可愛いは武器だから
高校棟の二階は賑わっていた。
赤嶺美紀は姉と姉の彼氏に卒業祝いを渡すと、渡り廊下を抜けて新棟の一階へ下った。図書館の扉を開けると、予想通りの光景が飛び込んでくる。
「――宇津木先輩、高梨先輩」
カウンターの椅子をふたつずつ使い、寝転がって本を読んでいたふたりは体を起こした。美紀を認めて微笑む。それだけで、美紀の心臓は締め付けられたかのように痛んだ。
「みのり。来てくれたの」
「はい。先輩方、ご卒業、おめでとうございます」
今日、先輩が、卒業する。
***
先輩と出会ったのがいつか、詳細は覚えていない。本が好きで図書館に毎日のように訪れて、同じように毎日カウンターにいる人を認識したのは、入学して初めての夏休みが来る前だったと思う。朝も昼も放課後も、短時間でも彼女はそこにいた。司書の方と話すようになったのは夏休み明け。先輩と話すようになったのは、更に一か月ほど経過してからだ。
その日、本を借りようと図書館を訪れた美紀だったが、カウンターに司書さんがいなかった。トイレかと思って5分ほど待っていたのだが、一向に現れない。もしや会議か何かか、と諦めて立ち去ろうとした背に、声が掛けられた。
「――毎日来てる一年生」
「え」
ストレートの髪を結わえず下ろし、スクールバッグを肩にかけて、先輩が立っていた。
「駒込さん、今日の放課後会議って言ってたけど――あぁ、やっぱり札出し忘れてる」
躊躇いなくカウンターの中に入った先輩は、スクールバックを下ろして勝手に棚を開け、不在の札を立てる。パソコンをいじると、動けないでいる美紀に、カウンター越しに手を差し伸べた。
「はい」
「......?」
「借りるんでしょ?」
「ぁ、はい」
カチカチ、と先輩はパソコンを操作する。それをぼんやり見ていた美紀は、自分の学年、クラス、出席番号と名前を言っていないことを思い出し、慌てた。
「あっ、その、中一の、」
「一年一組二番、赤嶺美紀さん」
「ぇ」
「毎日聞いてたから覚えちゃった」
先輩は左手で髪を耳にかけると、本を美紀に渡した。
「私は高一の宇津木佳蓮。よろしくね」
「よ、よろしくお願いします」
そうして先輩は、柔らかく微笑んだ。
美紀がカウンターに出入りするようになったのは、それから間もなくだ。
「この作者さん、面白いよね。あなたも好き?」
「二作目のどんでん返しが特に......」
小説の話をして。
「先輩、エッセイも読まれるんですね。私、この作品とか好きです」
「読んだことないな。読んでみるよ」
本をおすすめして。
「あ、先輩」
「おやみのり、部活帰り?」
「はい。先輩もですか?」
「うん。どっち方面?」
「あっちです」
「お、一緒だ」
帰り道を一緒に辿って。
「みのり、秋のお茶会あるんだが来るかい」
「いいんですか、是非」
お茶会に参加して。
「先輩、冬休みに旅行したのでお土産どうぞ」
「おやまあ。どこに行ったの?」
「家族でタイに」
「まさかの海外」
お土産を交換して。
「テストだるすぎ。もう何もしたくない。世界爆ぜないかな」
「爆ぜたら先輩がテスト明けに食べに行く予定の有名カフェ行けなくなりませんか」
「それは困るわ」
先輩と軽口を叩いて。
「ねーみのり、今度学校帰り一緒に勉強しない? 家だとできなくてさー」
「いいですよ。駅前のカフェどうですか?」
「おけ」
放課後に一緒に勉強して。
「ねぇね、春休みお出かけしよう」
「いいですよ。どこ行きます?」
「実は私ね、ロリータ着てみたいの」
「……えっ」
「可愛い服とか小物とか、一緒に買いに行かない?」
「……はい」
おでかけして。
「先輩、そのイヤリング可愛いですね」
「でしょ。柚希がくれたの」
「流石高梨先輩」
アクセサリーを褒めて。
「あ、みのり。これはい」
「なんですか?」
「みのり、誕生日だったんでしょ? プレゼント」
「えっ。そんな、先輩の祝ってないのに」
「いーからいーから。帰ったら開けてね」
「ありがとうございます」
アクセサリーを贈られて。
「ねーみのり、遊びに行く時つけてきてくれないの?」
「えっ」
「イヤリング。みのりがつけてるところ見たい」
「なんか……勿体なくて」
「つけない方が勿体ないよぅ」
あなたにもらったからなんて、口が裂けても言えなくて。
「先輩どーぞ」
「えなに」
「誕生日プレゼントです」
「やだー。後輩に貰っちゃった。うれし」
「帰ってからですよ」
「はぁい」
贈り物をして。
家族の中で一番仲が良い姉にすら言えなかった、可愛いもの好き。そんな美紀を受け入れて、一緒に遊んでくれた先輩を、目で追うようになったのがいつかなんて、もう、覚えていない。
季節は瞬く間に廻った。このまま時間は流れていくんだと、無意識のうちに思い込んでいた。
気づいたら彼が入り込んでいた。誰にも与えていなかった先輩の一番を、涼しい顔をして奪っていった。
「なんでだろうね。なんか好きになってた」
明らかに恋だった。柔らかな笑みを浮かべる先輩は幸せそうだった。
ただ、大好きな先輩の知らない顔が、知らない男の手で暴かれていくのが、とてもとても嫌だった。
先輩が幸せならそれでいいと、自分の気持ちに見て見ぬふりをして。
「――先輩?」
「.....あ、ごめん、ぼうっとしてた。どした?」
「あの、ここなんですけど」
「うん」
秋に入った頃から、先輩はよくぼうっとするようになった。その原因はすぐに分かった。
アイツだ。
いつ言おうか。おせっかいだろうか。
ーでも、先輩。
「先輩、大丈夫ですか」
私利私欲じゃない。ただ、先輩が日に日に泣きそうな顔になっていくのを、見ていたくなかった。
大丈夫、と告げた先輩は、一緒に帰ろうと支度を始めた頃に、ぽつりとこぼした。
「……大丈夫じゃないかも」
「先輩」
ふ、と先輩は笑った。
「ー大丈夫じゃ、なかった」
先輩が彼氏と別れたのは、それから程なくしてからだ。
目を赤くして、それでも明るく先輩は言った。
「ね、景気づけにパーッと、お菓子でも食べて帰ろう」
「ー分かりました」
先輩が望むままの後輩であり続けたのは、この関係さえも絶たれることが怖かったからだ。
臆病者だったからだ。
***
「静かだねぇ」
「いつも静かじゃないですか」
「今日は殊更ね」
先輩を図書館の二階に誘う。卒業生と見送りの在校生、保護者は高校棟に集っているから、新棟はどこも静かだ。
第二グラウンドとピロティを見渡せる大きな窓は、ブラインドがところどころ上がっていた。グラウンドを駆け回る卒業生を見て、先輩は口元を緩める。
「これも今日で見納めかぁ」
「ーまた、来てくれますよね」
「うん。来るよ。みのりが卒業するまでは、文化祭に来るよ」
先輩はいつもと違って巻かれた髪を耳にかけた。綺麗な赤の髪飾りが、長い黒髪に映える。
美紀は片耳で揺れるイヤリングを押さえた。初めて買ったイヤリング、もう片耳は、どこかで落としてしまった。先輩と一緒に探したけれど、見当たらなくて、半泣きだった。初めての年はネックレスで、次の年にはイヤリングを贈ってくれたのは、それもあったのだろうと思う。
可愛いは武器だから、といつか先輩が大真面目に言っていた。化粧はしないのかと問うと、やかましいと言われたけれど。
今日、薄化粧をした先輩は、いつもより、ちょっと手強い。
「ー佳蓮先輩」
「うん」
「好きです」
「ーうん」
ありがとう、と紡がれる声は、やっぱりいつも通りだった。
静かで、水面みたいで。少しだけ、石を投げて、波紋が出来て。
「ーごめん」
「はい」
言葉が少ないのが、先輩らしいなと思った。
「……また、遊びに行ってくれますか」
柔らかく、先輩は笑う。
「うん。行こう」
とんとん、と先輩が階段を下っていく音がする。美紀はその場に蹲み込んで、本棚に背を預けた。
いつもより可愛い先輩の攻撃が手強くて、防御が間に合わなかった。イヤリングの片耳分、防御力が落ちていたから。
大丈夫。階段を降りたら、笑って先輩の門出を祝福できる。
だから、早く、乾け。