33-11 共に過ごした日々 ボックス席
オペリス劇場はこの国この時代としては一般的な、祥子とユウトの感覚からすればずいぶんと豪勢で古めかしい、いわゆるオペラハウスの作りだ。舞台の手前にオーケストラピットと桟敷席があり、二階から五階ほどまでは個室のようなボックス席が並ぶ。ボックス所有権は出資によって劇場から付与されるため、ボックス席には不動産価値がある。当然セルヴェール家もシュタインハルト家もボックス席を所有しており、更に豪奢な王家の席もしつらえられている。アンジェは自家のボックス席も、ロイヤルボックスも経験があったが、今日案内されたのはローゼンタール家のボックス席だった。
「すごいですね、お部屋みたいです!」
「リリアンさん、ここにご案内いただけるのは特別なことなのよ!」
「ローゼンタール先生、私達もご一緒してよいのでしょうか?」
「勿論ですよ」
誰よりもローゼンタールを怪しみ警戒しているはずのリリアンだが物珍しさには勝てなかったようで、アンジェの袖を引っ張りながらボックスの中をきょろきょろと眺める。その横でシエナとシャイアが手を取り合って大はしゃぎしている。リリアンが身を乗り出して眺める先では、八割がた埋まりつつある桟敷席、空席のオーケストラピット、緞帳の閉まったステージがある。劇場内の空気は薄く霞んでおり、一人一人の小さな雑談が反響してさざ波のようだ。
「素晴らしいわリリアンさん、ローゼンタール先生はとても期待してくださっているということよ!」
「ローゼンタール先生とエイズワース先生は、私たちの憧れなの!」
「鏡もあるし、コート掛けもある……見晴らしも良くて……ステージも大きいし! すごいなあ、ここでどんなお芝居をするんだろう」
「では、今度わたくしと一緒に観劇しましょう。どんな演目がお好き?」
慇懃な笑みを浮かべている弁護士の腹の底が分からないし、とシエナとシャイアの態度が大仰すぎるような気がして、アンジェはリリアンに違う話題を振る。
「演目……? えへへ、あんまり知らないのでお任せします」
リリアンはきょとんとして、それから照れくさそうに笑いながらぽりぽりと自分の頬をかいた。
「私、シルバーヴェイルでしかお芝居って見たことがなくて。村にはこんな立派な劇場なんてなくて、村の人たちがお祭りの時にやる劇か、旅の劇団さんが来て、広場でやるようなやつばっかりで……」
「まあ、そうでしたの」
「えへへ、ごめんなさい、田舎者まるだしですよね」
「そんなことはなくてよ!」
アンジェはつい語気を強くし、傍らで周囲を観察しているルナの方を振り仰ぐ。
「いろいろな演目がありますけれど、感受性が豊かなこの年までそれらを見たことがないだなんて、貴重なことでしてよ! 演劇やオペラは総合芸術と呼ばれますの、是非その素晴らしさを全身で味わっていただきたいわ……! ねえルナ! 初見の方に出会えるなんてなんて素晴らしいのかしら!」
「ん? ああ、そうだな」
ルナはだんだん早口になるアンジェを見てクックッと笑う。
「新規の悲鳴は健康にいいんだ」
「でしょう! 文化祭が終わったら、すぐにでも行きましょう!」
「はい、楽しみです!」
「……公爵令嬢は、大変親切なんですね」
頬を赤らめて喜んだリリアンに水を差すように、ローゼンタールが感情の読めない笑みを浮かべながらアンジェに一歩近づく。
「教養のないものにそれを教授してやるのも、貴族の務めということですか」
「……教養のない?」
アンジェはリリアンを自分の後ろに押しやり、ローゼンタールの方に向き直る。
「恋人を観劇に誘っただけですわ。オペラの演目をどれだけ知っているかで、その人間の知性や品性は測れません事よ」
「しかし多くの物語に触れることはその人の内面を豊かにします。オペラが見られないなら貸本屋で本でも借りればいい。自分を高める努力をしなければ、人間は猿同然です」
「……何ですって?」
「人生は短く、時間は有限です。関わるだけの価値がないものは切り捨てるべきなんですよ」
笑いながら肩をすくめてみせたローゼンタールの言葉に、アンジェは嫌悪と怒りが同時に身体を支配するのを感じた。脳の芯を錆びた刃物でぐさぐさと刺されたようで、何か言い返してやりたいが、何一つ言葉にならない。この男は何を言っている? 何を切り捨てるべきだと言った?
「あのっ、あのっ、アンジェリーク様っ!」
慌てた様子のシエナがアンジェとローゼンタールの間に割って入ってくる。
「違いますの、ローゼンタール先生は、だからこそ日々努力することが大切だと常々仰っているんです!」
「そ、そうなんです! 自分を猿に貶めないために、目標を決めて努力するべきだと!」
シャイアも同様に、アンジェに縋るようにして弁明している。アンジェは歯軋りをする。少女らに庇われたローゼンタール当人は、薄ら笑いを浮かべて二人を冷ややかに見つめている。この男がクーデターの首謀者ではないかと、ここにいる者たちはアンジェが知りたくもない理想やら信念やらに賛同し熱狂しているのではないかとここまで来た。二人は確かにローゼンタールに心酔しているが、彼自身はどうだろう? 自分自身の共鳴者であるはずの二人を、こんなにも他人事のように見ることが出来るものなのだろうか? リリアンは恋人だ。シエナもシャイアもお菓子クラブ以前からのサロンメンバーだ。怪しいものに傾倒していても、彼女たちを不当に侮辱するのは許せない──
「……アンジェ。こいつに構うな。時間の無駄だ」
ルナがシエナとシャイアを押し除け、アンジェとローゼンタールの間に入る。ローゼンタールの背丈はルナより僅かに高い程度か。平凡な茶色の瞳とルナの灰色の瞳が交錯し、火花が散ったかと錯覚するほど剣呑な雰囲気になる。
「相変わらずのフェミぶりだなあ、ユウト」
ローゼンタールは少女剣士をじっと見つめ、鼻を鳴らしながら小馬鹿にしたような笑みを浮かべる。
「シュタインハルトだ」
ルナは微動だにせず、独り言のように吐き捨てる。
「公爵令嬢は聡明な方だ、お前がそうやって庇い立てるだけの価値がある。今世ではそうやって相手をよく選ぶんだな」
「…………」
ルナはもう何も言わず、嫌悪も露わにじっとローゼンタールを睨み返すばかりだった。ローゼンタールも伯爵令嬢に対して無遠慮が過ぎるほどじろじろとルナの頭からつま先まで眺めやると、軽く肩をすくめ、準備があるから、と適当なことを言いながら退室していった。シエナとシャイアは戸惑って互いに顔を見合わせている。リリアンはしかめ面で、グレースは首を傾げている。
「……悪い、アンジェ」
「……毛嫌いなさる理由が分かったような気がしますわ」
「……だろう」
頷くルナの顔が昏く陰っているのを誤魔化すように、開演の触れの声が劇場に響き渡っていた。