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30-1 まなざしが含む熱 気の遣い方

 セルヴェール公爵令嬢アンジェリークが王女イザベラと正式に対面したのは、フェアウェルローズ・アカデミーの本館の貴賓室だった。


【こんにちは、セルヴェール嬢。ご入学おめでとう】


 フェリクスに連れられて入った室内で、長椅子にゆったり座っていた王女は、自分と同じ制服を着ているのが信じられなかった。寛いでいる様子なのにその姿勢は彫刻のようにどこから見ても美しく、ジャケットにもスカートにも皺ひとつない。プラチナブロンドの髪はきちんと結いあげており一本の後毛もなく、指先で輝く爪は貴石のよう。王女はつま先が美しく揃ったまま立ち上がると、僅かに目を細めてじっとアンジェのいでたちを検分し、にこりと微笑んで見せた。


【少し見ない間に随分と背が伸びたのね。もうとても素敵な淑女だわ】


 認められた。そう思ったアンジェの頬はサッと赤くなり、謝意の返礼と共に返す笑顔にややはにかみが混ざる。


【ありがとう存じます、王女殿下。アンジェリーク光栄の極みです】

【そうだろう、そうだろう。僕も誇らしいよ】


 アンジェをエスコートしていたフェリクスが自分の手柄のように誇らしそうに胸を張ると、イザベラはきゅっと唇を引き結び、眼光鋭く従兄を睨み上げた。


【そう言って、初日からセルヴェール嬢をあちこち連れ回してばかりなんでしょう、フェリクスくん? わたくしのところまで耳に入ってきましてよ】

【え、ああ、うん、その】

【アカデミーは貴重な学友との交流の場でもあるのよ。そうやってフェリクスくんの自己満足につき合わせて、未来の王妃が将来の人脈を作る貴重な機会を損ねているとお分かりなの? 自分自身だってセルヴェール嬢を見せびらかすことばかり考えて、課外活動をおろそかにしているのではなくて? 挙句の果てには、男子で三年なのにセルヴェール嬢のスカラバディになりたいだとか……フェリクスくんは馬鹿なの阿呆なの? ああ、いい言葉が見つからない、学年首席が聞いて呆れるわ!】

【いや……その……僕は……】


 言葉に詰まるフェリクス、小柄なのに全く臆さずにそれを睨み上げるイザベラ。アンジェが横で呆然と二人を見比べていると、やがてフェリクスがうなだれ、アンジェに向かってごめん、と頭を下げた。


【フェリクス様! そんな、わたくし、お顔を上げて下さいまし】

【いや、謝らせてくれ、アンジェ……イザベラの言う通りだ。僕は君が愛しいあまり、本当に君のためになることがなんなのか、まるきり失念していた】

【フェリクス様、とんでもないことですわ、アンジェリークは何も気にしてなどおりませんの、ご一緒できることが何よりの喜びでしてよ、ああ、どうか!】

【……性根までも美しいセルヴェール嬢なのだもの、フェリクスくんの気持ちも分からなくはないわ。誰が彼女に想いを寄せるか分かったものじゃないものね、自分こそが彼女の婚約者だと主張したかったのでしょう】

【……うん、そうだ、僕は心配で……アンジェがこんなにも可愛いから!】

【ふふふ、やることがいちいち子供っぽいのよね、フェリクスくんは。何事も節度が必要よ、後でお二人で一緒に過ごす時間でもお決めなさいな。……さて、アンジェリーク・ルネ・ドゥ・セルヴェールさん】

【は、はいっ】

【イザベラ・シュテルン・フォン・アシュフォードよ。貴女のスカラバディとして、一年間ご指導申し上げます。どうぞよろしくね。課外活動はご一緒に生徒会に入れると嬉しいわ】

【はい、是非に】


 アンジェは慌てて、だが粗相のないように精一杯気を遣って頭を下げる。イザベラはにこりと微笑むと、アンジェのすぐそばまで近寄り、緊張の震えを隠しきれなかった手をそっと握った。


【わたくし、今日をとても楽しみにしておりましたのよ、王宮でお会いするときは、いつもフェリクスくんとご一緒なのだもの。女どうし、どうか仲良くしでくださいませね。わたくし兄弟姉妹がいないから、可愛い妹が出来たようで嬉しいわ】

【王女殿下……! わたくしも、王女殿下のお姿をお見かけするたびに】

【ああ、駄目よ、そんな堅苦しい呼び方では……フェリクスくんのことを名前で呼ぶのなら、スカラバディのわたくしだって、イザベラと呼んでいただいても良いはずね?】

【ええ、ええ、もちろんですわ、イザベラ様……!】

【いい子ね。わたくしも親しみを込めて、アンジェちゃんと呼ばせていただくわ、よろしいかしら?】

【はい、イザベラ様、光栄です……!】


 ……あの時女神のように気品ある微笑みを浮かべた王女が、床に座り込んで、小さな子供のようにしゃくり上げている。


「……イザベラ様……」


 イザベラは返事をしなかった。アンジェは急激に頭が冴えていくのを感じる。応接テーブルの周りは割れた食器やら巻き散らかされた食べ物やらで酷い有様だ。イザベラ自身も酷い顔だし、衣服も乱れている。今にせよ、後にせよ、この部屋に使用人が入って清掃を行う。イザベラがこの部屋に滞在していたことを誤魔化すことは無理だろう。ならば今ここで、何をするべきなのか。護衛官はイザベラの返答を待たずにアンジェを室内に入れた。自分が入室するのではなく、後からやって来たアンジェが入室することを選んだのだ。何かの役割をアンジェに期待してのことに違いなかった。


「……イザベラ様、失礼いたします」


 アンジェは躊躇いながら膝をつくと、イザベラのブラウスのボタンを留め、ネクタイを締め直した。かなり躊躇ったがブラウスの裾もなんとかスカートの中にたくし入れて皴を取ることに成功する。ジャケットについた食べ物のかすを払い、少なくとも乱れているようには見えないように着せる。髪の毛は一度すべてピンを外してしまい、手櫛でぼさぼさではない程度になじませる。呆然とした表情のイザベラの、瞼と鼻のあたりに手をかざすと、すう、とアンジェは深呼吸をした。


「上手くいくといいのですけれど……えいっ」


 アンジェの指先から正しく魔法が発動し、王女の腫れた瞼からむくみを取り、赤くなった鼻の血流を正常に戻す。イザベラが驚いてアンジェを見る。アンジェはポケットから自分のハンカチを取り出し、涙に濡れた頬や鼻の周りを丁寧に拭った。


「アンジェちゃん……」

「ええと……」


 アンジェはゆっくり立ち上がり、イザベラに手を差し伸べて彼女も立ち上がらせる。そのまま手を引く形でイザベラを応接テーブルの所まで歩いて行かせ、ものすごく躊躇った後、ごほん、と、咳払いをした。


「きゃ、きゃーあ、わ、わたくしをつけ狙う魔物がイザベラ様をー!」


 入口やら通用口やらに聞こえるように出来るだけ大きな声で叫び、アンジェは両手で自分の肩を抱いて身もだえするようなポーズをとる。そのままあたりをよろよろと歩き、既に割れたコップやら食器やらを、派手な音がするように蹴飛ばす。


「や、やめてえー! せっかくイザベラ様がご用意くださったランチをひっくり返すのはやめてー! 食器が割れてしまうわあー!」

「…………」

「なんてひどい魔物なのー! 最近習った魔法で返り討ちにしてやるわー! えーい!」


 我ながら間抜けだなと思う掛け声とともに、虚空に向けて魔法を放つ。ぽんぽんぽん、と派手な爆発音と小さな火花がばらぱらと散って、あたりは少しばかり焦げ臭くなる。


「なんとか返り討ちにできたわー! 魔物はあっという間に消えてしまったわー! きゃあ、イザベラ様、ご無事ですか!? 誰か! 誰か来てえ、イザベラ様がー!」


 待ち構えていたように扉が開いて、護衛官が室内に飛び込んできた。同じくどこか安堵した表情で通用口からも使用人たちがわらわらと湧いて出てくる。


「王女殿下、セルヴェール様、これは一体……」

「魔物よ、魔物が出たのです、わたくしイザベラ様と昼食のお約束をしていましたの! なのに魔物が何もかも台無しにしてしまいましたわ! 魔物はわたくしが何とか追い払うことが出来ましたけれど、学園のさなかに魔物が現れるなんて何て恐ろしいんでしょう! イザベラ様をどこか安全なところに!」


 自分でも信じられないほどつるつると供述が口から滑り出てきた。護衛官も使用人たちも至極真剣にアンジェの言い分に聞き入り、驚愕したりしみじみ頷いたりしつつ、てきぱきと掃除を開始する。


「……安全という面では、この貴賓室に留まっていただくのが良いでしょう。セルヴェール嬢、あちらの汚れていない方の長椅子で、王女殿下に付き添いいただいてもよいでしょうか? 私は魔物の気配がないか、この階を見回ってきます」

「承知いたしましたわ!」


 アンジェは自分が妙な興奮状態だなと思いつつ、イザベラの肩を抱き、言われた通りに隅の方の汚れていないソファーまで王女を誘導した。イザベラは長椅子に沈み込むように座り、アンジェもその隣に遠慮がちに腰掛ける。部屋は瞬く間に綺麗になり、替えの昼食が綺麗になったテーブルの上に並べられ、最後に見回りに出て行った護衛官が戻り、校内には何の異変も見られなかったことを報告してから、黙礼して部屋を退出した。イザベラはその間にこりともせず、人形のように無表情なままだった。


(……アシュフォード先生と……イザベラ様が、ということなのよね……?)

(フェリクス様とアシュフォード先生がご兄弟だから……イザベラ様は、アシュフォード先生とも従兄妹どうしということになるのだわ……)

(そんな当たり前のことなのに、お二人になにか関係性があるなど、思いつきもしなかった……)


 アンジェはイザベラを直視しないように気を付けながら思考を巡らせる。


(思えば……違和感は、ずっとあったのだわ……)


 記憶の中のイザベラの、アンジェが言葉にはできなかった微かな違和感の数々。いつかクラウスと共にお菓子クラブに現れた時に、少しだけほころんでいたプラチナブロンド。剣術部でルナがビキニアーマー化して教師らが叱りに来た時、国王ヴィクトルにすら真正面から反論するイザベラが、何も言わずに不機嫌そうな顔で黙っていた姿。フェリクスの誕生祝賀会で、クラウスとフェリクスの仲睦まじい様子を見て慌てるアンジェを見に来たと言っていたのに、妙に緊張した様子で挨拶をしていた横顔……。


(全て……気にかかってはいましたの……)

(けれど、それがまさか、こんなことを示唆していたなんて……!)


 アンジェは膝の上で自分の拳をきつく握り締める。わざと爪を手のひらに食い込ませて、それでもぎりぎりと握る。混乱する思考を、痛みが少しばかり現実に引き戻してくれる。


(気を張るのよ、アンジェリーク……)

(護衛官の方が、あの状態のイザベラ様をわたくしに見せて下さった意図があるはずだわ)

(何か……お役に立たなくては……)


 アンジェはおそるおそる、自分の左隣に座っている王女の方を向いた。イザベラは無表情、いや少しばかりの不安そうな気配を隠しきれないまま、じっとアンジェの方を見ていた。いつから見られていたのだろう? 何か粗相をしなかっただろうか? 反射的に考えてしまったアンジェは唸りながら首を振る。目の前のイザベラはいつもの典雅の化身ではない。その美学の極致のようなプラチナブロンドのシニョンは、見るも無残にほどけて、イザベラの華奢な背中の上に垂らされているのだ。


「……イザベラ様……」


 アンジェがおそるおそる呼びかけると、イザベラの緑色の瞳が、形の良い眉がぴくりと動く。


「あの……わたくし、無理に聞いたりなどいたしませんわ。けれど、しばらくイザベラ様とご一緒に侍らせていただきます。もしその間にお話しなさりたければ、どうぞご遠慮なく仰ってくださいまし」


 狼狽えたアンジェの口上は、進むにつれてどんどん弱々しくなっていった。そんなアンジェをじっと見つめていたイザベラは、アンジェがとうとう自分から視線を外したのを見て、ふわりと、苦い笑みを浮かべてみせる。


「……もう。気の遣い方がフェリクスくんそっくりね、アンジェちゃん」

 




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