熊に声を届けよう
何を思ったのか?
佑夏は、急に足を大きく開き、両手を頬に立てて「手メガホン」を作ると、谷あいの反対側に向かって絶叫する!
「熊さーん!!ありがとー!森を作ってくれて、お礼言うよー!!!」
ありがと~ありがと~ありがと~、の美声がこだまとなって、僕達に返り、ドッと、笑いが起きる。
「東山先生、こんなので、熊さん達に聞こえたでしょうか?」
そう言いながら振り向いた佑夏の顔は、真剣そのものである。
この顔がまた、僕達の笑いを誘い、全員の笑い声が谷間に響く。
本当に、この子は「幸福の姫」だ。
東山さんも大変、喜んでいる。
ところが、佑夏に返事をしたのは、東山さんではなく、パーク協会職員の小林さんである。
猛烈な「説明したくて仕方ない光線」を発しつつ、小林さんは言う。
「熊の聴覚は人間よりずっと優れています。また、低音には鈍感ですが、高音には敏感です。
女性の声なら、間違いなく届いたでしょう。」
「ウチも!」
小林さんの話を聞いて、京都の理夢ちゃんが身を踊らせる。
「熊さーん!おおきにー!愛してんでー!!」
美しい霧ヶ峰高原の谷間に響く、熊への感謝を込めた、愛らしい女子高生の声。
それも、たおやかな京都弁。
感動的だ。それ以外、言葉が無い。
だが、理夢ちゃんの母親のルミ子さんは、どういう訳か大激怒!
「理夢ー!お前、何やっとんのや!このアホンダラ!!!」
どうも、ルミ子さんには、パワハラや暴力が当たり前だった、昭和の影響が強く感じられる。
実の娘の理夢ちゃんより、数倍、口が悪い。
だが、これには、理夢ちゃんも、口を尖らせる。
「何や?熊さんにお礼言うたら、あかんのん?」
しかし、ルミ子さんの猛攻は止まらない。
「アホ!感謝の気持ちが足りん言うてるんや。うちが見本、見したる!」
そして、ルミ子さんまで絶叫!
佑夏と理夢ちゃんを二人合わせたよりずっと大きい爆音である。
「熊はーーーん!!!ホンマにおおきにーーー!!!熊は邪魔や言う奴らは全員、ぶっ殺したるーーーーー!!!」
前二者とは迫力が違う。別格だ。
内容の過激さも、いかにも昭和的である。
ルミ子さんは「口は悪いが人はいい」とされる関西人の性格そのままのようだ。
佑夏は、負けました!と言いたげに頭をかき、ケラケラ笑っている。
小林さんが締めくくる。
「人間の生存には、大型野生動物の造った、保水力の強い天然林が不可欠です。」
このセリフ、重い雰囲気の中で聞くことにならなくて、良かったと思う。
僕達は、笑いながら、再びヤマネの森へと歩き出す。
佑夏の行くところ、どこでも笑いの輪ができてしまう。
爽やかな秋の木漏れ日が、僕達を明るく照らし、より幸せな気分にさせてくれる。
ちなみに、パーク協会の職員、小林さんは北海道出身で、札幌の国立大学を大学院まで行っており、博士号まで持っているとは、後から知ることになる。