34-7 色褪せない記憶 バカ
フェリクスと話しながらめぐる午前中は瞬く間に過ぎた。大抵はアンジェがリリアンについて話し、それにフェリクスが相槌を打つ。それは今までと変わりないように思えたが、フェリクスは相槌だけではなくアンジェと一緒になって真剣にリリアンの魅力を語り、その後はリリアンの三十倍はアンジェを称賛した。話題はリリアンだけでなく共通の知人にも及び、フェリクスはクラウスから誕生日に贈呈された冒険小説について嬉しそうに話した。ルナの話をすると今までのフェリクスは顔をしかめるばかりだったが、今は彼女の剣技について二人して真剣に考察する。イザベラについても話題に上ったが、フェリクスによれば王宮では少し塞ぎがちだが変わりなく過ごしている様子とのことだった。
「顔色があまり優れないんだよ。だから時間を取って誰かと話すのは身体に差し障るのかもしれないね」
「ええ……」
素直に従妹を心配するフェリクスに、アンジェは曖昧に頷く。文化祭初日以来、イザベラを気にかけているつもりなのだが、教室を訪れても留守にしていたり、昼食は先約があるからと断られたりしてばかりだ。礼節を貴ぶイザベラであれば、常ならばすぐに別日の予定の約束を取り付けてくれるのだが、今回はそれがない。避けられているのではないか、というアンジェの疑念は確信に変わりつつあった。
「今朝も登校はしていたようだから、午後は三人で天秤クラスに行こう。もしかしたらイザベラに会えるかもしれないよ」
「ありがとう存じます、フェリクス様」
「さあ、君はひとまずは目下のリリアンくんだろう。しっかり仲直り出来ると良いね」
「ええ……」
リリアンの怒りの理由は結局分からないままだ。昨夜、ローゼンタールの講演会でアンジェは年の差兄弟について余すところなく語った。それから偽クラウスの正体を暴き、混乱に乗じて会場を脱し帰路に就いた──ボックス席に戻ったと思った瞬間、リリアンが自分をじろりと睨んでぷいと顔を背けた様子が忘れられない。フェリクスに連れられて歩きながら思考を巡らせるうちに、昼食の待ち合わせ場所、フェリクスが所属する山羊クラスに辿り着いた。
「……ほら、アンジェ」
賑わうクラスルームの入口には、きょろきょろしている吸血鬼姿のままのエリオットと、少しばかり険が取れたがまだ仏頂面のリリアンが所在なげに立っている。リリアンを見るとアンジェは身体が軋む。フェリクスがアンジェの背中にそっと手を添わせる。リリアンとエリオットもこちらに気づくと、二人して顔を見合わせ、リリアンが深々とため息をついた。その様子を見たエリオットがニヤリと笑う。
「……バカリコ」
「……何?」
「バァーカ」
「うるさいバカリオ」
「頑張れよ」
「うるさい!」
リリアンはエリオットに殴りかかったが、笑っているエリオットはその手をやすやすと受け止めた。リリアンはもう一度ため息をつくと、アンジェとフェリクスの許まで歩いてくる。ちらりとフェリクスを見上げると、フンと鼻を鳴らし、それからじっとアンジェを見つめた。
「……アンジェ様、ごめんなさい。怒ったりして」
「……わたくしこそ、リリィちゃんの気持ちが分からなくて、その……」
「いいんです」
リリアンはゆっくりと首を振り、そろそろとアンジェに手を差し伸べる。少し冷たい、しっとりとした手がアンジェの手を包み込む。
「アンジェ様は悪くないんです。私の問題なので」
「そうは仰るけれど、リリィちゃん……」
「いいんです。ね、リオ」
リリアンは言いながらエリオットの方を振り向いた。アンジェからはちょうど横顔が見える。その視線は、その眼差しは、いつかアンジェが初めてエリオットと邂逅した時、彼をじっと見つめていた視線によく似ているような気がする。切なく、真剣に、何かを押し隠しつつ前を見据えている眼差し。あの時は飄々としていたエリオットは、リリアンをしっかり見て小さく笑い、肩をすくめて見せた。
「ま、無茶はすんなよ」
「……うん」
リリアンはアンジェの手をきゅっと握ると、えへへと小さく笑った。
「では、殿下、セルヴェール様。俺はこれで失礼します」
「アンダーソンさん、本当にありがとう存じます、わたくし必ずお礼を致しますわ」
「僕からもお礼を言わせてくれ、エリオットくん。リリアンくんも君と一緒なら心安らいだことだろう」
「そんな、よしてくださいお二人とも、俺なんて別に」
略礼をしたエリオットが慌てた様子を見て、王子はにこりと微笑み返す。
「君からは是非、もっと魔法サッカーの話を聞いてみたいと思っているんだ。ローゼン・フェストは終わってしまうけれど、日を改めて僕に時間をくれるだろうか?」
「うわっ、殿下、マジすか! もちろんです! 光栄です! あざます!!!」
「リオ、言葉遣い!」
「うるせーバカリコせいぜいイチャコラしてこいよ! では殿下、また!」
「ああ、また」
顔を輝かせたエリオットをリリアンがぱしんと叩き、エリオットはそれを小突き返す。そのままの勢いでもう一度頭を下げ、飛び跳ねるようにして廊下をかけ、階下へと階段を下りて行ってしまった。
「もーリオ! 最後の最後で……殿下、アンジェ様、ごめんなさい……」
「いいんだよ、リリアンくん。くだけた言葉は僕への親しみの表れだろう」
フェリクスはニコニコ笑いながら首を振る。エスコートしていたアンジェの手を自分から離させると、二人の肩をそっと押して向かい合わせにさせた。
「さあ、アンジェ、リリアンくん、僕の最愛の乙女たち。僕の山羊クラスに招待させていただくよ。今日はどちらがどちらをエスコートするのかな」
「ぴぇっ、ぴぇすこーとっ」
リリアンが上ずった声を出してアンジェを見上げる。アンジェはリリアンの手を握り返すと、フェリクスを見上げてにこりと微笑んで見せた。
「エスコートはしません事よ。わたくしたち、こうして手をつないで参りますわ」
「ああ、素晴らしい……素晴らしいよアンジェ、それでこそ僕の愛したアンジェだ!」
フェリクスはのけぞらんばかりに天を仰いで二人への賛辞を呟いていた。自分を見上げてくるリリアンと視線が合うと、アンジェはにこりと微笑んで見せる。リリアンは数秒、アンジェの様子を探るように首を傾げたが、やがてにこりと微笑んだ。
「楽しみですね、アンジェ様」
「ええ……」
違和感というには小さすぎるその様子は、靴の中の小石のようにいつまでもアンジェの頭の隅に引っかかっていた。