言葉を失った猫と見習いサラリーマン
高橋涼介、30歳。都内のIT企業で働く、ごく普通のサラリーマンだ。彼の唯一にして最大の特技は、動物の言葉がわかること。
この能力は、物心ついた時から備わっていた。犬の「お腹空いた!」という鳴き声、カラスの「あの人、なんか美味しそうなもの持ってるぞ」という密談。幼い頃は、動物の言葉を真に受けて友達に話すたびに、変な目で見られたものだ。大人になってからは、この能力をひっそりと隠して生きてきた。おかげで人間関係は円滑だったが、飲み会での話題に困ることが増えた。
ある日、涼介は仕事帰りの電車で、見慣れない猫に出会った。その猫は、なぜか周囲の猫たちから距離を置かれている。
「あの猫、変な鳴き声出すんだよ。聞いたら気分悪くなっちゃう」
「あいつの言葉、なんかおかしいんだよな。全然わかんない」
涼介はこっそりその猫に耳を傾けてみた。
「あー、あー、聞こえるか? あ、あ、ああああ」
猫の鳴き声は、言葉になっていなかった。まるで、言葉を失ったかのように、意味のない音を繰り返すだけ。涼介は驚いた。こんなことは初めてだ。彼はふと、その猫に興味を抱いた。
数日後、涼介は会社の帰り道、再びその猫を見かけた。相変わらず他の猫から距離を置かれ、ひとりぼっちで座っている。涼介は、その猫にゆっくりと近づいた。
「あの、君、どうしたの?」
涼介の問いかけに、猫はびくりと身をすくめた。そして、何かを伝えようと、意味のない鳴き声を繰り返す。
「あああああ……」
涼介はその鳴き声に耳を澄ませる。すると、不思議なことに、その鳴き声の中に、わずかに感情の揺らぎを感じ取ることができた。
「寂しい……怖い……」
涼介は、猫が伝えたいことをなんとか読み取ろうとした。
「もしかして、言葉、話せないの?」
涼介がそう聞くと、猫は大きく頷いた。
「そうか……君、言葉を失ってしまったんだね」
涼介は、自分の能力がこんな形で役立つとは思ってもみなかった。
それからというもの、涼介は毎晩、仕事帰りにその猫に会いに行くようになった。猫の名前は「ミケ」。彼はミケに、会社での出来事や、最近あった面白い話を聞かせた。ミケは、意味のない鳴き声で応える。
「今日、部長にこっぴどく怒られちゃってさ。でも、ミケに話すとちょっとスッキリするよ」
「ああああ……」
「ミケも、何か話したいことある?」
「ああ、ああ、あああああああ……」
涼介は、ミケの鳴き声に耳を澄ませる。
「……今日、鳥の親子がさ、楽しそうに飛んでたのを見て、嬉しかった……?」
ミケは大きく頷き、涼介の足に頭をすりつけた。
ある日、涼介はミケと一緒にいるところを、会社の同僚に見られてしまった。
「高橋さん、何やってるんですか? 猫と話してるみたいですよ」
同僚は笑いながら言った。涼介は焦った。
「あ、いや、なんでもないです。ただ、この猫が可愛くて……」
涼介はごまかそうとしたが、その時、ミケが突然、意味のある言葉を発した。
「この人、いい人」
ミケは、今まで出したことのない、はっきりとした声で言った。涼介は驚き、同僚も目を丸くした。
「え? 今の、猫が話したのか?」
「ああ……」
涼介は、言葉を失ったミケが、自分のために言葉を取り戻してくれたことを知った。
それから、ミケは少しずつ言葉を話せるようになっていった。そして、涼介は、ミケを通して、他の動物たちとも心を通わせることができるようになった。
涼介は、自分の能力を隠すことをやめた。
ある朝、涼介はいつものようにミケに話しかける。
「ミケ、今日も頑張るぞ!」
「ああ、涼介も、頑張ってな」
ミケは、まるで人間のように答えた。涼介は、満面の笑みで会社へと向かった。
彼の人生は、言葉を失った猫との出会いによって、大きく変わった。
彼は、動物たちの言葉を、ただ聞くだけではなく、彼らの心に寄り添い、彼らと共に生きることを選んだ。
そして、いつしか涼介は、動物と人との架け橋となる、唯一無二の存在となっていった。
彼は、言葉を失った猫から、本当の自分を見つけることができたのだった。