31-9 文化祭《ローゼン・フェスト》開幕のベル②
「両殿下は予定通り、国王夫妻、王妹夫妻を伴って、初めにお菓子クラブに臨席なさいます。部長の貴方が情けない様子ではお二人の顔に泥を塗りますよ。いつものように、堂々としていなさい」
リリアンに向かってにこりと微笑んだクラウスは、いつもの穏やかな教師そのままだ。いつものように、というクラウスの言葉に看過されたのか、リリアンは慌てつつも面差しを正すが、ちらりとルナを見上げるとべっと舌を出して見せた。ルナはブッと吹き出し、アンジェの肩に顔を埋めて笑いを噛み殺す。アンジェはルナを押しやりつつ、ちらりとクラウスの横顔を盗み見る。
(いつも通りのアシュフォード先生だわ……)
(当然ですわね……)
クラウスの顔を見るとあまりにもたくさんの思考が頭をよぎり、それを感づかれるような気がして視線を逸らす。階段落下事件の犯人について。クーデターへの関わり。同学年だったという、不可解な言動のローゼンタール、生徒の間でよく名を聞くエイズワース。そして……髪を振り乱して泣いていた典雅の化身、王女イザベラ。
(イザベラ様……開会式では、いつも通りのご様子に思えたわ……)
ルナはアンジェから離れると、姿勢も面差しも凛々しくなったリリアンに何事か話しかける。リリアンは今度は瞳を輝かせてうんうんと頷いていたが、ルナの何かの言葉で真っ赤になり、ばっとアンジェの方を見た。アンジェは苦笑いしながら、おとなしくなさい、と口の形だけで注意する。慌ててまたリリアンは姿勢を正し、ルナが口許を押さえて肩を震わせている。ルナが必要以上にリリアンをからかっているのは、彼女自身がクラウスを意識しないようにしているからかもしれない、と思いつつ、少しずつ、少しずつ、二人から距離を取った。自分が一人でいると、彼に分かるように。小声で話せば誰にも聞かれないと、思われるように。
「……セルヴェール」
居住まい正しく立つ公爵令嬢に、神官兼教師のクラウスが遠慮がちに声をかける。
「はい、先生、何でしょう」
アンジェは平静そのものに、何度も練習した通り、動揺を押し隠してにこりと微笑んだ。いつも穏やかで冷静なクラウス・アシュフォードは、今日も眼鏡の奥の瞳は柔らかな弧を描いている。
「一つ、聞いても良いでしょうか」
「……奇遇ですわね。わたくしも、アシュフォード先生にお伺いしたいことがありますの」
乙女ゲーム「セレネ・フェアウェル」の悪役令嬢と、攻略対象の異母兄の視線が交錯する。互いにどちらが口を開いたものかと躊躇った頃、お菓子クラブの一同がざわりとざわめき、歓声を上げた。振り向いた先、本校舎の方から、何人もの人物がこちらに向かって歩いてきているのが見える。先頭の護衛官たちに続いたフェリクスが、こちらに向かってニコニコと手を振っているのが見える。
「……いらしてしまいましたわね。また後ほどにお時間をいただけると嬉しいのですが」
「ああ、はい、また後ほど」
アンジェはあくまで穏やかに微笑んでみせたが、クラウスは気のない返事を返しつつ、躊躇いがちに視線を泳がせた。フェリクスのすぐ後ろを威風堂々と歩いている国王ヴィクトル、王妃ソフィア。その隣、王妹アリアドネと王妹配のレオン。そして彼らの娘であり、完膚なき典雅の化身、美しきプラチナブロンドの王女イザベラ。彼女が微笑みながらこちらに近付いてくるのを見て、クラウスは唇を引き結んだ。
「──っ……」
クラウスとイザベラ、同じ緑の瞳が重なったのを、アンジェは確かに見る。神官兼教師はやや俯き、視線を王族一同の間をさ迷わせたことで誤魔化したようだ。その視線はフェリクスのあたりで止まり、無邪気に自分に向かって手を振る異母弟を──その両親を、じっと見つめる。そこに彼の母であるオリヴィア大公夫人はいない。アンジェも無意識にクラウスの目線の先を追って、喜色満面のフェリクスに一礼してから手を振り返す。そのまま視線を流しイザベラの方を見る──王女は、隠し切れなかった微かな衝撃を隠そうと、扇子を広げたところだった。
「……セルヴェール……」
「はい」
いつもの、淡々とした、大人の男の口調。
数メートルは離れたところにいるリリアンは、瞳を輝かせ頬をつやつやさせ、嬉しそうにフェリクスとイザベラに向けて手を振っている。そのすぐ隣に立つルナは、意図してなのかそうでないのか、一度もこちらを見てくることはない。クラウスの囁くような声は、耳をそばだてていたら、この距離でも彼女に聞こえるのだろうか?
「……ベルは……あの後、大丈夫でしたか?」
「……ベル?」
大切そうに紡がれた呼称に覚えがなく、アンジェはつい聞き返してしまい──聞き返してしまった自分と、そしてクラウスの失態を悟った。クラウスは苦々しく顔を歪めたが、それだけでは頬が朱に染まるのを隠し切れない。
「失礼しました。また、後で」
「……大丈夫ではありませんでしたわ」
この場から退こうとしたクラウスに、アンジェは考えるよりも先に言葉が口をついて出てしまった。失態でも、間違っていても構わない。今、ここで言わなくては。きっと二人は、あれ以来初めて顔を合わせるのだ。今、ここで、わたくしが伝えなければ、誰が言うというのだろう? 護衛官がわたくしをあの部屋に入れて下さったのは、このためだったのではないか。
「お部屋は……魔物に襲われたかのような、酷い有様でした。あの美しい方が大変な取り乱しようで、御髪も解けてしまわれて……」
「…………」
「アンジェ! リリアンくん! 兄上!」
はしゃいでいるフェリクスの声がもうはっきりと聞こえるほどに迫ってきている。クラウスは咎めるような目線になったが、口を開きはしない。急ぐのよ、アンジェリーク。もうすぐ彼女が来てしまう。わたくし、何も存じ上げなかった。イザベラ様が貴方をお慕いしていたことを。貴方がわたくしのスカラバディのお姉様を、そんなにも大切そうに呼んでいたことを。
「さる方のお名前を呼びながら、どうしよう、どうしようと……まるで夜の雨の中、知らない場所に放り出された幼子のようでした」
「…………」
クラウスはまじまじとアンジェが──比類なき公爵令嬢が、真剣な、触れてしまった悲しみを悼み祈るような眼差しで自分を見上げているのを見て、ずれてもいない眼鏡を直し、視線をそらした。
「……ありがとうございます、セルヴェール。スウィート達と一緒に並びなさい」
「……はい」
アンジェは力なく頷き、リリアンとルナの隣に向かう。クラウスは俯いて更にその後ろに立つ。
「アンジェ様、ドキドキしますねっ」
「ええ……」
はしゃぐリリアンの頭上で、アンジェはちらりとルナの方を見た。ルナはもう遠慮なくまじまじとアンジェの顔を眺めていたが、目線が合うと、苦笑いをしながら軽く肩をすくめてみせる。
「ルナ……」
「後にしろ赤ちゃん、このクソお人よしが。大事な時だろう」
「ええ……」
いつもと変わらない口調に、アンジェは拳を握り締めるしかできなかった。