34-4 色褪せない記憶 軽く混ぜて艶が出たらゴマ塩をかけろ
ローゼン・フェストも残すところあと二日となった。今日のアンジェは獅子クラスでの店番から一日が始まる。
「……ひっでぇ面だな、赤ちゃん」
「酷くもなりますわ……」
アンジェとルナは二人してドールハウスの小物の並べ直しをしているが、ルナはニヤつくを通り越してずっと笑いを堪えながらぶるぶると震えている。アンジェは珍しく落ち込んでいるのを隠しもせずに、もう何度目かもしれぬため息をつく。
「貴女ももう耳にしているんでしょう、ルナ」
「勿論だ」
ルナは言いながらぶぶっと吹き出す。昨夜の講演会の改竄された記憶にもとづいた流言はもうアカデミー全体に広がっていると言って良かった。それだけアカデミーの生徒やその親兄弟などがあの場にいたということなのだろう。フェリクスは極めて好意的かつ能天気に受け取ったようだが、噂そのものはアンジェを揶揄する──王国の未来を語らう進取の精神に満ちた場で、壇上に呼ばれたというだけで婚約者が如何に自分を愛しているかだけを語らった、どれだけ勉学が優秀でも色恋にかまけてばかりで大局を見極める視点に欠けた公爵令嬢、そんな意味合いと共に何の遠慮もなくアカデミー中を駆け巡った。獅子クラスでもこちらを見てひそひそと話しているクラスメイトがおり、アンジェは気後れしてあまり人とかかわりのないドールハウスの小物直しの作業を選んだのだ。
「わたくしクラ×フェリについて語っていたことしか覚えていなくて……どのように改竄されたのかしら……」
「聞きたいか?」
「……さわりだけ」
「殿下は自分にしか向けない笑顔があるだとか、殿下の殿下は素晴らしいだとか」
「やっぱりそこは外していないのね……」
アンジェはがくりとうなだれながらドールハウスに椅子を並べていく。ルナはアンジェの肩をばしばしと叩きながら笑いを堪えるばかりで全く作業になっていない。
「よく分からんが、あんまり事実から外れた文脈に改竄は難しいんじゃないか?」
「そうなのかしら……」
「それより、まさかお前の『ちっさ……』が聞けるとは思わなかったぞ」
顔を上げたルナを、アンジェはじろりと睨み返す。
「……殿方を挑発する時はその方ご自身をこきおろせ、と貴女が仰ったんじゃない」
「いやまさかあんな場で魔物相手に使うとは思わんよ」
ルナは笑いを堪えて唇を震わせていたが、堪え切れずにドールハウスの前に突っ伏した。
「災難だなアンジェ、私はお前の思い切りは嫌いじゃないぞ」
「まあ珍しい、天下のルナ様に褒めていただいたわ」
「最近はよく褒めてるだろう」
「剣のお稽古ではそうですわね」
アンジェはミニチュアの遊具の仕掛けが外れているのを取りつけながら、深々とため息をついた。
「褒めて下さるのは結構だけれど、あの場でリリィちゃんにしっかり解説していただきたかったわ……」
「なんだ、昨日仲直りニャンニャンしたんじゃないのか」
「そっ」
アンジェは言葉に詰まり、一気に顔が赤くなる。
「そんなことでリリィちゃんの気持ちを誤魔化したくありませんわ! あの子は寮ですし!」
「そんなことか? 一番楽しいことだろ? いいじゃないかあれこれ聞きながらニャンニャンすれば。人間が一番素直になる瞬間だぞ」
「だっ、そっ、そんな器用なこと出来なくてよ!」
「はは、物は試しにやってみろ。なんなら教えてやるぞ」
「結構よ!」
顔を背けたアンジェに、ルナは肩をすくめながらも笑い続けた。小さな暮らしの準備は、トンネルの整備やカゴの確認、入場料の管理などそう多くはない。どこもクラスメイトがてきぱきと準備を終えたところで、ドールハウスも二人の手によって整然と整えられた。手が空いたアンジェはクラスメイトに断りを入れてお菓子クラブの方に移動することにした。クラスメイトはアンジェの噂を知っているようでとても何か言いたそうな顔だったが、アンジェはにこりと微笑むと足早にクラスルームを出る。どんな内容であれ、噂話には付き合わないのが一番だ。ルナもアンジェと同じくお菓子クラブに行くことにしたようで、既に歩き始めていたアンジェの横に並んで歩き出す。
「……ニャンニャン以外で、仲直りする方法があれば、教えて下さらない?」
「ぶはっ」
ようやっと波が収まったばかりのはずのルナが盛大に吹き出す。
「なんだ、深刻だな今回は」
「そうなの……どうして怒っているのかも全く見当がつかなくて……わたくしへの当てつけのように、アンダーソンさんとデートするなんて仰っているのよ」
歩きながらため息をついたアンジェを見て、ルナはニヤニヤ笑いながら自分の顎を撫でる。
「貴賓室で据え膳食わなかったからじゃないのか?」
「ええ!? だってわたくし、あの時は眩暈がして」
「休んでたらよくなったんだろ? 子リスのあの慌てようからして期待してたに一票」
「ええ……そうなんですの……?」
「お前は女なのに女の気持ちに鈍いなあ、殿下のスパダリ溺愛が基準になっちまったか」
「もう、ルナ!」
アンジェが肘でルナを小突こうとしたが、ルナはひらりとそれを避けた。階段に差し掛かり並んで降りながら、ルナはふと目を細めて柔らかに笑う。
「殿下が相手じゃ拗ねる間もないか。メロディアも良く拗ねてたもんだよ」
「まあ、メロディアさんが?」
「ああ、あいつは拗ね方がまた可愛くてな」
「あらあらまあまあ……ご馳走様」
「おっと、私が言ったと姫御前に言うなよ、アンジェ」
「ええ……」
アンジェは頷きながら思考を巡らせる。イザベラは毎日アカデミーに来ているようで、フェリクスによれば王宮でも寝込んだりしている様子はないらしい。アンジェとしては少しでも彼女の話を聞きたいのだが、文化祭初日にクラウスとの礼拝堂での面談にイザベラをこっそり同行させて以降、アンジェが様子を伺いに行ってもやんわりと避けられているような気がしている。
(イザベラ様は……クーデターのことを、気にかけていらしたわ……)
(アシュフォード先生がクーデターに加担してしまうのではないかと、とても心配なさっている……)
(そして……それ以上に、先生のことを……)
王宮に向かう馬車の中で、王女はありがとう、と何度も涙を流した。彼女の中で一番美しい時間だったという思い出を話して聞かせてくれた。けれどクラウスは彼女を見ているようで見ていなかったのか? イザベラはそのことを知っているそぶりだった……。彼女の前世、メロディアもまた乙女ゲーム「セレネ・フェアウェル」のファンで、クラウスが推しキャラだった。その記憶がこの世界での王女の想いを方向づけたのだろうか? 思考するうちに、アンジェは親友がぽつりとつぶやいた言葉を思い出した。
「……そういえば、ローゼンタール先生の前世の方が、メロディアさんをストーカー呼ばわりしたというのは、どういう状況のことでしたの?」
「ああ……朝倉な」
ルナは自分も思考していたのか、あるいは物思いに耽るアンジェを見ていたのか、少し間をおいてから返事をする。
「ユウトは見てくれがいいから、時々ファンが行き過ぎてストーカーになるんだ。ユウト以外の他のモデルも似たようなことがあった。朝倉はそいつらの示談やら訴訟やらを引き受けてたんだが、俺の嫁だって言っても、メロディアがストーカーだと言ってばかりで……」
「まあ……どうして……?」
階段を下りて廊下をしばらく歩けば、渡り廊下が見えてくる。その先のカフェテリアで、更にその横のお菓子クラブのブースはもう間もなく到着だ。
「……アイツの中に理想のユウトがいて、現実の俺がメロディアの影響を受けてコスプレやら、眼鏡をかけたりやらが許せなかった、ってのが本人としての言い分らしい」
「……ユウトさんの眼鏡は、メロディアさんの影響でしたの?」
「ああ。嫁に推しキャラがかけてるから、なんて言われたら、かけたくなるだろう」
ルナはニヤリと笑うと、伊達眼鏡を軽く持ち上げて見せた。
「アイツはそれをやっかんでいちいちうるさかったんだよ。仕事の時は外してるし、そもそもアイツの仕事は弁護士だから俺が何しようと関係ねえっつううのに……お前は完璧なんだ、余計な連中と付き合って自分を劣化させるな、関わるだけの価値がないものは切り捨てるべきだ、が口癖だったよ。あんまりしょっちゅう言うから胸糞悪いのに覚えちまった」
「……その、メロディアさんの推しキャラというのは」
「勿論、メガネ先生さ」
「……それで……貴女は今でも、眼鏡をかけているの……?」
「どうだかね」
アンジェの視線から逃れるように、ルナは視線を廊下の先に投げ、軽く肩をすくめる。
「ま、眼鏡をかけようとかけまいと今も前世も私の勝手だ。テメェの独りよがりな理想を俺に押し付けて、メロディアに難癖つけるとかあり得んだろう」
「それは……」
アンジェはルナの言葉を脳裏で反芻する。ローゼンタールの前世の立場であったとして、ルナから聞いた彼の感情を手繰り寄せるように推測するうちに、一つの結論が導き出される。
「その方、アサクラさん……? ユウトさんのことがお好きだったのではなくて……?」
「……今の話を聞いただけでもそう思えるよな」
ルナは自分のポニーテールに指を絡ませながら頷いた。
「俺に対しては気持ち悪いくらいへりくだってて……メロディアもお前らも腐ってたしな、リアルでも同性愛にゃ寛容なつもりだったが、正々堂々来るわけでもなし、メロディアに難癖付けてばっかりじゃ、さすがに俺の弁護関係は外してもらった。それもメロディアのせいだと脅迫まがいのことまでしやがって……もう救いようのない奴だったよ」
「……そう……そんな方なのね……」
廊下が終わり、渡り廊下へと差し掛かる。親友はいつになく饒舌で、アンジェはその横顔をじっと眺める。いつの間にかルナの顔からお茶らけた笑みが消え、眉間にしわを寄せている。
「アイツの本質は何も変わっちゃいない、執着する相手が俺からメガネ先生に移っただけだ。もしかすると転生前の記憶を思い出す前から執着してたかもしれないしな。ある程度似た素質を持つ奴のところに転生させられるのかもしれんな」
「ローゼンタール先生のご様子、アシュフォード先生ご本人というより、何か理想の偶像を崇拝しているような雰囲気ですものね……」
「そうだなあ……」
アンジェは文化祭二日目にローゼンタールとエイズワースがお菓子クラブに現れた時のことを思い出した。アンジェとクラウスに対する、不可解とも思える理想を押し付けるような言動、態度。リリアンと二人して初めてローゼンタールに邂逅した時にも同じものを感じた……。
「……自分の理想の男が日陰者扱いされるのが許せない、ってとこだろう。もう一人の図体がでかいやつはもっと単純に考えてそうだが」
「……分かりますわ……」
エイズワースは単純に自分の魔法の腕前に酔いしれている、自分より優れた資質を持つクラウスに一目置いている、とアンジェは判断していた。アンジェを威嚇した時の魔法は大仰なものではないのではと思ったが、あの講演会の映像魔法は間違いなくこの世界でも最高水準のものだった。安藤祥子の自宅にあったテレビという大きな板にはとても美しい動画が映し出されたものだが、それと比べても遜色がないと思える出来栄えだった。
「……現状への不満やら何やらもないわけではないだろうが、アイツの中では、メガネ先生を王にする、ってのが何よりも大事なんだろう。クソマラ野郎に魂を売り渡してまで叶えたいもんかね」
「アシュフォード先生のご意向には全くそぐわないように思えますわ……」
「そうだろうな。メガネ先生は何事も穏便に済ませたがっていらっしゃる」
「ええ……クーデターのことなど放っておきなさい、と仰っていたわ……」
「だが、クソマラ野郎のせいで、ほったらかしてもクーデターは実行できちまうだろう。成功させて玉座を献上、感動したメガネ先生が自分に心を開く……なんて、アイツが考えそうなシナリオだよ」
「……ルナがローゼンタール先生とお二人でお話した時も、そんなことを話しましたの?」
「いや、もう朝倉だと分かった時点で胸糞悪くてな。適当に切り上げてきた」
二人は渡り廊下を通りカフェテリアを抜け、お菓子クラブのブースに辿り着いた。今日の当番のクラブメンバーが忙しそうにテーブルを拭いたり、ケーキをショーケースに並べたりしている。三原色チームは在庫管理を担当する赤チーム二年のマギーとクラブ活動サポートの黄チーム一年のエリアナがそれぞれの持ち場で働いており、シエナとシャイアは来ていないようだった。ショーケースの横ではメニューを見ながらリリアンとグレースが何か話している。
「お、来てるじゃないか、お前の最愛が」
「そうね……」
アンジェは思わず足を止めて胸の前で手を握り締めた。グレースが二人に気が付き、リリアンの背を叩いてからこちらに視線を送る。リリアンはちらりと二人を見るが、アンジェが立ちすくんでいるのを見ると、フンと鼻を鳴らしてあからさまに顔をそむけた。
「ああ……リリィちゃん……」
「こりゃ相当おかんむりだな」
「ええ……」
アンジェは胸元で手を握り締める。今日もお揃いにしているみつあみが胸のあたりに垂れて揺れているのが見える。
「どうしましょう……たくさん問題があって……どうしましょう、どうしたら……」
「……お前のそのどうしようってのは、何をどうしたいんだ? クーデターを止めたいのか? それは誰のためだ?」
「……それは」
ルナの呆れたような声に、アンジェはばっと顔を上げる。
「……アシュフォード先生と、フェリクス様が……」
「違うぞ、赤ちゃん・アンジェ。お前が何もかも間違ってるのはそこだ」
「ええ?」
「当ててやろうか、ショコラ、安藤祥子。お前が男に振られ続けた理由」
「えっ、ええっ? 今それ関係ありまして?」
「大いにあるぞ」
ルナの目線の先で、グレースが何か一生懸命リリアンに話しかけている。リリアンは仏頂面のまま首を振り、メニューを見ながら何かをメモしている。
「祥子。お前、デートと仕事が被ったら、間違いなく仕事を取ってただろう」
「……確かにそれはよく言われていましたわ……けれど、仕事には責任と締切がありますのよ、途中で投げ出すわけにいかないでしょう。向こうだって働いているのだから、いちいち説明しなくても分かっていただかないと、仕事が立ち行かなくなってしまいますわ」
「やっぱりな」
ルナはクックッと笑うと、アンジェの肩に手を回し、二の腕のあたりをぽんぽんと叩いた。
「超絶モテたユウト様が教えてやろう。それは全く持ってごもっともだが不正解だ」
「そ、そんなこと」
「そんで、仕事にかまけて振られたお前を慰めて、そのままでいいと甘やかしたのが凛子だよ」
「ええっ!?」
「いいか、赤ちゃん・アンジェ」
ルナはアンジェを抱き締めるようにして、その耳元で囁く。
「お前がな、今一番気にしなきゃならんのは子リスの機嫌だ。可愛い恋人が拗ねて当てつけに他の男とデートなんて抜かしてるんだぞ、クーデターよりよっぽど大事だろうが」
「極端が過ぎませんこと!?」
「……そうかもしれんな。この世界の価値観とも合致しないかもしれん。だが殿下なら、間違いなくお前の機嫌を最優先にするぞ。俺でもメロディアを優先する。それを間違えるなと言ってるんだ」
「けれど……クーデターが実行されたら、わたくし達も何事もないというわけにはいきませんわ……」
「逆だよ、アンジェ」
ルナはニヤリと笑う。グレースが顔を真っ赤にしてこちらの方を見ている。
「クーデターが起きたら、仲直りニャンニャンどころじゃなくなるぞ」
リリアンはグレースに袖を引っ張られてこちらを振り向くと、目を見開き眉を吊り上げ、肩をいからせて菓子作り体験スペースの方へと歩いて行ってしまった。
「拗れたまま今生の別れなんかになったらどうするんだ。お前ら二人とも王国の要人なんだ、目の前で殺されでもしたら死んでも後悔しきれんぞ」
「……そう……そうね……可能性としては……そうなのだわ……」
「お人好しで何かに首を突っ込みたがるんなら、そういう順番を間違えるなよ」
「ええ……ルナ、ありがとう……」
グレースがこちらとあちらを見比べて慌てふためきつつリリアンを追いかける。
「わたくし、リリィちゃんとお話いたしますわ、怒っている理由は分からないけれど、気持ちを伝えて」
「……それな。理由が分からないなら、いいからニャンニャンしておけ」
「ええ……!? そういうものなんですの……!?」
「ま、やるだけやってみろってんだ」
「でも……その……」
アンジェは遠くなったリリアンの背中を見て、口を開くのを躊躇う。考えただけで頬が熱くなり、身体の奥で何かが切なく疼くのを感じる。
「は……はじ、めて、なのよ……もっと……その……」
アンジェはじっとリリアンを見つめるしかできない。ルナに言われて否が応にも意識してしまう、先日の貴賓室でそっと触れ合ったものを。その先に隠している白い肌は、どれほど柔らかく滑らかなのかを。
「適当に、勢いじゃなくて……ちゃんと、素敵な……」
「……マジか」
ルナは間近で染まっていくアンジェの耳朶を、潤んだ青い瞳を縁取り震えている長い睫毛を見て、それから盛大に吹き出した。
「好きにしろ、赤ちゃん。後夜祭あたりがエモくていいんじゃないか」
「そ、そうかしら」
「致したら私に言えよ、セキハン炊いてやるからな」
「そっとしておいてちょうだい!!!!!!!」
爆笑し続けるルナにアンジェは怒鳴り、赤くなった顔を覆ったのだった。