標本の檻に囲まれて
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──標本の檻に囲まれて
ジークを取り囲むように壁、床、天井に広がりつつある大蜘蛛。
「蜘蛛は苦手なんだよ、勘弁してくれ……」
ジークは大蜘蛛だけはどうしても苦手だったのだが、こうなってしまっては戦うしかない。向こうに話し合いなどの意図があるようには見えないのだから。
「────!」
そして、1体の大蜘蛛が鋭くジークに向けて突撃してきた。
「やらせるかよ!」
素早くそれを“月影”で一閃し撃破するジーク。大蜘蛛は特に防御力や耐久力に秀でているというわけでもなく、“月影”の一撃で引き裂かれて撃破された。
しかし、それでも大蜘蛛の数は多く、1体の攻撃を合図に一斉にジークに襲い掛かってきた。牙を開き、牙から毒々しい液体を垂らし、ジークに向けて突撃してくる。
「ああ。畜生。生理的嫌悪感の方がデカいんだよ!」
がさがさと足音を立てて動く巨大な大蜘蛛は蜘蛛が苦手なジークにとっては大きな心理的ダメージになっていた。彼は本当に蜘蛛が苦手なのだ。
そのようなジーク側の気持ちなどお構いなしに大蜘蛛たちが次々にジークに襲い掛かってきた。ジークは“月影”でそれを断ち切りながらも、じわじわと部屋の奥に追い詰められつつあった。
何より大蜘蛛たちは味方がいくら斬られても平然と前進してくる。いくらジークが大蜘蛛を斬っても斬っても、彼らが怯えるということはなく、迷うことなくジークに襲い掛かってくるのである。
もちろん不死身であるジークはいくら噛まれようと、食われようと、死ぬことはない。だが、蜘蛛に対する生理的嫌悪は大きく、精神的に参ってしまいそうなことはありえることだった。
「あー! 近寄るんじゃねー!」
なので、ジークも必死である。
しかし、大蜘蛛たちはどこに隠れていたのか、次々に現れてきてはジークを襲う。ジークもその全ては捌ききれなくなり、腕や足に噛みつかれて毒液を傷口から送り込まれてシまった。
その毒が問題だった。その毒は直接相手を殺傷するものではなく、相手を麻痺させるもだったからだ。
「ぐうっ……!」
ジークはまず左腕の感覚がなくなり、次に右足の動きが鈍くなった。このままでは彼は戦うことができず、大蜘蛛たちによって蹂躙されてしまうだろう。
「“月影”!」
しかし、彼にはこの場でも頼れる味方がいる。そう──。
「ふわあ。またボクに用事なのですが、主様?」
現れたのは“月影”の化身だ。彼女は大きな欠伸をしながら現れると、退屈そうに群れる大蜘蛛たちの方を見た。
「すまん。麻痺毒を食らった。回復すまで敵を抑えてくれ」
「了解なのです。かる~く蹴散らしちゃうのですよ~!」
ジークに頼まれ“月影”の化身はにやりと笑うと大蜘蛛との戦闘に突入。
ジークと違って大蜘蛛に対する嫌悪感などがない“月影”の化身はいきおいよくバッタバッタと大蜘蛛を蹴散らしていく。大蜘蛛の頭を叩き割り、胴体を貫き、放ってきた糸を斬り落としていく。
「いいぞ。その調子で蹴散らしてくれ」
ジークは“月影”に戦闘を任せながらも自分の腕と足から上がってくる麻痺毒が全身に回るのを阻止するために自分の腕と足を月影で斬り落とした。ざんっと勢いを込めて彼は腕と足を切断。それからすぐに新しい手足が生えてくるのを待つ。
乱暴な方法だがジークの場合はこちらの方が回復が早いのが分かっていた。
そうこうしている間に流石の大蜘蛛も数を減らしていっていた。大蜘蛛たちは撤退という言葉を知らず襲い掛かっては“月影”の化身に斬り伏せられるが、あとに続く大蜘蛛太刀の数は確実に減っている。
「オーケー。戦線復帰だ。残りも蹴散らすぞ!」
ジークもすぐに手足を復活させ戦列に戻ると、“月影”の化身とともに大蜘蛛たちを蹴散らし始めた。相変わらず蜘蛛は苦手だが、一応はジークも英雄だ。相手が怖くて戦えないということはない。
ジークと“月影”の化身は一気に大蜘蛛を殲滅しに入り、大蜘蛛は部屋から一掃され、残る蜘蛛はいなくなった。
残るのは大量の大蜘蛛の死体だけの死屍累々の口径。刃で引き裂かれ長い手足が明後日の方向に曲がった死体からは、毒々しい紫色の体液が漏れ出ており、それが化学薬品のような異臭を放っていた。
「ふうっ……。どうにかなったな……」
ジークは額の汗をぬぐってそう宣言。
「主様~。頑張ったボクにご褒美くれても罰は当たらないのですよ~?」
「あとでな。今はここの確保だ」
によによと笑いながら血を催促する“月影”の化身をジークがあしらい、彼らはこの場の確保を目指す。
もはやここが悪魔崇拝者の根城であったことに疑いの余地はない。この場を可能な限りそのままに確保し、憲兵隊が捜査で証拠を押収できるようにしておかなくては。
「ここって不気味な場所なんですよ~……。なんだってこんなに虫の標本をたくさん集めてるんでしょうね~……?」
「さあな。多分、そういう趣味の人だったんだろ……」
“月影”の化身は気味悪そうに昆虫の標本の山を眺め、ジークは他に敵が残っていないかを確認していく。
「どうやら他にはいないみたいだな……。はあ、これ以上蜘蛛の相手をしないでいいって分かっただけで一安心」
「その判断は待った方がいいですよ、主様。あっちから何か音がするのですよ?」
「ええー……?」
ジークが“月影”にそう言われて耳を澄ませると、確かに別の部屋の方から物音がする。それもやはり虫が這いまわっているかのようなかさかさとした音だ。
「なあ、俺の代わりに見てきてくれない?」
「やーなのです。ボクもムシムシは好きじゃないのです。主様が行ってくださいよ~」
「はああああ」
“月影”の化身にすげなく断られ、ジークは覚悟を決めて扉の前に立つとその扉を思いっきり開いた。
「うっ……! この臭いは……死体の臭いか……?」
ジークは部屋に入ってすぐに腐敗臭を感じ取った。なんの死体かは分からないが、明らかに何か生の肉が腐っている臭いである。
「うげげげっ! 酷い臭いなのですよ~……」
「そうだな。それにやなものも潜んでそう」
自然界がそのサイクルを維持するには死体を分解し、土に戻す存在は必要だ。だが、それが必要だからと言ってそれを行う存在に人々が好印象を抱くかどうかは別の話である。えてして腐肉に群がる存在に人は不快感を覚えるものだ。
「背後を守ってくれ。俺が先行する」
「了解ですよ~」
ジークは背中を“月影”の化身に任せ、部屋の奥に進んでいく。薄暗い室内を目を凝らして進み、ジークたちは部屋の奥にある落とし戸に気づいた。
「この下、みたいだな。さあて……」
ジークは慎重に落とし戸を開くと、開いた隙間から小さな蜘蛛がわらわらっと溢れ、逃げ散っていった。
「うげえ。勘弁してくれよ……」
その光景にジークはぞわりとするものを感じながらも、勇気を振り絞って扉を開き、中を覗き込んだ。
「腐臭が濃くなったな。この先で間違いないらしい。いくぞ」
ジークは“月影”の化身にそう声をかけ、階段を慎重に降りていく。階段の先にある地下空間には僅かだが光源があり、それによってうっすらとだが中の様子が分かった。
地下はそこまで広い空間ではなさそうだが、さらに部屋がある。監獄のようなものであり、鉄格子で区切られていた。その先から腐臭は漂ってきている。
「イヤーな予感がするぜ、畜生」
そうぼやきながらジークは階下に降りていき、檻のある部屋に入る前に松明を探して、それに火打石で火をつける。カチカチという音とともに火花が散り、そして松明に火がつけられた。
それによって照らし出された地下には──。
「うわっ!?」
ジークはびっくりして檻の方を見た。
そこには先ほどの大蜘蛛の倍ほどは大きな蜘蛛がおり、それが檻の中に糸で巣を作っていた。さらにその巣の中には糸で巻かれた腐臭を漂わせるもの──その大きさからして人間の死体があった。
糸に巻かれた人間の死体からは小さな蜘蛛が無数に這い出しており、その死体がどのように使われているのかがすぐに分かった。あれは餌であり、苗床だ。
「畜生。最悪だぜ」
「げろげろなのですよ~……」
ジークはその檻の中の様子をよく見たが、生きている人間がいる様子はない。そして幸いというべきか、巨大な蜘蛛も檻の中の巣から出てきてジークを襲おうとするような様子はなかった。
「ここにいてもしょうがねえ。さっさと上に戻ってしっかりとカギかけとこう、カギ」
ジークはこれ以上の危険はないと判断し、同時にこの店舗を確保したとも判断。憲兵隊を呼んで、ここを調べてもらうことにした。
「ああ。忘れたらいけない。あの狼たちを助けてやらないとな」
ジークは大蜘蛛に襲撃された部屋に戻ると、檻の中に閉じ込められていた狼たちの前に向かった。狼たちは低く唸りながらジークを警戒するように見ている。
「安心しろって。お前たちのボスが来ているから、そこまで連れて行ってやるよ」
ジークはそう言って檻のカギを開けると狼たちは警戒しながらも檻から出てくる。
それからまたガルムの遠吠えが外でして、狼たちはそちらに向かって駆けて行った。
「俺たちも行くか。この虫屋敷にはうんざりだぜ」
「全くもって同意なのですよ」
ジークたちは虫だらけの店舗から日の当たる外に出る。
外ではガルムが狼たちと出会い、そして再開を喜ぶように吠え合っていた。やはりガルムは群れのボスなのか、他の狼たちはガルムに服従するような姿勢を取っている。
「おう。やっぱりお前は群れのボスだったんだな」
ジークがそう言ってガルムに笑いかけると、ガルムはジークの方をじっと見つめた。その赤い瞳には信頼の色が見える。ガルムは確実にジークのことを信頼してくれているようだ。
それからガルムは遠吠えを上げると、他の狼たちを率いて駆けて行った。ジークはその姿が見えなくなるまで、その姿を見送ったのだった。
「あれえ? あの狼は行かせてよかったんですか、主様? 誰か襲ったりするかもなのですよ~?」
「大丈夫だろ。賢いやつみたいだし。それにここまで連れてこられたのは、あいつの意志とは無関係みたいなんだよな……」
ルーネンヴァルトに野生の狼はいないとセラフィーネは言っていた。つまりガルムたちはルーネンヴァルトの外から連れてこられた狼となる。狼は好き好んで海峡を泳いで渡ったりはしないので、ガルムたちの移動は人間の手によるものだ。
「それなら大陸の方に送り返してうやればよいのでは?」
「まあ、あいつらがそれを求めたらそうしてやるさ。今は放っておいてやろう」
「りょ~かい~」
ジークはそれから憲兵隊を呼ばなければと思ったのだが、憲兵隊の方からやってきた。パウロたちがセラフィーネたちとともにこの店舗の場所までやってきたのだ。
「全く、いきなり出て行っていつまでも戻らないから心配したぞ」
「悪い、悪い。だが、ガルムのおかげで新しい手がかりが手に入ったかもしれない。見てくれよ、この中を。ただし、地下には今は入らないでくれ」
「ふむ」
ジークはそれからセラフィーネたちに大蜘蛛の死体を見せ、ここでガルムの仲間の狼が血閉じ込められていたことを示した。
「これは……大陸の砂漠地帯に暮らす大蜘蛛ですね。ここからは相当離れた場所の蜘蛛です。自然に運ばれてきたとは思えませんが……」
「他の魔獣も同様にここで飼育されていた可能性があるな」
まずアレクサンドラが大蜘蛛の死体を見てそう報告し、セラフィーネがそう推測。
「地下に連中の親玉がいる。これの倍近い大きさの蜘蛛だ。それが人間を苗床にして蜘蛛を増やしている。間違いなくここは悪魔崇拝者の拠点だろ?」
ジークは彼女たちにそう自分の意見を述べた。
「その可能性は高いのです。すぐにこの店の経営者を調べましょう」
「それならオレが調べておきます」
ロジーもジークの意見に同意し、エマがそう言って手を上げる。
「頼む、エミール。だが、憲兵と行動してくれ。どうにも悪魔崇拝者ってのは神出鬼没みたいだからな」
「ええ。分かっています」
悪魔崇拝者たちが捜査を妨害するために自分たちについて嗅ぎまわっているエマたちを襲わないとは限らなかった。それを防ぐためにジークは憲兵と行動するようにエマに忠告しておいた。
「しかし、あの狼はお手柄だな。我々はあれからも話し合っていたが、黒書結社についての調査はどうするべきかで困り果てていたところだ。これで突破口とまでは言わないまでも、手がかりになりそうな情報は手に入った」
「今度、あいつを見かけたらまた飯をおごってやらないとな」
セラフィーネは感心したようにそう言い、ジークも頷いた。
「で、地下の化け物はどうするんだ?」
「殺すしかねえだろ。あれは人間の味を覚えた化け物だぜ?」
残る問題は地下にいる巨大な蜘蛛をどうするのか。セラフィーネは店舗の方を見てそう尋ね、ジークはそう答える。
「なら、私が殺してくる。化け物を拝ませてもらおう」
「お好きにどうぞ。俺はついていかないから」
セラフィーネは嬉々として地下に降りていき、ジークは地上にとどまった。檻の中にいる蜘蛛を殺すのはセラフィーネにとっては容易なことだったのだろう。彼女は5分もするとすぐに戻ってきた。
「あのサイズの蜘蛛がまだいると思うか?」
「いないことを神々に祈るよ。真剣にね」
「都合のいいときだけ神々頼りか?」
「こういうときぐらい仕事してほしいね、神々には」
ジークはそう言いながら店の看板を改めて見つめる。
看板には『カルテンバッハ標本店』とあり──。
「……なあ、ここって博物館通りってやつか?」
「ん? そうだな。ここは博物館通りだが、それがどうかしたのか?」
「俺、ここの店主に一度会ってるかも……」
「何だと?」
ジークの言葉にセラフィーネが驚きの表情を見せた。
「このルーネンヴァルトに入る前だけどさ。港のところで昆虫の標本を見せてくれた女性がいたんだよ。その人が博物館通りのこの『カルテンバッハ標本店』が自分の店だから来てくれって言っていた記憶が……」
「名前や顔については思い出せないのか?」
「本当に数分立ち話しただけだからな……。なんとも……」
「そうか。しかし、そのあとで我々はファイアドレイクに襲われた。間違いないな?」
「ああ。間違いない」
セラフィーネが確認するのにジークがしっかりと頷く。
「それならその女を探さないとな。まさか我々がすでに悪魔崇拝者と接触していたとは。全く気づかなったぞ」
「そりゃ悪魔崇拝者ですとは相手は名乗らないからしょうがないだろ」
「それでもだ」
神々を敬愛するセラフィーネからすると悪魔崇拝者に自分が気づけなかったというのは、許しがたいことらしい。彼女はひどく憤慨している。
「しかし、次は何が起きることやら……」
憲兵隊の捜査が行われる店舗を見て、ジークはそう呟く。
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