34-2 色褪せない記憶 フェリ様の威力
その夜、アンジェははあれこれと考えすぎたせいでよく眠れなかった。リリアンの機嫌を損ねたことは何度もあるが、問題を解決しないまま日をまたいだのは初めてだ。しかも昨日どれだけ言い訳しても、アンジェのどの発言が怒りの火口となったのかが分からないままだった。
(リリィちゃん……)
(クラ×フェリで、何か誤解をしてしまったのね……)
朝食を食べながら上の空、身支度をされながら上の空、馬車の中ではどっぷりと思考に浸かるが、それでも答えは見つからない。ここ最近は、想い以上に心を通わせて、互いに信頼しあう関係性を築くことができていると思っていたのに。あれだけ弁明しても機嫌が直らないということは、もしかすると弁明の中には肝心なものが含まれていないのかもしれない。
(そういえば……貴賓室でも、泣いていらしたわ……)
(誤魔化していたけれど、どこか思い詰めた様子だった……)
(そのことを尋ねたら、リリィちゃんの心に近付けるかしら……?)
昨日は思いつかなかった発想にアンジェは目を見開いた。そうだ、そうかもしれない。表面的なところばかり見ていては気が付けないこともある。今日どこかで時間を作って聞いてみよう。そう思った頃に馬車はアカデミーに到着し、いつものように御者が馬車の扉を開いた。
「おはよう、アンジェ」
扉の向こうからフェリクスの声が聞こえてくる。
「おはようございます、フェリクス様」
アンジェは立ち上がりながら声をかけ、扉の外を見やると、フェリクスが手を差し出しながらこちらを覗き込んでいた。いつものように優しく柔らかく微笑んで──アンジェを見た途端、王子の秀麗な顔が一気に真っ赤に染まった。
「あの……良い朝だね、アンジェ」
「……ええ、文化祭日和ですこと」
アンジェは思わずまじまじとフェリクスの顔を見てしまう。フェリクスはアンジェを溺愛してやまずその想いは一点の曇りもなく、だからこそ彼はいつでも威風堂々とアンジェをエスコートしていた。乙女ゲームの攻略対象そのままの歯の浮くような甘い台詞を吐き、きらめきのエフェクトがかかっているのではないかと思うような眩しい笑顔を浮かべてアンジェの名を呼びこそしたが、こんな風に──まるで照れているかのような表情は、未だかつて見たことがなかった。
「……失礼しますわ」
アンジェは差し出されていた手に自分の手を乗せる。その瞬間、明らかにフェリクスの腕がびくりと跳ねたようになるのが分かる。王子の顔は更に赤く、フェリクスはいつもの数倍は慎重な様子でアンジェの手を握り、アンジェが踏み台を降りるのを導いた。御者がフェリクスにアンジェの鞄を渡す。地に降り立ったアンジェがフェリクスをじっと見上げると、それだけでフェリクスは狼狽え、鮮烈を危惧するほどに顔が赤くなり続ける。
「……リリアンくんを迎えに行こうか、アンジェ」
「ええ……」
自分の腕にアンジェの手を添えさせ、歩き出す動作はいつもと変りなく完璧だ。だがその腕が、横顔が、どうしようもないほどに緊張しているのが否が応にも分かってしまう。まだ冷える春目前の朝、王子の呼気が彼の顔の前で白く曇る。アンジェはしばらくそのさまを眺めていたが、やがて意を決して口を開いた。
「フェリクス様、どうかなさいまして?」
「…………っ……!」
アンジェが声をかけると、フェリクスは空いている方の手で自分の顔を覆い、天を仰いだ。
「フェリクス様?」
「アンジェ……僕の可愛いアンジェリーク。僕は知らなかったんだ……」
「何をですの?」
「…………」
フェリクスは赤い顔のまま、何か言いたそうな顔でアンジェをじっと見る。何か言おうとして口を開き、躊躇って視線をそらし、唇引き結んでもう一度アンジェを見る──そんな目線だけの往復運動が何度が繰り返され、だがアンジェは辛抱強く待つ。
「君が……その……」
顔を隠そうとするフェリクスの手すら、赤く染まってしまっている。
「君がそんなに、……僕を気に入ってくれていたとは……」
「……え?」
フェリクスは咳払いをし、赤い顔を猶も隠そうとした。だがやがて首を振りながらゆっくりと手を下ろし、緑の瞳に何か決然とした光を宿しながらじっとアンジェを見つめる。そのまま、いつもよりずいぶんと少年じみた、照れているのを隠し切れない笑みを浮かべる。
「……君はいつだって素晴らしい女性だと僕は常々思っているよ。だから君も同じように満足してくれていたら良いと思っていた。だから、その……僕のものを気に入ってくれていたようで、僕は嬉しいよ、アンジェ」
「待って、フェリクス様、お待ちになって、何のお話をなさっているの?」
「何って……君は昨夜、ローゼンタールの講演会に出席したんだろう?」
フェリクスはニコニコと笑いながら、自分の頬を軽く掻く。
「壇上で、……僕のことを褒めてくれたと聞いたよ。……君の心の内で呼んでくれていた、素晴らしい呼び名のことも」
「お待ちになって、確かにわたくし講演会で語りましたけれど、アシュフォード先生とフェリクス様についてお話したのですわ!?」
「兄上? 兄上については特に聞いていないよ?」
「いいえ、その場に先生の……」
言いかけたアンジェの脳裏に、昨日の帰りの馬車の光景が閃いた。シエナとシャイアの頭の中から取り出された気持ち悪い物体。お土産の菓子とやらでも強化されていた幻惑の魔法。それが例えば遠隔操作のようなことも可能な魔法だったとして、あの事件のうち彼らにとって都合が悪いこと──クラウスが偽物だという部分の記憶を消すように仕向けていたとしたら。
アンジェは独り舞台に立って、魔物の正体を暴くでもなく、ひたすらにフェリクスへの愛を語っていたことになる。
しかも──フェリ様などと、当人にも呼んだことのない愛称を連呼しまくって。
(……もしかして)
(フェリクス様が仰っているのは……)
アンジェはルナの言葉を脳裏にちらつかせながら偽クラウスを蹴り抜いた時のことを思い出す。あの前後にしていた発言。あの場にいたその場面からクラウスに関するものを取り除いて。辻褄の合うように、あるいはアンジェへの多少の悪意を込めて、言葉を少し入れ替えるなどしているとしたら。
「……アンジェ。またいつでも、王宮に遊びにおいで。僕はいつでも君を待っているよ。それから」
フェリクスが柄にもなく照れている理由の心当たり──アンジェが気に入っていると彼が言うモノ。王宮で過ごしたいくつかの夜の記憶に、アンジェは一気に赤くなって汗が吹き出した。
(フェリクス様が、どなたからお聞きになったか分からないけれど……)
(記憶改竄に悪意があるにもほどがありますわ!)
「アンジェ……僕の愛しいアンジェリーク」
フェリクスはアンジェ以上に赤くなりつつ、甘く優しく呼びかける。
「アンジェ、あの呼び名……恥ずかしがることはない、全く不敬だとも思わないよ。だから是非、直接、僕に呼びかけてくれるだろうか……?」
ちょうどノーブルローズ寮の玄関前に到着し、フェリクスは足を止めた。自分の腕に添わせていたアンジェの手を取り、青い瞳をじっと見つめながらその手の甲に熱烈に口づける。フェリクスのエメラルドのような瞳は潤んでキラキラと輝いていて、その視線に圧すら感じてアンジェはたじろいだが、フェリクスは何一つ気にすることはなかった。
「さあ、アンジェ、僕のことを素敵な呼び名で呼んでおくれ……」
「あ、あの、フェリクス様、あれには事情がありますの、わたくし、その」
「礼節を重んじる君のことだ、きっといろいろと慮って遠慮してくれていたんだろう……なんて奥ゆかしく美しい愛だろう、そんな愛を君が隠し持っていてくれたなんて、僕はそれだけでどうにかなってしまいそうだよ。けれどアンジェ、僕の最愛のアンジェリーク、僕はそれで君を咎めたりなどするものか。さあ、アンジェ、お願いだ」
「フェリクス様、後生ですから!」
フェリクスは今にもアンジェを抱き締めんばかりだ。アンジェは逃れようとするがフェリクスの手はアンジェを掴んで離さない。寮から登校する生徒達は王子とその暫定婚約者が騒いでいるのを好奇の目線でちらちらと見遣る。そして案の定、アンジェの愛しいストロベリーブロンドが玄関から出てきて、二人を見てその動きがぴたりと止まった。
「リリィちゃん、おはようっ」
「おや、おはよう、リリアンくん」
リリアンは石段を下りながら二人をじっと見つめる。アンジェは焦ってリリアンを見て、フェリクスを見上げる。フェリクスも同じようにセレネス・シャイアンを見て、自分が手を掴んでいる婚約者を見て、それから不敵に笑って見せた。
「……君の自由だよ、アンジェ」
「……もう!」
アンジェはため息をつく。あの呼称は二次元と三次元を分けるための境界線、ただそれだけのものだった。けれどそれが存外に彼を喜ばせることになるとは。リリアンはこのことを見越して怒っていたのだろうか? なんにせよこの手を離してもらわないことには、恋人を追いかけて弁明することもできない。フェリクスはこういう時に少しだけ悪知恵を働かせるようになった気がする。
アンジェは自分の手を離さないフェリクスの手を、反対の手で更に握る。優しく、しかし想いを込めたと思われるように、ぎゅっと力を入れて。そのまま上目遣いに見上げ、少しばかり眉根を寄せて困り顔を作った。
「……フェリ様」
見上げるフェリクスの顔がまた真っ赤になる。
歩き出していたリリアンが、二人を横目に見ながらその横を通り過ぎる。
「アンジェのお願いですわ。お離しくださいまし」
「……君がそう願うなら」
フェリクスは赤い顔のまま微笑み、名残惜し気にゆっくりとその手を開く。
「ありがとう存じますフェリクス様! リリィちゃん待って、リリィちゃん!」