30-4 まなざしが含む熱 セルヴェール家の方針
リリアンがサリヴァンの指導を受けた日は、そのままセルヴェール邸で夕食を食べてからノーブルローズ寮に送り届ける。フェリクスとの婚約の行く末が微妙な状況で、その原因の一つであるリリアンを自宅に招くことに、当初は両親、特に母親はあまりいい顔をしなかった。しかし恐縮しきりのリリアンが小動物のようにせかせかしながら話す──フェリクスとの婚約は全くの不本意ですぐにでも破棄したいと主張し、来るたびに手製のお菓子を振舞うのを食べるにつけ、二人ともあっけなくその態度を軟化させた。初めの頃はシルバーヴェイルでの生活を物珍しそうに聞いていたが、今では勉強とお菓子作りの秘訣の話を聞いては、楽しそうにしみじみと頷くようになった。
「リリアンさんは辞退すると仰っているんだから、貴女はそのまま殿下の婚約者のままでいいじゃないの。リリアンさんとは女同士、良いお友達でもいられるでしょう?」
母レオナはリリアンがいないところでよくそう言ってきたが、アンジェはそこに関しては頑として首を縦に振らなかった。
「しかし……アンジェとの婚約破棄が現実になったとして、王女殿下とセルヴェールで改めて縁組となると……アレクかヴィクということになるなあ」
父アルベールはやはり、フェアウェル王家とベルモンドール王家の縁組を成立させたいと考えているようで、自分の顎を撫でながら難しそうに顔をしかめる。兄アレクもさすがに苦い顔だ。アレクの恋人もフェリクスやリリアンと同じように何度かセルヴェール邸で夕食を共にしたことがある。聡明でありつつも割と勝気な印象の侯爵令嬢で、アレクはどうやら尻に敷かれているようだった。今までは婚約も視野に入れて問題なく交際していたのだから、勅令とはいえ、破談を申し入れただけで彼女が烈火のごとく怒りだすのは火を見るよりも明らかだった。かといって、末の弟のヴィクトールはまだ九歳だ。十七歳のイザベラとつり合いが取れるようになるには、まだまだ何年も先のことだ。
「まあ、殿下がご自身でアンジェと結婚、って言ってるんだし、下手に動かないほうがいいと思うぜ」
この話題は大体、兄アレクの面倒くさそうなこの台詞が締めくくりとなるのだった。アンジェは兄に感謝を述べつつ、内心はイザベラのことを考える。貴賓室を訪れたのは今日の昼休みのことなのに、ずいぶんと昔のことのように思えた。涙が止まらないイザベラに付き添う形でアンジェは午後の授業を休み、そのままイザベラが馬車に乗って王宮へ帰るのを見送った。アンジェは終鈴ぎりぎりにクラスルームに戻ったが、体調の悪い王女の付き添いをしていたと言ったので、教師もアンジェを責めることはなかった。
「おい、姫御前が体調不良だって? どうかしたのか」
「ちょっと……熱っぽいそうよ。もうお帰りになられたわ」
「熱……」
ルナは口許を手で覆い、しげしげとアンジェの顔を眺める。うしろめたさが漏れ出てしまわないように、アンジェはわざと首を傾げてみせる。
「ご心配なら、お見舞いに行かれたら?」
(お見舞に行って、イザベラ様の憔悴したご様子を見て、根掘り葉掘り尋ねてしまったら?)
(メロディアさんとユウトさんなら、きっとそうなさった……)
「……熱の出始めに行ったら休めるものも休めないだろう。今日は私も稽古があるしな」
「そう……」
肩をすくめて見せた親友に、アンジェは曖昧に笑うしかできなかった。
(イザベラ様に……フェリクス様への想いと、祥子のことを、聞いていただきたかったのに……)
(しばらくは難しそうね……)
リリアンをノーブルローズ寮へ送った帰りの馬車の中で、アンジェは考え事にふける。先ほどまで嬉しそうにこしあんについて語っていた少女がいないだけで、この馬車はこんなにも広く寂しげなものだったのか。
(ローゼンタール先生についても、意見を伺ってみたかった……)
(アシュフォード先生とご学友だったというのなら、なおさら……)
(……アシュフォード先生とのご交際は、秘匿なさっていた、ということでよいのよね?)
(お付き合いしていたかどうか分からない、と仰っていたのは……イザベラ様の片想いということ?)
(もしそうなら、わざわざ面会して、終わりだと告げたりするかしら……)
考えるにつれ、瞼が重くなってくる。
(イザベラ様は……ルナを……)
(リリィちゃん……わたくしは……)
馬車の心地よい振動に吸い込まれるように、いつの間にかアンジェは眠り込んでしまったのだった。