ヤマネの森へ
全員の自己紹介が終わった後、東山さんが宿のスタッフと、何やら打ち合わせをしている。
東山さんは「分かった」といったように、頷くと、全員に出発前の注意を与える。
「皆さん、飲み水と雨具は必ず用意して下さい。」
添乗員が引き継ぐ。
「雨具をお忘れの方は、宿の方にございます。」
再び、東山さんが。
「予定のコースを変更します。
昨日、熊が出たそうでして。谷底まで降りず、楽なコースになります。」
さらに、東山さんがつけ加える。
「歩く道の外にある笹藪や、茂みには決して入らないようにお願いします。
植物を痛めます。
この中には、そんな方はいないと思いますが。」
ギクッ!すいません、自分のことです。
恐る恐る、佑夏を見てみると、やはり目が合ってしまう。
口元を手で隠し、僕を見つめて、クスクス笑いしてる。
ともかく、僕達は出発することができて、熊鈴は全員が付けている。
東山さんは、少し歩いては立ち止まり、植物や虫の解説をしてくれる。
この人が、幸福論を読んでいる確率は極めて低いんだけど。
アラン流のガイドであり、何だかすごい充実感だ。
道にヒミズ、モグラみたいな小動物の死体があり、なんのことはない、ただの小さな動物の死体なのに、東山さんの解説で、全員で大いに盛り上がる。
集団心理による一体感。
それに、物事は、細部から全体を見るように、という幸福論の話、そのままだ。
やがて、高山植物帯を抜け、楢の原生林に差し掛かる。
下り坂の細い道、一人ずつしか歩けないな。
ちょうど沢沿いの谷間、その上の方を歩くような状態で、はるか下の方から水の音がする。
「今日は、本当は、この下にある沢沿いを歩く予定だったんです。」
東山さんが沢を見下ろす。
「しかし、昨日、熊の目撃情報がありまして。
このまま、尾根伝いに行きます。この先がヤマネの森です。」
東山さんが先頭になり、添乗員が最後尾につく。
唯一の男性客だからということか、他のメンバーに促され、僕は東山さんの次につく。
佑夏は、歳の近い横浜の女性、水野さんと意氣投合し、僕のすぐ後ろを女二人で歩いている。
時折、見晴らしのいい場所に出ると、東山さんは歩みを止めて、森の説明をしてくれるのである。
それにしても、紅葉が実に見事。
東山さんが、熊を敵視しているとは思えなかったが、やはり、寂しそうな表情で語り始める。
「熊は大変臆病で、平和的な動物です。
私は霧ヶ峰や八ヶ岳で、30年、夜の森で野生動物を撮影していますが、一度も熊に悪さされたことはありません。」
そうだよ!
どうして、テレビなどのメディアは、熊のことを人間を襲う、恐ろしい血に飢えた化け物のように言うのだろう?