34-8 色褪せない記憶 愛し子達が見上げる空
平静に返ったフェリクスは、アンジェとリリアンの肩を抱くようにして自分のクラスルームへと導いた。きらきらしくも幻想的な雰囲気の装飾がなされた山羊クラスの出し物はプラネタリウムカフェだ。お菓子クラブおよびカフェテリアからそれぞれ協賛を得ており、魔法で作り出した星空を眺めながら軽食を楽しめるらしい。生徒による星座と神話の解説もあり、夢幻の雰囲気も相まってなかなかの人気のようだ。三人が入口に行くと、入場の案内をしていた男子生徒がギョッとして目を見開いた。
「でっ、殿下が、二人とも連れて来た……!」
「やあヨハン、当番をありがとう」
「ああそれは勿論、当番だから……いや、殿下、マジか……二人ともって」
「言っただろう、僕は至って真剣だと」
「仰ってたけどさあ……」
生徒は死人が生き返ったのを見たかのような顔で、フェリクス、アンジェ、リリアンの顔をそれぞれ見比べた。アンジェはよそ行きの顔でにこりと微笑んで見せる。リリアンが緊張で身体を固くしたのが、つないでいる手から伝わってくる。
「それで、席は空いているかな」
「ああ、それは奥の席を空けてるよ。どうぞ」
「ありがとう」
フェリクスは得意げに微笑みながら、後ろからアンジェとリリアンの肩を抱き、押し出すようにしてクラスルームに入った。男子生徒の驚愕の目線がアンジェ達についてくるのを感じる。入室した瞬間もどよめきが起こり、視線があちこちから飛んで来る。アンジェは気合いを入れて微笑んでみせたが、リリアンは完全に緊張してしまい、アンジェの腕を掴んで不安そうに見上げた。
「あの、アンジェ様……どうしてみなさん、こんなに見てくるんですか?」
「大丈夫よ、リリィちゃん。お席につきましょう」
「は、はい」
アンジェに嗜められてリリアンは頷いたが、その疑問はもっともだった。アカデミーでは三人の関係性はもはや周知の事実であり、新学期の初めこそ物珍しさから声をかけられることも多くあった。だがそれも一時のことで、賛否両論こそあれ、それぞれの行動は日常の光景として学園に馴染みつつある。それをこの時期になって、しかもフェリクスのクラスメイトが驚くなど、リリアンには理由が分からないのだ。
「さあ、こちらだよ、アンジェ、リリアンくん」
フェリクスはリリアンの緊張の理由を心得ているのか、優しい声音で二人を奥の席へと導いた。クラスルーム内はお化け屋敷ほどではないが薄暗い。テーブルはほぼ満席で、紺色のクロスをかけたテーブルの上には星の形をした光が瞬いている。奥の席は壁が少しくぼんだ所に馬蹄形のソファがしつらえられており、寛いでお茶を楽しめそうな雰囲気だった。席に着くと、リリアンがちらりと自分とフェリクスを見比べる。
「……失礼いたしますわ」
馬蹄形ソファの中央にアンジェが座ると、腕にくっついたままリリアンがその左隣に座る。フェリクスは実に満足げに頷くと、いそいそとアンジェの右隣に座った。
「殿下、メニューです」
「ありがとう、ルーカス。すぐに注文するよ」
メニューを持ってきた配膳係の男子生徒はフェリクスの微笑みには慣れた様子で会釈を返す。フェリクスがメニューを見て菓子と軽食、お茶の茶葉を選んでいる間、彼はちらりちらりとアンジェとリリアンを──その顔を、体格を、夢の容量をしっかりと見比べてしまう。
「ルーカス」
顔は微笑んだままのフェリクスの声は、地獄の帝王のようだ。
「僕の乙女たちをあまりじろじろ見てくれるな」
「わ、分かってるよ」
「頼むよ。注文は……」
フェリクスの注文をメモに書きつけると、男子生徒はばつが悪そうに頭を掻きながらすごすごと離れていった。
「アンジェ様……何となく分かりました」
リリアンはアンジェの腕にすがっていた手をそろそろと話しながら、神妙な顔で呟く。
「殿下……ヤキモチ焼きなんですね?」
「ええ、そうなの……わたくしも入学して二年になるけれど、クラスメイトの方になかなかご紹介いただけないの」
「仕方ないだろう、アンジェ、リリアンくん……君達はあまりにも魅力的すぎるから……」
「正確には、日頃の教室でのご様子を、クラスメイトの方からわたくし達に話されるのが嫌なのですってよ?」
「アンジェ……!」
「剣術のお稽古だって、ずっと見せて下さいませんでしたわ」
慌てたフェリクスを見て、アンジェはくすくすと笑う。
「剣術は一緒に剣術部で鍛錬してくださるようになりましたし、今日はこうしてリリィちゃんとご一緒にお招きいただいて、わたくしの夢が一つ叶いましたわ」
「アンジェ……僕は、君に情けないところを見せたくないんだ……」
「クラスメイトの皆様にはわたくし達のことをよく話して下さっているのでしょう? かねがねご挨拶させていただきたいと思っておりましたの」
「アンジェ……クラスメイト達は、君達に興味津々なんだ……僕の大切な君達を、彼らの好奇心に晒すことが忍びなくて……」
「興味津々になってくださるのは、フェリクス様が皆様によくお話なさっているからでしょう?」
「それは、そうなのだけれど……」
話せば話すほどフェリクスは動揺して顔が赤くなる。その様子をリリアンが、クラスメイトが、カフェの客がちらちらと見ているのが手に取るように分かる。フェリクスは日頃は余裕綽々に振舞っているが、アンジェに見せたくない一面が垣間見えてしまうと弱い。つい言葉を重ねてしまったアンジェがニコニコと微笑んでいると、隣のリリアンが呆然とした様子でアンジェの腕を引っ張った。
「びっくりしました……殿下でも、ヤキモチ焼いたり恥ずかしかったりすることがあるんですね……」
「勿論だよ、リリアンくん。僕はどこにでもいる普通の男だよ」
「びっくりしました……殿下も人間なんですね……」
「まあ、リリィちゃん」
「人間って」
リリアンの至極真面目な物言いに、フェリクスとアンジェは思わず吹き出した。
「あははは、リリアンくん、僕のことを何だと思っていたんだい」
「いえ、あの、人間だとは思っていたんですけど……もっとあんまり、そういう気持ちにはならないんじゃないかというか……」
「それを言ったらリリィちゃんだって、伝説のセレネス・シャイアンでしょう。どれだけ神秘的なお嬢様かと思っておりましたのよ?」
「そうだね、入学前から噂になっていたし」
「ええっ、普通のパン屋の娘ですよう」
「でしょう?」
「あ、アンジェ様だって、さっきのお化け屋敷、めちゃくちゃだったじゃないですか!」
「あれは僕も驚いたな。少し前まで怖がるだけだったのに、まさかお化けを倒して回るなんてなあ」
「まあ、二人とも酷い言い様ですこと、わたくし本当に恐ろしかったのよ」
「それにしたって、あんなにぼこぼこ殴るとは思わないですよ!」
リリアンは必死に言い返しつつも、先のアンジェを思い出したのかぷっと吹き出した。アンジェとフェリクスもそれにつられて笑い声をあげた頃、配膳係がフェリクスの注文をワゴンに乗せて運んで来た。星のランプのテーブルの上に星型のハムとチーズが乗ったカナッペ、サンドイッチ、パン、ミートローフと星型のクッキー、それからお茶のカップとポットが勢揃いする。
「さあ、いただこうか」
「わあ、いっぱい」
「ありがとう存じます、フェリクス様」
リリアンがパン、フェリクスがミートローフを切り分け、アンジェはお茶を注いでそれぞれに配る。食事がそれぞれに行き渡ったのを各々が確認すると、では、とフェリクスの声と共に三人は手を合わせた。
「いただきます。……二人とも、食べながら天井を見上げてごらん」
「いただきます……まあ」
「いただきます、うわあ……」
入室した時も、話している時も視界に入っていた景色は、改めて見上げると荘厳なまでの輝きに満ち満ちていた。席まで歩きながら見た時よりもずっと奥行きがあり、星々の瞬きも美しい。カフェには他にもいくつも席があるのに、まるでこの席のために光や角度を工夫されたかのよう──そう考えながらアンジェは馬蹄型のソファの感触を確かめる。その心地よい柔らかさに、この席はきっと国王が臨席する時のために用意されたのだろうと察した。
「とっても綺麗です……シルバーヴェイルの空に似ています」
リリアンがうっとりとした声で呟く。薄暗い室内で、その横顔が星のランプと星の光の両方に照らされて白く浮かび上がっているようだ。
「シルバーヴェイルでは星が綺麗に見えますの?」
「はい、何せ田舎なので……森の奥の丘の上から見ると、とっても綺麗なんです」
リリアンは笑いならパンを手に取り、小さくちぎってバターを塗った。
「まあ、夜に森の奥だなんて、危なくありませんこと?」
「はい、えへへ、そういう時はクマと一緒に行くんです」
「まあ、クマ?」
「はい。クマが森で一番強いんですよ」
「そうなのね……」
アンジェもサンドイッチに手を伸ばし、口許を隠しながら一口食べる。しっとりとした生地と卵のフィリングの組み合わせは、カフェテリアでもおなじみのメニューだ。
「そのクマは、人を襲ったりしませんこと?」
「いつもは森の奥にいますし、私が一緒なら大丈夫です」
「そうなの、それなら安心ですわね」
フェリクスはミートローフをナイフで切り分けながら、ニコニコと二人の話に耳を傾けている。
「……懐かしいなあ。リオと一緒に背中に乗せてくれるんですよ」
「まあ、まるで童話のようですこと」
「えへへ、そうですよね」
照れたようなリリアンの笑顔を、アンジェは随分と久しぶりに見たような気がした。彼女の機嫌を損ねたのは昨夜のことだ。ローゼンタールの講演会など遥か昔のことのように感じる。理由が分からず気を揉む間は、時間が過ぎるのがなんと遅かったことか。お菓子クラブのエプロンとストロベリーブロンドのみつあみは、リリアンの素朴な雰囲気によく似合っている。それを魔法で作り出した星の光が照らして、彼女が本当にシルバーヴェイルで星を見上げているかのような錯覚に陥る──
「……アンジェ」
ふとフェリクスが声をかけ、アンジェの手に自分のハンカチを握らせた。不思議に思ったアンジェが首を傾げると、その頬をつるりと涙が転がり落ちていく。
「えっ、アンジェ様、泣いてますか!?」
「……リリィちゃん」
涙がこぼれたと自覚したらもう駄目だった。目頭を熱くして溢れるものをアンジェはフェリクスのハンカチで押さえるが、あとからあとから湧き出してくる。
「わっ、わあ、アンジェ様、アンジェ様、ごめんなさい」
リリアンはギョッとし、それからおろおろとアンジェに取りすがるが、涙はそれでは止まりそうにない。
「私、怒ってたんですけど、その、もういいっていうか、私の問題っていうか、殿下、どうしよう、アンジェ様が」
「大丈夫だよ、リリアンくん。以前もこんなことがあったね」
フェリクスは目頭を指で押さえつつ、だが数秒後には完璧に微笑んで見せる。
「アンジェに限らず、誰かの涙の理由は分からないことも多いけれど……今は分かる。アンジェは君と仲直りできて、とても嬉しいんだよ。僕もどれだけ心配したことか」
「……はい」
アンジェは無言で頷き、リリアンは返答しつつもバツが悪そうに目線を落とす。フェリクスは二人の顔をそれぞれじっと見て小さくため息をつくと、面差しを正した。
「それに……昨夜、講演会で何かあったのだろう?」
緑の瞳が、じっとアンジェを、リリアンを見つめる。
「昨日の今日で、突然こんなに噂が広まるなんて異常でしかない。しかもアンジェ、君の個人的なことに関する話題だ……」
「……フェリクス様」
アンジェは頭の中でざあっと水が流れたような気がした。それは涙を、感動の余韻を一気に押し流し、昨夜の記憶を引き連れてくる。リリアンも同じように強張った顔で、アンジェとフェリクスの顔を見比べている。フェリクスは二人の顔を眺め、その奥に隠したものを透かし見ようとするかのように目を細める。
「しかも朝から君たちは喧嘩しているじゃないか。君達に何かあった、いや、君達が何かしたのではないかと考えるのは自然なことだろう?」
「……フェリクス様……」
「僕はね、アンジェ、リリアンくん」
フェリクスはお茶を一口飲む。カップを音もなく完璧にソーサーに戻してから、王子はにこりと微笑む。
「アンジェは素晴らしい剣士になった。それは僕には全く持って予想外の嬉しい出来事だったよ。けれどアンジェ、君がセレネス・パラディオンとなることに反対であるのは変わりないよ」
「……ええ……」
「どこで何をしていたのか、何もかも詮索するつもりはない。けれど一歩間違えれば君達の身に何かあったのではないかと心配しているんだ。どこかへ出かけるのなら、ちょっと僕を捕まえて、一緒に来てくれと頼んでくれればそれで良かったんだ」
「……フェリクス様……」
アンジェは暫定婚約者の名前を呼ぶことしかできなかった。確かに昨夜あの場にフェリクスがいれば、事はもっと単純だったかもしれない。フェリクスがいれば必ず護衛官が随行する、護衛官は警察兵と同等の逮捕権を持っている。あの場で──マラキオンが正体を現した時点で、かつてアンジェを捕らえたように、ローゼンタールとエイズワースを邪教集会主宰の容疑で逮捕してしまえば良かったのだ。そうすれば彼らが記憶操作の魔法を使うこともなかった。リリアンはあの場でシエナとシャイアの魔法を解いたが、他に誰が出席していたのかもわからない状況で、彼らを一人一人探し出して魔法解除を試みて回るのは非現実的すぎる。むしろ、向こうに「謂れのない妄言で自分たちを陥れようとしている」と糾弾される可能性すらある。
「アンジェ。僕の可愛いアンジェリーク」
思考を巡らせるアンジェに、フェリクスは穏やかに話しかける。
「子供の頃からずっと僕に寄り添ってくれている君にも、秘密の一つや二つあるだろう。僕は叶うなら君の全てを知りたいと思っているが、君の気持ちを尊重するよ。けれどそのせいで君に災難が振りかかったり窮地に陥るようなことになるなら、話は別だ」
「……フェリクス様」
「リリアンくん、素晴らしい僕たちのセレネス・シャイアン。君もだよ」
「ぴゃっ、ぴゃい」
急に話題を振られたリリアンは声が上ずってしまう。
「……フェアウェル王国で最も尊き存在であるセレネス・シャイアン殿は誰よりも強く美しい魔法の担い手であらせられる。しかし御身もまた傷つかぬよう、魔物の手に渡らぬよう、セレネス・パラディオンが守るべき存在であることをお忘れか」
「……あの……はい……ええと……」
フェリクスの口調が変わったのでリリアンは戸惑い、アンジェの服の裾をそっと掴んだ。大丈夫よ、といつものように嗜めたアンジェは、ふと閃いた思いに思わずフェリクスを振り仰ぐ。人の良いことで知られる王子は、アンジェがこちらを向くのを待ち構えていたように微笑んだ。
(フェリクス様は……)
(わたくし達を、お叱りなのだわ……)
今朝はアンジェのフェリ様呼びに浮かれるばかりだったのに。お菓子クラブからプラネタリウムカフェに来るまではずっとアンジェといたのだから、朝に教室に送り届けられてからお菓子クラブに来るまでの間に思考を巡らせたか、あるいは誰かに何か言われたか。そうだ、あの時彼は、彼が慕う異母兄と共に現れたではないか。クラウスは噂以上に事情に通じている様子だった、アンジェに放っておけと言ったのだから。
「……フェリクス様。フェアウェル王国王太子殿下にして、わたくしの……わたくしたちの婚約者様」
リリアンの手を握り締め、アンジェは面差しを正してフェリクスをじっと見る。
「ご心配おかけいたしました。この身に余るお心遣いに、なんの申し開きようもございません」
アンジェはゆっくりと頭を下げる。隣の恋人が驚いて目を見開く気配、それから彼女も慌てて頭を下げる。
「ご心配、おかけしました、殿下。あの……ごめんなさい」
フェリクスは細く長くため息をつくと、二人に手を差し伸べてそれぞれの肩を優しく叩いた。
「顔をお上げ、アンジェ、リリアンくん」
「はい」
「……はい」
二人が顔を上げ上目遣いに自分を見たのを見て、フェリクスは何か衝撃を受けてごくりと喉を鳴らしたが、すぐに気を取り直してにこりと微笑んで見せる。
「分かってくれればそれでいいんだ。秘密があるのは大いに結構だけれど、思いがけず危険に巻き込まれることもあるのだから、あまり僕を仲間外れにしないでくれると嬉しいよ。一緒にいてくれないことには、守れるものも守れないのだからね」
「ええ、本当に……」
「ごめんなさい、殿下……」
「お願いだ、忘れないでくれ、僕の大切な乙女たち……僕達は三人で一つなのだと。僕は君達を守るために、日々鍛錬を積んでいるのだと。それは君達に、あるいは僕にもそれぞれ秘密があっても、変わらないことなのだよ。僕に君達を守る栄誉を与えておくれ」
フェリクスは最後には顔を背け、右手で目の辺りを覆った。隠れていない唇が少しだけ歪む。
「……さあ、話が長くなってしまったね。食事をいただこう」
いつも通り穏やかな笑みを浮かべたフェリクスがその手の下で涙を堪えていたのだと、リリアンも気づけばよいとアンジェは思った。