34-5 色褪せない記憶 すぐにでも休戦したまえ、さもなくばアンジェにキスしてしまうよ
アンジェはそのままお菓子クラブでローゼン・フェスト開門時間を迎えた。大人気ブースの一つとなったお菓子クラブは、開門とほぼ同時に来訪客が訪れ、そのまま待機列まで形成される。注文を取り、呼び込みをし、ケーキや焼き菓子を配膳していると、余計なことを考えずにいられる。時折リリアンが視界に入り、目が合うこともあったが、笑顔で接客していた恋人は何も見てなどいないかのようにフイと視線を逸らすのだった。やがてリリアンは他の部員と店番を交代となる。リリアンはアンジェが待機列の案内をしている近くをわざわざ通り、じろりと紫の瞳で睨み上げ、それからフンと鼻を鳴らしてから校舎へ向かって大股に歩いていく。アンジェは頑なな態度に胸が痛んだが、遠目にそれを見ていたらしいルナが何もないところですっ転び、アンジェはわざわざ天才少女剣士を助け起こす羽目になった。
「どうして貴女が転ぶんですの……」
「いやあ、あんなるーみっくキャラみたいなキレ方、なかなかお目にかかれんぞ」
ルナはあちこち埃を払いなら笑いを噛み殺し切れていない。
「受ける方としては心が痛むばかりなのよ?」
「だからニャンニャンしろって」
「おじさんは黙っててちょうだい」
アンジェがルナの背中をばしりと叩いたあたりで、校舎の方からフェリクスがやって来るのが見えた。
「アンジェ!」
目敏くアンジェを見つけて視線が合うと、ニコニコと上機嫌極まりなく手を振ってくる。王子の隣にはクラウスが歩いており、アンジェとルナがじゃれ合っているのを見るとどこか安堵した表情になった。校舎に向かっていたリリアンは年の差異母兄弟と正面から鉢合わせてしまい、蛇の脱皮でも目撃したかのように目をひん剥いて戦慄き、アンジェの方をばっと振り向く。
「…………」
とても何か言いたそうなのは伝わってきたが、この距離では声はさすがに届かない。とりあえずアンジェはしっかりとリリアンを見て手を振って見せる。リリアンはしかめ面になり、自分の間近に迫った王子とその異母兄を見上げ、ものすごく訝しげな顔で二人を見比べている。さすがにフェリクスもクラウスもリリアンの様子がおかしいのに気が付き、二人して顔を見合わせた。フェリクスが何事か話しかける。リリアンが答える。クラウスも二言、三言話す。三人それぞれが頷き合うが、リリアンは急に飛び上がって真っ赤になり、ちらちらとアンジェの方を見る。フェリクスがあの悪そうな顔をする。リリアンはフェリクスを睨み上げてぐぬぬと唸ったかと思うと、その顔のままぱたぱたとアンジェのところに駆けてきて、いつものようにぽふりと抱き着いた。
「きゃっ、リリィちゃん!?」
「……私、まだ怒ってますけどっ!」
アンジェの煌めき二つにぐりぐりと顔を押し付け、怒鳴るようにリリアンは言う。
「アンジェ様のことが一番大好きなのは変わりないですから!」
「えっ!?」
「絶対、絶対、浮気しちゃダメですからね!?」
「う、浮気!? 何の話ですの!?」
「知りませんっ!」
リリアンは滲んだ涙を手の甲で拭くと、近寄ってきたフェリクスをキッと睨み、もう一度アンジェに抱き着く。手を離したら消えてなくなってしまうとばかりにきつく抱き締められ、アンジェは顔が赤くなり、隣でルナが顔を覆って俯く。
「……これでいいですか」
「大いに結構だ、リリアンくん」
フェリクスがわざとらしく尊大な様子で頷いて見せると、リリアンは王子を睨んだままそろそろとアンジェから離れた。フェリクスはにこりと微笑み、いつものようにアンジェに向かって手を差し出して見せる。
「アンジェ、僕の最愛のアンジェリーク。迎えに来たよ、昼食までは二人の時間を楽しもう」
「え? ええ……」
「リリアンくんは少し兄上と話して、その後エリオットくんと約束があるからね。正真正銘、僕と君との二人きりの時間だよ」
フェリクスは戸惑うアンジェの手を自分で取ってしまい、そのまま腕に添わせてエスコートの形になる。その様子を見ていたリリアンが思い切り目を見開き、エプロンの端をぐしゃぐしゃに握り締めた。
「殿下、お昼までですよ!? 抜け駆けしないでくださいね!?」
「勿論だ。アンジェとリリアンくんの絆に誓おう」
「アンジェ様も、浮気しちゃダメですからね!?」
「あの……わたくし、その……リリィちゃん、良いのかしら……?」
「だから、お昼までですってば! 行きましょアシュフォード先生!」
リリアンは拳を握り締めて怒鳴ると、そのまま校舎の方へと駆け去って行ってしまった。フェリクスは手を振りながらそれを見送ったが、クラウスがため息をつきながら弟の手を取って止めさせる。
「殿下。下級生をからかってはいけません」
「からかっていません、兄上。アンジェをめぐって互いに公正を期すための取り決めです」
何故か得意げなフェリクスを見てクラウスは吹き出し、クスクスと笑いながら首を振る。
「何とでも仰いなさい。未来の国王たるもの、誰にでも分け隔てなく慈愛をもって接すること」
「はぁい、兄上」
フェリクスも少年のような笑顔で笑う。兄と弟の顔は、こうして笑うと驚くほどよく似ている。アンジェは引き込まれるように二人の笑顔に見入ってしまい、隣のルナに脇腹をつつかれる。
「公式の供給が捗るな」
「……やめて。鼻血を堪えるので精一杯なの」
「堪えられるもんなのか鼻血って」
「心頭滅却すれば尊みもまた平静よ」
「何言ってんだお前」
ルナはまたも吹き出してアンジェの肩をばしんと叩く。アンジェは嫌な予感がしてポケットからハンカチを出したあたりで、クラウスがじっと自分の方を見ているのに気が付いた。アンジェと視線が合うと、何事もないかのようににこりと微笑む。
「……無事で何よりです、セルヴェール」
「……無事?」
「八つ当たりの噂など気に病むまでもありませんよ。僕はスウィートと話してきますので、殿下を頼みます」
「あっ、先生」
アンジェが言葉の意味を問い質すよりも早く、クラウスも臣下の礼をして校舎の方へと歩み去ってしまった。フェリクスはまたもニコニコと手を振りながらそれを見送る。リリアンは校舎に隠れてクラウスを待っていたようで、彼が入口に差し掛かったあたりでひょこりと姿を覗かせた。こちら──アンジェとフェリクスの方をじっと見て、それからまたプイと顔を背け、クラウスと共に校舎の奥へと消えていった。
「……さて。リリアンくんがくれた貴重な時間だ。素晴らしい時間を過ごそうじゃないか、アンジェ」
「フェリクス様……」
アンジェは困惑した表情の顔のままフェリクスを見上げたが、フェリクスはにこりと微笑みつつ首を傾げただけだった。そのまま何も言わず、期待を込めた眼差しでじっとアンジェを見つめる。傍らのルナはもう気配を察知して、メガネの奥の瞳を爛々と輝かせながら肩を震わせている。アンジェは彼が自分に応じない理由に数秒かけて思い当たると、頬がひくりと引き攣った。
「…………その…………」
ずっと祥子がスチルに向かって呼びかけていた呼称。当人を目の前にすると、なんと口運びが重くなることか。
「……参りましょう、フェリ様」
「ああ、アンジェ! ありがとう!」
「きゃっ、ちょっ、フェリクス様!?」
フェリクスは感極まってアンジェにがばりと抱き着くと、そのまま軽々と抱き上げてしまった。
「降ろして下さいましフェリクス様! 恥ずかしいですわ!」
「何も気にすることはないアンジェ、これは僕の君への愛の表れなのだからね。さあまずはどこから行こうか。やはりエリオットくんの双子クラスからかな」
「後生ですわ、リリィちゃんと何かお約束をなさったのでしょう!? フェリクス様!」
「ははは、大丈夫だよアンジェ、君は何も心配することはない」
「ルナ! 助けてルナ!」
「ははははははは無理だ赤ちゃん、私は主君には逆らえんよ」
「もう、融通の利かないこと! 降ろして下さいまし、フェリクス様ったら!」
アンジェはじたばたと暴れたが、ルナは芝生を叩きながら笑い転げるばかりで毛の先ほども助ける気はないようだ。フェリクスは暴れるアンジェも悠々と抱え、注がれる視線すら心地よさそうに、実に上機嫌に校舎の方へと歩いて行ったのだった。