第3話 気と玲韻
―翌日
「さて、では初めに『気』の濃度のコントロールについて覚えて頂きます。」
「なにそれ?」
最もである。
「昨日も申し上げましたが、我々は死者なのです。よって、肉体がない為、何も意識しない状態では、通常は生者に認識されない濃度でしかないのですよ。つまり、透けているわけです。当然、物質に触れる事もできません。」
そうなんだ、と興味深そうに頷く玲韻に向かって青里は続ける。
「しかし、『気』をコントロールする事で、生者に認識可能なレベルまで
濃度を上げる術を我々は身に付けました。そして玲韻さん。ここで働くものとして、貴女も当然身に付けなくてはいけない技術なのですよ。そしてこの技術があるが故に、我々には知人の前に姿を現してはいけないという規律が存在するのです。」
たまに見えてしまう生者もいますけどね、と青里は付け加える。
「で。わかったけど、どうやればいいの?」
いきなり『気』とか言われても、と玲韻は肩を竦める。
青里は待っていましたとばかりにどこからともなくリンゴを取り出した。
「まずはこれに触れられるよう、指先だけに集中してください。いきなり全身の濃度をあげるのは至難の業ですからね。」
そう言ってにっこりといつもの笑みを作った。
「え?リンゴに触るくらい簡単…」
玲韻はリンゴに手を伸ばすが、その手はリンゴを透過し、すかっと宙を泳ぐ。
「なにこれ!?え、だって私普通にベッドに座ってるじゃん!」
それを聞いた青里は、ああ、と納得した。
「この部屋や建物は、霊界物質という特殊な物質でできているのです。なので霊体のままでも触ったり乗ったりできるわけですが…。このリンゴは私が現世で買ってきたものですから、先程説明した『気』を使わなければ触れられない物質なのです。実際、今私が手に持っていますが、手の部分だけ濃度を上げている状態なのですよ。」
―数日後
「全くうまくいかないぃぃぃいい!!!」
この数日間、『気』の濃度とやらの鍛錬に苦戦している玲韻から魂の叫びが放たれた。
早く使いこなして、アイツを問い詰めて、殺してやりたいのに。そんな焦りばかりが、玲韻をじりじりと焦がしていく。
「青里さ~ん。なんか、コツとかないんですか?集中しろって言われても…
なんかピンと来ない…」
この数日間、玲韻は真面目に、よく鍛錬に励んでいた。それが何の為であれ、
青里にとっては喜ばしい事だった。
「コツ…ですか。そうですね…私が勝手にコツみたいなものと思っているのは、つま先から頭のてっぺんまでを一塊に、集中というより、外側にエネルギーを放出するイメージですかね。」
わからない…という顔をする玲韻だったが、早速リンゴに向き直って試しているようだった。
青里は玲韻の焦りを感じ取っていた。元来、ここへ来る誰もがそんな数日でマスターするようなものではないのに、彼女はそれを為さんとしているのだ。
…恐らくは、たった一度の権利を使った復讐の為に。
青里はあの夜、何が起こったのか一部始終を見ていた。何故なら、あの夜の彼の仕事が玲韻を止める事だったからだ。
声をかけようとした刹那、母親らしき人物が乱入し、
彼は声をかけるタイミングを失った。
そしてそのまま玲韻は母親の言葉を引き金にしたように、自ら死を選択してしまったのだ。
青里はそのことに少し自責の念を抱いていた。
(無理に割って入ってでも止めるべきだったのか…)
母親なら止められるのではないかと静観した。だがそれが過ちだったのだと、
青里は玲韻が母親に対して向き直った、あの時の表情を見て悟った。
しかしそれはもう遅かったのだ。
そしてあの時の表情を見れば、玲韻が誰に復讐しようとしているかは一目瞭然だった。
青里は玲韻と母親の間にどんな確執があるのかまでは知らない。ただ、玲韻にとっては死を選ぶに値する何かであり、復讐するに値する何かなのだ。
(復讐…か)
青里は複雑な表情で玲韻を見やる。鍛錬に熱心なのは良いが、その結末が
復讐の為だけだったなんて悲しすぎる。
未だ苦戦中の玲韻を見て、青里は不意に声をかけた。
「玲韻さん。根の詰めすぎもよくありません。少し、出かける用事があるので、気晴らしに一緒に行きませんか?」
ふぇ?と間の抜けた声を出して、玲韻は振り返る。
「出かけるって、どこに?」
「今日はちょっと、用事がありましてね。現世のとある場所に行くのですが、玲韻さんもよろしければ是非。ここへ来てから、ずっと籠りっぱなしでしょう?」
そう青里に促され、玲韻も行くことにする。
そういえば一度も現世どころか、部屋からも一歩も出ていないからだ。
外はどうなっているのか、少しだけ知的好奇心をくすぐられての事でもあった。
初めて出てみた廊下は、殺風景な灰色の世界だった。
ただただ長い廊下といくつもの扉。ところどころに照明が灯っているが、
間隔が広いため薄暗い。
(想像してたのとちょっと違うけど、死者の世界と言われればそうなのかも)
ほとんど色のない世界に、玲韻はぼんやりとそんな印象を抱いた。
「ところで、現世に行くにはどうすればいいの?」
周りを見渡しても特別な何かがあるわけでもないのだから、当然の疑問と言えた。
「大丈夫ですよ。これを使うだけです。」
そう言って青里は内ポケットからICカードを取り出した。
「これを各部屋に付いているカード読取機に翳せば…」
ピピッと音がしてさっき出てきた玲韻の部屋のドアが少し開く。
だが、そこから漏れる空気は明らかに玲韻の部屋のものとは異なっていた。
「これでいつでもどこでも現世に行けますよ。玲韻さんの分は申請中なので、一人での外出はまだできませんけどね。」
そう言って青里はいつもの笑みを浮かべると、ドアを開けて、玲韻に入るよう促す。
玲韻は恐る恐る足を踏み出すが、一歩中へ踏み入ると、そこは墓地のようだった。