32-1 誰某くんの恋人 注視
お菓子クラブのブースは、カフェテリア横のサロンスペースという特殊な場所もさることながら、その飾りつけも他に類を見ない工夫がなされていた。色とりどりのロールケーキやシュークリーム、クッキーなどを円錐形に積み上げた、結婚式に出てきそうなお菓子の木とでも言えそうなものがブースのあちこちに飾られている。日持ちするというシュガーケーキ、魅惑の香りを放つチョコレートの泉、絵本に出てきそうなお菓子の家など、それぞれガラスケーキに囲まれたお菓子のオブジェ達は、ローゼン・フェスト期間中少しずつ解放され、お菓子クラブでお菓子を購入した来訪者は誰でも自由に手にとって良いことになっていた。お菓子そのものを飾ればブースの見た目が可愛らしくなるし、日によって解放されるお菓子の種類が異なるため、好きなものを目当てに再来してくれるのではないか、というのがシルバーヴェイルの人気パン屋の娘であったリリアンの狙いだった。
「こ、こ、こっ……こくっ、こくおっ、国王、陛下、ななな、なびに、お、お、王妃で、殿下……」
お菓子に関しては間違いなく天賦の才を持つであろうリリアン・セレナ・スウィートは、見る者が固唾をのんでハラハラと見守る中、ガッチガッチに緊張してぷるぷると震えながら必死に口上を述べた。噛みに噛みまくってようやく臨席の礼を述べた時にはすっかり涙目になってしまい、アンジェはその間に何度となく自分が代わってやりたいとうさぎハンカチを握り締めた。ようやっと終わりアンジェが安堵に胸を撫で下ろすと、少しばかり表情を緩めたフェリクスと目線が合う。王子もアンジェと同じ心境だったようで、目線が合うと、二人してにこりと微笑み合った。
「リリアンさん、なんて素敵なエプロンなの、みなさんお揃いで可愛らしいこと!」
形式ばかりの挨拶を終えると、目をキラキラさせた王妃ソフィアが国王ヴィクトルの手を離れてリリアンに歩み寄った。軽やかなコートを纏った王妃は汗だくになったリリアンの手を親しげに握り、おさげにした髪の毛を持ち上げ、挙句の果てにはダンスのようにくるりとその場で回らせる。
「まあ……まあ、まあ! 背中のリボンも可愛らしいこと、この水色という色が春の青空を思わせて爽やかだわ、春が待ち遠しい今の季節にぴったりですこと! 陛下もご覧になって! アンジェちゃんもくるりと回ってみていただける? ルナちゃんも……」
「勿論ですわ」
「御意に、妃殿下」
アンジェとルナは顔を見合わせて微笑むと、くるりとその場で一回りする。特製エプロンは形こそシンプルだが、女子用は布地をたっぷりギャザーで寄せ、ドレスのスカートのようにふわりと広がる。肩ひもも程よい太さで、ささやかな実りには彩りを添え、アンジェのような究極美はそれをより一層際立たせる。男子用は同じ布地だがシンプルなカフェエプロンスタイルなので、少ない男子部員やフェリクスも満更でもなさそうな顔で試着していた。……衣装選定の際、アンジェ、ルナ、イザベラの転生者は、現代日本で全国的に大人気だった某菓子パン店のアルバイトの制服を参考にした。メロディアにはその菓子パン店でのアルバイト経験がありユウトの嗜好にも合っていたようだが、祥子は気後れして面接に応募すらできなかったので、アンジェはエプロンの仕上がりを誰よりも楽しみにしていた。
「いかがでしょうか、妃殿下」
「とても素敵でしてよ、アンジェちゃん」
つい張り切って回ってしまったアンジェを見てリリアンがニコニコし、ルナがニヤついている。ソフィアは三人をかわるがわるくるりくるりと回しては歓声を上げ、フェリクスとイザベラもお揃いのものを身に着けたのを見て羨ましがり、イザベラの進言で用意していた王妃用のエプロンを身に着けると、至極満足げにニコニコ微笑みながらくるりくるりとその場を回った。
「陛下、ご覧になって! わたくしもお揃いですのよ、イザベラが用意してくださっていたのですって」
「ああ、可愛らしい装いであるな、ソフィア」
王妃の無邪気なふるまいに国王はデレデレ目尻を下げながら頷いている。フェリクスもアンジェとリリアンを見比べて至福極まりないと言わんばかりにニコニコしていたが、リリアンを促し、ショーケースやディスプレイのお菓子の説明を始めさせた。お菓子クラブのメンバーは皆一列に並びながらそわそわとその様子を伺っている。部員全員の胸には、開会式の後に配布された白いリボンがしっかりと取り付けられていた。アンジェから見て不穏な様子のシエナとシャイアだったが、彼女たちも何事もないかのようにリボンをつけていた。二人がエイズワースの講演会で何を聞いてきたのかは知らないが、どんな形であれフェリクスからの厚意を無下にするようなことをすれば、退部も視野に入れて対策をしなければいけないかと考えていたので、アンジェは正直ほっとした。
「まあ、ご覧になって、可愛らしいお菓子の飾りがたくさん!」
ソフィアのはしゃぐ声が聞こえる。イザベラの両親もフェリクス達に追随し、当のイザベラは両親のすぐ後ろをゆっくりと歩く。アンジェが悟られないようにと祈りながら横目で見守っていると、イザベラは会場内を見回すようなそぶりをしながら、東屋のあたりに立ち控えるクラウスのところで、ほんの一瞬、視線を止めた。二人の目線は重ならない。王女の想い人であるはずのクラウスは、俯いて、その視線に気づかない──あるいは、気づかないそぶりをしている。
(……イザベラ様……)
悲しみが滲み出ないように押し隠さなければならないのは、どれほど辛いだろう。
イザベラはすぐに視線をクラウスから移し、アンジェとばちりと目線が合ってしまった。イザベラは緑の瞳を細め、僅かばかりに眉を顰める。アンジェが心配したのを察したのだろう、きっと扇子の下では苦笑いを浮かべているに違いない。アンジェはにこりと微笑み返すと、イザベラは前を向いて両親の隣に並んだ。リリアンの声がケーキのディスプレイの説明をしているのが聞こえる。アンジェの視界の隅で、クラウスがため息をついたのか、肩が少し揺れるのが見えた。青年は顔を上げて王女の横顔を見るが、イザベラは気が付かない。クラウスの視線は彼女から逸れ、フェリクス、リリアン、国王夫妻へと移っていく。
(フェリクス様を……ご覧になったのかしら……)
嫡子よりも年上の庶子の男子。その出自だけで政治的な意味合いを持つ彼は、父王の横に自分の母が立てないことをどう考えているのだろうか。学年首席をとるほど優秀だった青年は、神官で以外にも就きたかった職業があったのかもしれない。フェリクスに対しては親愛を示していても、彼らの父王にはそうではないのかもしれない。あるいはどんなかたちであれ母を追いやった王妃にも、何か思うものがあるのかもしれない。イザベラと別れ話をしたというのに、彼女をアンジェの前でうっかり愛称で呼んでしまうほど、まだ動揺していて──あるいはその行為に慣れすぎていて。アンジェから見ればクラウスは大人だが、祥子から見れば年下の若者だ。きっとクラウスも、他の大人たちと同じように、自分の外側に出さないだけで、彼なりの想いや苦悩を抱えている。もしかするとそれらの積み重ねが、彼をクーデターへと追いやってしまっているのかもしれない……。
(……後で、話をすると仰ってくださったじゃない)
考えれば考えるほど嫌な考えが頭をよぎり、口の中が渇く。アンジェは人知れず拳を握り締め、制服の上から自分の太腿をそっと撫でた。そこにはフェリクスから借り受けた短剣を忍ばせてある。制服のジャケットの内ポケットでもよかったのだが、お菓子クラブのエプロンをつけるとジャケットの開閉の邪魔になり、いざという時にすぐに短剣を取り出すことが出来ない。考えた結果が、ガーターベルトのようなもので太腿に固定する方法だった。
(大丈夫……)
(わたくしたちは、一つなのだもの)
アンジェの視線の先で、リリアンが王妃に何かを褒められたのか、嬉しそうに笑い声を上げている。フェリクスが目を細めてその様子を眺め、アンジェの方を見て微笑みかけてくる。
(きっと、何もかもうまくいくわ……)
フェリクスに微笑み返しながら、アンジェは自分に言い聞かせるように、何度も胸中で呟いた。