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29-13 疑惑と思惑 貴賓室での面会

 リリアンをアカデミーのノーブルローズ寮に送り届け、セルヴェール邸に帰宅した頃には、アンジェの心境はまた深く沈み始めていた。家族で夕食の時間は、主に母がフェリクスとの面会の様子を探りつつ、暗に王宮に泊まってくればよかったのにと小言を言われる。妹弟はまだ事情が分からず首を傾げ、父は無言だが苦い顔、兄アレクは同情的だが口を挟んでくることはない。アンジェはよほど嫌味を返してやろうかとも思ったが、その方が更に面倒になることを経験上よく知っていたので、ニコニコと笑いながら適当な相槌であしらった。


 自室に戻り、宿題や予復習を済ませる。今朝受け取った交換日記を開いて、リリアンがまたお菓子のことばかり書いていることにクスクス笑い、返事には今日のケーキを褒めちぎり、少しだけにゃんじぇについての文句を書き添えた。眠るまでの間、「セレネ・フェアウェル」の書付に目を通してみようかとも思ったが、実行には移さなかった。クーデターの具体的なことについては何一つ分からないのは何度も確かめている。それに、安藤祥子という人物について千々に乱れている自分の心が求める答えは、どの書物にも書かれている筈もなかった。


(祥子と、わたくしは、ずっと同じなのだと思っていたわ……)


 暗い寝室のベッドの上で枕を抱き締めながら、アンジェは考える。


(祥子の記憶を得る前も……フェリクス様を、お慕いしていた、筈よ……)


 眉目秀麗、文武両道、温厚篤実。フェリクスを称賛する美辞麗句は他にも数多くある。性別や世代を超えて国民から愛される王太子、その彼が愛するただ一人の婚約者。その肩書をアンジェは誇りに思っていたし、彼から与えられるだけの愛を受け止め、同じように彼を愛しているつもりだった。だが確かに高熱で寝込んだ後、安藤祥子の記憶を得た後は、フェリクスの顔がまともに見れなかった。それまで平然と接してきたフェリクスの顔の造形は、奇跡に等しいバランスで成り立っているのではないか? ほどよく背が高く筋肉もある体型も、骨ばった指先も。変声期を終えてもどこか少年のような明るさを残した声は、アンジェの名前を呼ぶときはとびきり甘く響く。そのたびに心臓が跳ね上がり、目が潤み頬が熱くなるのは、来る日を思い、自分の手から失われていくのを恐れる反動なのだと思っていた。


(……でも……リリィちゃんは……)


 今でもはっきりと思い出せる、入学式の瞬間。アンジェはリリアンを一目見るや脳天に衝撃を受けた、リリアンから目も心も離せなくなってしまった。小さくて可愛らしくて可憐で、彼女を脅かすものすべてから遠ざけて守ってやりたいと思った。隣に並んで些細なことで笑い合うような、そんな風になれたらいいなと夢を思い描いた。その夢は少しずつ叶い始めているのかもしれない。今日だってお揃いのエプロンをつけて一緒にケーキを作った、まるで祥子と凛子のように。祥子と凛子は親友だったが、アンジェとリリアンは恋を語らう仲となった。


(わたくしは……祥子で……)

(祥子は……わたくしで……)

(祥子の知識や記憶に、ずいぶん助けられたわ……)


 自分磨き。勉強。化粧。リリアンとの交換日記も祥子の記憶がきっかけだった。アンジェの人生には足りない部分を祥子の記憶が補ってくれるようで嬉しかった。祥子が推したフェリクスと婚約していて、彼がリリアンに靡かずに自分を愛し続けていることが誇らしかった。


(二人は同じだと思っていたけれど、そうではなかった……)

(祥子の記憶がなかったら、わたくしはそこまでフェリクス様を愛していなかったのかもしれない……)

(それに……祥子は……リリィちゃんのことを、好きになるかしら……?)


 アンジェにしがみついて自分も泣いていたリリアン。猫の物真似をしてアンジェに頬を摺り寄せたリリアン。思い出すだけで胸が甘く疼く、身体の芯が熱くなる、もう一度この手で、唇で触れたくなる……。


(……ああ……)

(祥子とわたくしが、違うものだと思った時に……)

(凛子ちゃんに会うのが、怖いのだわ……)


【リリコちゃんは、ショコラちゃんのことが好きだったのよ。アンジェちゃんがリリアンさんをお慕いしているのと同じように】


 イザベラの言葉が思い出されて、アンジェは枕に顔を埋める。凛子の本心など全く分からなかった。自分の最期も覚えていないのに、凛子の死に様が惨いであろうことを聞いて、胸が締め付けられた。凛子があの恐ろしい魔物のところにいるなんて。どんな状況なのだろう、無事なのだろうか? どうにかして凛子のところに行って、無事を確かめて、安全なところまで連れ出したい。積もる話はそのあとにすればいい。


(けれど……)

(凛子ちゃんは、わたくしが祥子だと、分かるかしら……)


 祥子が推している筈のフェリクスではなく、正ヒロインのリリアンと恋仲になってるアンジェをみて、凛子はそれが祥子だと分かってくれるだろうか? 何の話をすれば、自分は証拠なのだと分かってもらえるだろう。ああ、でも、祥子は祥子で、わたくしはわたくしで……想い人すら一致しない二人を、同一人物だということが出来るのだろうか?


(分からない……分からないわ……)

(あの時は……それが怖くて、涙が止まらなかったのね……)


 アンジェは零れそうな涙を枕に押し付けて誤魔化す。


「凛子ちゃん……」


(どうか、無事でいて……)


 噛み殺した嗚咽を誰も聞いていないことだけが、小さな救いだった。

 



*  *  *  *  *



 休み明けのフェアウェルローズ・アカデミーで、アンジェはルナを捕まえて子細な話をするつもりだった。ところがルナは昼休みはグレースと約束していて、放課後はノブツナの稽古があるらしい。ルナは昼飯なら一緒にどうだ、と聞いてきたが、アンジェは暗い顔で首を横に振った。グレースはアンジェとルナの転生話をそこまで真剣に受け止めてはいないようだから、前世についての相談を耳に入れるのは気が引けた。いろいろ考えをめぐらせた末、アンジェはイザベラと面会することにした。そう決心すると、凛子の気持ちを教えてくれたのは彼女なのだから、イザベラに相談するのが最適なように思えた。


 昼休みにイザベラのクラスルームを訪れたが、いるのは級友ばかりでイザベラ本人はいなかった。上級生の何人かはアンジェも顔見知りで、顔色の悪いアンジェを心配しつつ、昼休みになるとすぐにどこかへ行ってしまったと教えてくれた。アンジェは丁寧に礼を述べ、本館の貴賓室を目指した。イザベラはカフェテリアよりは本館の貴賓室を使うことが多い。フェリクスと鉢合わせが嫌だとか、応接セットの座り心地が良いだとか、王女はその都度いろいろ理由を言っていたが、その実は生徒の行き来が少なく、誰との面会なのかが人に知れにくいのが本当の理由だろうとアンジェは思っている。現に貴賓室を目指して本館の階段を上っていくにつれ、喧騒が遠のき、室温もひんやりと冷え込んだように思えた。


 階段を登り切って廊下を見回すと、対面の少し先あたりにある貴賓室の扉が見て取れる。扉の前には、これまた顔見知りのイザベラの護衛官が立っているのが見えた。廊下は護衛官のほかには全く人けがなく、針が落ちる音までも遠くまで響き渡りそうだ。護衛官はアンジェがこの階にさしかかった時から気が付いていたようで、アンジェが頭を下げると、小さく頷いてみせた。アンジェは安堵の吐息を漏らし、貴賓室のほうへ近づく。護衛官がいるのなら、面会したい旨を伝えれば、中のイザベラに取り次いでもらえるだろう。後は待っているか、放課後に出直すべきか、返事が来るのを待てばいい。そんな風に考えながら歩いていると、不意にどこからか、がしゃん、と何かが割れるような音が聞こえた。


「…………?」


 アンジェは周囲を見回すが、あたりには何の変化もない。


 がしゃん、がしゃん。音は続けざまに二つ聞こえる。微動だにしない護衛官が、表情だけ苦しそうにしかめているのが目に入る。やがてキィ、と軋みながら貴賓室の扉が開き、護衛官が一歩横に避ける。


「──お待ちなさい、意気地なし!」


 扉の向こうから、声を荒げたイザベラの声が聞こえてくる。


(……イザベラ様が、お怒りなの……?)


 思わず立ちすくんだアンジェの前に、貴賓室の扉から、頭を下げたままの人物が後ろ歩きに出てきた。それは貴人の部屋から退出するときの従者の礼だ。


 オリーブ色の髪を一つに束ね、銀縁の眼鏡をかけた、クラウス・アシュフォード。


 クラウスは沈痛な面持ちで貴賓室内を眺め、一言、二言喋ったようだったが、それに重なるように何かが割れる音がして、アンジェにはその言葉を聞き取ることが出来なかった。クラウスは深々と礼をすると、何かを引き裂くように扉を閉ざす。傍らの護衛官に黙礼をして、立ち去るべく廊下に向かって歩き出す──そうしてようやく、王家の血筋を表す緑の瞳が、廊下に立ち尽くしているアンジェを捉えた。


「──セルヴェール。何故……」


 クラウスは一瞬息を呑んだが、ゆっくりと首を振り、柔和な笑みを、いつもの教師の顔を浮かべてみせる。


「王女殿下に面会ですか。貴賓室にいらっしゃいますよ」

「あ、はい……」

「では」


 クラウスはアンジェの横をすり抜けて、足早に去って行ってしまう。男物の固い靴の音が階段を下りていく音が聞こえなくなるまで、アンジェはそこから動くことが出来なかった。護衛官がちらちらとアンジェのほうを見ている。アンジェはおそるおそる扉に近づき、護衛官にイザベラと面会したい旨を告げた。大柄な女性である護衛官は、アンジェの顔を見て、どこか安堵したような表情を一瞬だけ見せた後、面会を許可した。


 こんこん、と扉がたたかれる。


「殿下。セルヴェール嬢がお見えになっております。お通ししてもよろしいでしょうか」

「…………」


 中からの返事はなかった。だが何か、人が動いている気配はある。護衛官はアンジェをじっと見つめ、ドアノブを指さして入室を促す。アンジェはイザベラの返事がないことに戸惑ったが、指示されたのだからと、躊躇いながらも扉を押し開ける。


「イザ、ベラ、様……? アンジェリークです」


 きぃぃ。軋みながら開いた扉の向こうには、粉々に割れたグラス、ぶちまけられた食器類、無残に散乱するサンドイッチなどの昼食があった。その中央で、プラチナブロンドの王女が立ち尽くしている。いつもきっちり結い上げているはずの髪はくしゃくしゃに乱れ、制服のジャケットもブラウスもだらしなくボタンを開けて、ぽろぽろと涙を流しながら、その場に立ち尽くしていた。王女はのろのろと入口の方を見て──


「アンジェ……ちゃん……?」


 心細そうに呟いた。


「アンジェちゃん……!」


 フェアウェルローズすべての生徒の憧れ、典雅の化身とまで謳われたイザベラ・シュテルン・フォン・アシュフォードが、ぽろぽろと涙を流しながらアンジェの許に駆け寄り、その胸にすがってわっと泣き出した。


「アンジェちゃん……どうしよう……」

「イザベラ様……!?」

「クラウスが……」


 先ほどすれ違った教師を、イザベラは家名ではなくファーストネームで呼ぶ。 

 悲鳴のような叫びを覆い隠すように、アンジェの後ろで貴賓室の扉が閉められる。


「クラウスが……! もう、終わりにしようって……!」


 アンジェが違和感にその身を強張らせるのも構わずに、イザベラの細い指が、アンジェの制服をわしづかみにして揺さぶった。


「どうしよう、アンジェちゃん……!」


 王女はずるずるとその場にへたり込み、両手で顔を覆ってむせび泣く。アンジェは冷や水をかけられたような心地に、眩暈すら覚えて壁に手をつく。


「……イザベラ様……」

「どうしよう……」


 悲鳴のような泣き声が、貴賓室の壁をびりびりと震わせているような気がした。





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