線香を上げる。
仏壇にはいつもお菓子が供えてある。
婆ちゃんがお菓子もらってきていいよと言うと私は供えてあるうちの消費期限が近いものを一つだけもらって帰る。
もう一人の爺ちゃんが死んだ
高1の冬だ。
正直あまり一緒にいた記憶はない。
私の知る限りその爺ちゃんは寡黙で厳しい人だった。だが同時に優しかった。
その爺ちゃんに関して最も色濃く覚えているのは小学校の低学年だった頃だ。夏休みに泊まりに行った。
宿題をやりたくないと駄々をこねていると突然爺ちゃんははっきりと一言で怒ったのだ。
外に出されて八つ当たりに庭の木の太い枝を2本ほど折ったのを覚えている。
当時はすごくびっくりした。なんせ無口な爺ちゃんがいきなり声を上げて怒ったのだから。
結局家には入れてもらえたが、私が戻ると爺ちゃんは寝室にそそくさと逃げるように入っていった。
気恥ずかしかったのだろうか。本当は孫が好きだということは知っている。
山登りに連れて行ってもらったのも覚えている。
もう年だからと私や兄弟に置いていかれながらも皆で頂上まで登った。小さい山だった。名前は確か弁天山。弁財天が祀られている山だと爺ちゃんが教えてくれた。
頂上では爺ちゃんがキャンプ用のコンロでお湯を沸かし皆でカップ麺を食べた。
ワンタンだったか、よく覚えている。
そんな思い出も小学生までのもの。
病気の治療のために入院、その後は後遺症などで自由に体を動かせず家族の介護の元なんとか命をつないでいるような状態だった。
入院を繰り返していた。
最後に一緒に出かけたのは一緒に買い物に行った時か。
ゆっくりと、震える足で歩いていたのは覚えている。
お通夜の時、式場に泊まった。悲しみと不安で眠れなかった。
葬式が一通り終わり、棺に花を手向ける時にようやく涙が流れた。必死にこらえていた涙がようやく流れた。
私は少し嬉しかった。
人のためになら泣けるんだと思った。
だけれどあれはほとんど自分のための涙だった。
火葬の待ち時間に私はお菓子を数個口にしてから何も食べる気にはならなかった。
不揃いな長さの箸。
また握ることになった。
足から順に納めていく。
骨盤、腰骨、胸骨、腕、
そして首に差し掛かった時、またあのセリフが聞こえた。
そう言えばと思い返すとまた涙が流れた。




