33-10 共に過ごした日々 魅せられた証
オペリス劇場は首都市街地の南西、比較的最近になって居住区として拡大開発された地区にある。毎週水曜日が休館日だそうだが、アンジェ達が到着したころには劇場に入館する者が後を絶たず、老若男女、様々な身分の者が集まっているのが見て取れた。
「打倒王家! なんて、あからさまにはやってないと思うがな……」
ルナは馬車から降りる前にアンジェがフェリクスから下賜された短剣を身に着けていることを確認し、自分自身も双頭刀を鞘ごと木刀用の細長い袋に入れて背負い、更に制服のジャケットの内ポケットに短剣や暗器を仕込み、更にポニーテールをわざわざかんざしで結った。アンジェとリリアンは呆然として、グレースは頬をつやつやさせながら少女剣士の支度の様子に見入る。ようやく満足いく支度が整ったらしく、よし、とルナは気合いを入れた。
「こんなもんだな」
「ずいぶん入念に準備なさるのね?」
「まあ、念には念をな。多勢に無勢なら投げて捨てられる武器が役に立つ」
「そういうものなんですの?」
「……アンジェ。子リス。グレース」
ルナは珍しく真剣な顔をすると、一人ずつ名前を呼びながらその顔をじっと見る。
「今日はあくまでも様子見だ。中で何があろうと、この場で解決しようと思うな。感情のままに飛び出したり、暴れたり、そういうことをしてくれるなよ?」
「……心得てますわ」
「気を付けますっ」
「ドキドキしますね……」
「特にアンジェ」
ルナはアンジェの鼻先をびしりと指さす。
「お前は腕はまあまあになってきたが、まだ剣士としちゃひよっこだ。獲物はしょうもない短剣だけだ。ましてや対人なんて試合ですらろくな経験がないだろう。絶対に自分で何とかしようとするなよ。何かあったら、逃げる隠れるトンズラする、を最優先にしろ」
「……ええ、そうね」
アンジェはルナの指先をつまんで下ろさせながら、にこりと微笑み返す。
「至らない駆け出しの剣士ですもの、リリィちゃんとグレースさんを最優先にお守りするよう心がけますわ。このチームなら、ルナの機動力を損なわないのが一番火力が上がるでしょうから。リリィちゃんの身柄さえ安全なら、よほどのことがない限りはルナとリリィちゃんで乗り切れると思いますわ」
「えっ、アンジェ様っ、私、重要……?」
「ええ、とってもとっても重要よ」
「わわ、私はお荷物でしょうか……?」
「そんなことあるものですか、貴女の観察眼はなくてはならないものよ」
「…………」
色めき立ったリリアンとグレースにアンジェが微笑んでやると、ルナはまじまじと三人の顔を見る。やがてつままれたままの手を自分の元に引き戻しながら、クックッといつものように笑った。
「そうだな。頼もしい限りだよ、親友」
「ありがとう、ルナ」
二人は微笑み合い、一同は馬車を降りた。馬車止めから劇場入り口まで連れ立って歩いていると、こちらを見てひそひそと言葉を囁き交わしているのが分かる。もとよりアンジェはフェリクスの婚約者として名も顔も知れているし、リリアンは伝説の聖女セレネス・シャイアンだ。ルナも天才少女剣士として文化祭で大熱狂の模擬試合をしたばかりだ。三人はそれぞれ視線に気づいてもいない風に歩いたが、グレースだけは慣れない様子でルナに必死にしがみついていた。
「……その制服の内ポケットはご自分で改造したんですの?」
ルナが目配せをしてきたので、アンジェはしょうもない話題をルナに振る。
「ああ、便利だろう。武器以外にもいろいろ入るから、手ぶらであちこち行けるぞ」
「おじさんって、ポケットがたくさんついたジャケットがお好きですものね」
「うるさいぞ赤ちゃん」
劇場の入り口では受付のようなものがしつらえてあり、参加者の名前を名簿と照合しているようだった。ルナが面倒くさそうに何事かを告げると、受付をしていた若い男の一人は顔色を変えてその場で待つように言い、どこか奥へと駆けて行った。
「……前から聞こうと思っていたのですけれど、ルナのそのカタナは……あざみの奴ですの?」
周囲を観察しているのが目立たないように、アンジェはくだらない会話を続ける。
「おお、ショコラもあざみ知ってたか」
ルナもさりげなくあちこちを見やりながら、肩のあたりから飛び出している剣の柄を叩いてみせた。
「どれだけ速く動けても、男と同じ技ばかりじゃ一発の威力はたかが知れてるからな。速いからこそ威力があって、かつ予想外の動きになるってんで、記憶を頼りにロールモデルにしてるんだ」
「まあ……あれは漫画の中の、架空の剣術でしょう? 実用性がありましたの?」
「そこはまあ、おじい様と相談しながらになるな」
入場している者は、比較的若い世代の者が多いように思われた。二十代、三十代。若手、働き盛りと言われる世代だ。見るからに武人と分かる者もいれば、何をしているのか全く分からない怪しい風体の者もいる。妙齢の婦人もいるし、アンジェ達のようにフェアウェルローズの制服を着たものもちらほらと見かける。
「意外ね、おじい様はヒノモトノカタナ一筋でいらっしゃるものとばかり思っていましたわ」
「サーニャコスの鉄扇もおじい様のだからな。なかなかの武器マニアであらせられるぞ」
「そうなんですのね、わたくしもご相談に乗っていただきたいものだわ」
「おお、頼んでおいてやろう」
グレースはルナにくっつくようにして寄り添ってあたりを伺っている。リリアンはアンジェが時々見る、何か思案している顔で辺りを見回していたが、やがて眉間にしわを寄せ、背伸びをしてアンジェの耳元に唇を寄せた。
「アンジェ様……どうしても、この先に行かないと駄目ですか?」
「……どういうこと、リリィちゃん」
聞き返したアンジェには応えず、リリアンはアンジェ、ルナ、グレースを──それぞれ制服の胸元に白いリボンがつけられていることを確かめた。更にアンジェの髪飾りのブローチ、ネックレスを見て、自分の髪飾りに触れ、うーん、と首を傾げる。
「……リリィちゃん?」
「そうは言っても、行かなきゃですもんね……ルネティオット様、グレースさん、ハンカチでも何でも、ポケットに何かお持ちでしたら貸していただけますか」
ルナとグレースは顔を見合わせたが、何も言わずにそれぞれポケットを漁った。ルナは小銭と鉛筆と十徳ナイフ、グレースはハンカチと銀のコンパクトミラーを取り出してリリアンに見せる。リリアンはルナからナイフ、グレースからコンパクトミラーを受け取ると、二つを掌の中に隠すようにして包み込んだ。
「……我が真名、セレナの名において」
微かな声で呟くと、包み込まれた掌の中から一瞬だけ眩い光が漏れる。光は気のせいかと思う程度で、掌を開いてもそこには何の変りもないナイフとコンパクトがあるだけだ。
「……これ、ずっと持っててください。リボンだけだと心配なので」
「……この一瞬で祝福か何かをつけたのか?」
「はい。今日一日くらいしか効かないと思いますけど」
「はあー、さすがは天下のセレネス・シャイアン様だな」
ルナは返されたナイフをまじまじと眺めたが、それは何か変わりがあるようには見えない。それでも取り出した時よりは大切そうにポケットにしまう。グレースも同じように内ポケットにコンパクトをしまったのを見て、リリアンはうんうんと頷いた。
「この先……魔法で、変なことが起きたり、本物じゃない幻を見せられたりすると思います。何があっても、私の言葉を一番に信じて下さいね」
「リリィちゃん、ここにいるだけで、そんなことが分かりますの?」
「……はい。クーデターって、人間と人間が権利とかそういうので戦うんだと思ってたんですけど」
リリアンは言葉を切ると、ぱっと劇場奥の方を振り仰いだ。奥に向かう人の流れを逆流して、何人かがこちらに向かって小走りに近寄ってくるのが見える。それはサラリーマンのビジネススーツのように見えなくもないフロックコートを着たローゼンタールと、お菓子クラブ三原色チームの青、文化祭担当のシエナとシャイアだった。
「アンジェリーク様! いらして下さったんですね!」
「ルネティオット様も! リリアンさんも、グレースさんも! 気持ちが通じたのね、嬉しいわ!」
二人は数年ぶりの再会であるかのように喜色満面で四人に駆け寄った。紺色のおかっぱのシャイアは涙すら流して同学年のリリアンとグレースの手を取ったが、リリアンは曖昧に笑いながらその手を自分のところに引き戻し、グレースも戸惑いながらそれを真似た。
「アンジェリーク様、ようやくわたくしの思いが伝わって何よりですわ! エイズワース先生は本当に素晴らしい方ですの、早くお引き合わせしたいわ!」
「……ええ、ありがとう、シエナさん」
「こちらにいらっしゃるのはローゼンタール先生……もうご存知ですわね、王子殿下の専属弁護人ですもの……ルネティオット様はご存知?」
「……良く知ってるさ」
「まあ、そうなの? さすがローゼンタール先生だわ!」
アンジェは微笑みつつも手は優雅に重ねているだけでシエナとは触れ合わない。ルナが笑いながら肩をすくめるとシエナが興奮した様子でローゼンタールを振り仰ぎ、水色の一本みつあみが大きく揺れた。ローゼンタールが食えない笑みを浮かべながらルナの肩をぽんぽんと叩く。
「来たか、ユウト」
「その名で私を呼ぶな。ルネティオット・シズカ・シュタインハルトだ」
ルナはあからさまに顔をしかめ、自分に触れた男の手を雑に払い落とす。ローゼンタールは鼻で笑いながら肩をすくめ──不意に彼の小ぶりな鼻から、赤い筋がたらたらと流れ出た。
「おや、これは失礼」
「きゃあ、ローゼンタール先生!」
「大変ですわ!」
「大丈夫だ、問題ない」
青チーム少女二人がギョッとするが、ローゼンタールはあまり慌てた風でもなくポケットから黒いハンカチを取り出して鼻を拭う。
「大願成就を目前にして、興奮しやすくなってるみたいでね。参ったものだよ」
拭いても何度か流れ出てくる血の流れを、リリアンが睨むようにじっと見上げている。
【体質的に私の近くに来ると具合が悪くなってしまう人がいるっていうのはもうお話ししましたっけ】
【鼻血が出ちゃう人は、魔物を引き寄せやすいんです】
リリアンの横顔を見つめるアンジェの脳裏に、いつかの恋人の言葉が蘇る。
(そんな……)
(王宮でリリィちゃんとご一緒した時は、何ともなかったのに……)
リリアンが視線だけちらりとアンジェの方を見る。何か言いたげにじっと視線を留め、それからまたローゼンタールを見上げる。動揺が表に現れないように気を付けていたはずだが、恋人には隠し通せなかったかもしれない。リリアンの視線が、先ほどの言動が、蘇る記憶がアンジェに一つの確信をもたらす。血の気が引いて、足元から冷たい手がペタペタと這い登ってくるようだ。
クーデターの首謀者である疑いが極めて強い人物の一人、ローゼンタール。
彼もまた、魔物に魅入られている可能性がある。
愛し子と呼ばれたアンジェと同じように。
王妃への想いに蝕まれているクラウス・アシュフォードと同じように。
「……大変ですわね、先生。どうぞお大事になさってください」
「はは、ありがとうございます。公爵令嬢にスウィートさんもいらっしゃるとは光栄だね。特別席に案内しますよ」
誤魔化すようなアンジェの見舞の言葉に、ローゼンタールは肩をすくめながら皮肉気な笑みを浮かべた。血は止まり、ハンカチをポケットにしまい、敏腕と謳われる弁護士は一同の前に立って歩き出す。シエナとシャイアがきゃあきゃあ騒ぎながらその後に続き、ちらちらとこちらを見る。ルナが何か言いたそうに一同を見る。不安そうなグレース、険しい顔のリリアン。受付にいる男らがアンジェ達をじっと見ているのが分かる。進まないわけにはいかないだろうか。ルナは逃げることを最優先にしろと言った。リリアンが奥に進みたがらない理由が分かったような気がした。
「……行きましょう、アンジェ様」
リリアンは唇を引き結び、アンジェの腕にそっと寄り添って歩き出した。グレースもそれに倣ったのかルナにしがみつくようにして歩き出す。アンジェの少し前を歩くルナは、グレースが捕まっていない右手をさりげなく制服のジャケットの襟のあたりにかけている。あのたくさんの内ポケットの中の武器をとろうとしているのだろうか? アンジェも一同に続いてのろのろと歩きだした。さりげなく自分の太腿のあたりに触れる。フェリクスの短剣が指先に当たる。小ぶりだが魔法が乗せられるという短剣、今のアンジェにはこれしか戦いに使えるものがない。
「…………」
アンジェは生唾を飲み込む。口の中が干からびたようになっていて、喉の奥が刺すように痛かった。