29-11 疑惑と思惑 あの味がいいねと私が言ったから
リリアンもフェリクスも急に塞ぎ込んでしまったアンジェを心配したが、アンジェは昔を思い出して恥ずかしくなっただけだと誤魔化した。二人とも全く腑に落ちない顔で猶も心配そうだったが、メイドが次のケーキをワゴンに載せて運んで来たので、追求は曖昧になった。
「今回のテーマはベリーなので、ベリーのスコーンと、あとアンジェ様がお好きなお茶っぱのパウンドケーキです。それからさっきのさくほろクッキーも!」
リリアンは自分のお菓子がサーブされるのをニコニコしながら眺めている。メイドもどこか嬉しそうに皿を置き、小皿にそれぞれ取り分けていく。
「先ほどのと言うと、ローゼンタールにも出したのかい?」
「はい、このクッキーをお茶菓子にしました。ローゼンタール先生はいつもお茶とか全然準備なさってなくて、私が行くといつもがちゃがちゃなさってるので。今日は私とアンジェ様でご用意しちゃいました」
「そうか、さすがの心配りだね、アンジェ、リリアンくん。ローゼンタールは優れた弁護士だが、他のところはどうにも無頓着でね」
「あはは、分かる気がします」
リリアンは立ち上がるとメイドから小皿を受け取り、アンジェの席を回り込んでフェリクスの席まで歩み寄った。おやと目を見開いたフェリクスを見て悪戯っぽく笑い、小皿を王子に手渡す。
「殿下、どうぞお召し上がりください」
「ありがとう、リリアンくん」
皿はごく普通に受け取られる。微笑むフェリクスはリリアンに触れることなく、リリアンの手が皿から離れた。
(ああ……)
(そうだわ、これは)
(バレンタインのスチル……)
アンジェは膝の上で両の拳をきつく握りしめる。バレンタインイベントは乙女ゲーム「セレネ・フェアウェル」の終盤に、箸休め的に発生するイベントだ。主人公は疲れた様子の攻略対象を労い、手作りお菓子を差し入れる。お菓子はミニゲームの成績によって出来栄えが違い、それによって攻略対象の距離感とリアクションが異なる。お菓子の出来栄えが最高であれば、二人は熱い抱擁を交わし、蕩けるようなキスをするのだ。
「ベリーのスコーンの特徴は何だい?」
「はい、これは冷凍ベリーを使っているので、みずみずしさを残すために……」
アンジェの目の前の二人は──暫定婚約者と恋人の距離感は、スチルで言えばお菓子の出来栄えが可もなく不可もなく程度のものだろうか。友人、親戚、そんな立ち位置で二人は初々しく微笑み合う。アンジェとお揃いのエプロンが、髪を飾るリボンとブローチが、リリアンが動くたびに微かに揺れる。
(お二人は、結局──実情はともあれ、婚約している……)
祥子はスチルをコンプリートするためにわざわざミニゲームの成績を調節していた。一通りのスチルを見終わった後はもちろん最高点を出し、甘い雰囲気を堪能することが多かった。スチルと完全一致しているわけではないが、それでも二人が笑い合って並ぶ光景はゲームのことを否が応にも思い出させる。アンジェが二人のことをじっと見ていると、リリアンがその様子に気が付き、にこりと微笑んだ。
「アンジェ様、体調はいかがですか、食べられそうですか?」
リリアンがぱたぱたとアンジェの許に駆け寄ってきて、その顔をひょいと覗き込む。
「ご心配ありがとう、リリィちゃん。是非ともいただくわ」
「えへへ、良かったです!」
リリアンは頬を染めて笑うと、メイドが取り分けておいた小皿を一つ手に取り、アンジェの前に置いた。リリアンが作る菓子は見た目は素朴だが、味が洗練されていて質感も良く、計量や一つ一つの工程を丁寧に正確に行っている。それはお菓子クラブでの菓子製作の様子を見るとよく分かった。乙女ゲーム「セレネ・フェアウェル」では、主人公が菓子作りが得意な設定など見た覚えがない。ましてや主人公と悪役令嬢が恋人同士になるなど、思い出すまでもなくどこにも示唆されていない。
「さあ、ぜひお召し上がりください」
「ありがとう、リリィちゃん」
「うふふふふ」
リリアンは上機嫌に鼻歌を歌いながら自分の席に戻った。アンジェもフォークを手に取り、茶葉入りパウンドケーキを小さく切り分けて口に運んだ。しっとりとした生地。茶葉の独特な香り。懐かしさを感じさせるその味は、アンジェの、祥子の記憶の扉を叩く。
【はい、紅茶のパウンドケーキ!】
記憶の中の祥子と凛子は、お茶のことを紅茶と呼んでいた。祥子たちが生きた世界では、紅茶のほかにもいろいろなお茶があり、コーヒーという良い香りだがとても苦い飲み物もあった。祥子はこの茶葉入りパウンドケーキを食べる時は、その日の気分で飲み物を変えて楽しんでいた。
(凛子ちゃん……)
(凛子ちゃんが大切なお友達だと思うこの想いも、祥子の記憶……)
(けれど……)
「お味はいかがですか? アンジェ様」
「……リリィちゃん」
傍らからリリアンがアンジェの顔を覗き込んできた。触れると柔らかそうな頬、たくさんのリボンのように波打ち背を彩るストロベリーブロンド、きらきらしている紫の瞳。子犬のようだと思いながらアンジェも微笑む。
「とても美味しいわ。どんな魔法を使ったのかしら」
「えへへ、内緒です」
「わたくしにだけ特別に教えて下さらないこと?」
「じゃあ、今度お菓子クラブで作りましょう」
「まあ、ありがとう、とても素敵ね」
リリアンはにんまり笑うと嬉しそうに頬を染めた。フェリクスはスコーンを千切りながら、小鳥が初めて自分の手からエサを食べたかのようにデレデレと微笑んでいる。
二人ともアンジェを慕い、アンジェを大切にしてくれている。
今この瞬間は、たとえ絵面がゲームのスチルと同じでも、その胸に抱えた想いは少しずつずれていた。そしてアンジェはこの場にはいないはずの人物だった。フェリクスを推していた祥子は、彼の相手として主人公と転生姿、どちらを気にいるだろうか? ゲームの通りなのか、自分自身の本懐を遂げるのか。今日この日の光景を見た凛子は、かつて祥子とそうしたように、素敵だねと笑い合ってくれるのか。またあの美味しいパウンドケーキを、祥子のためにと焼いてくれるのか。
「…………」
どうしてリリアンのケーキは、息が苦しくなるほど懐かしいのだろう。
もくもくと茶葉入りパウンドケーキを食べていたアンジェは、微笑みながらリリアンを見つめ、フェリクスを見やり──青い瞳から、ぽろりと一粒涙がこぼれた。
「えっ、アンジェ様?」
「アンジェ?」
「──ごめんなさい」
両隣の二人は目敏くそれを見つけて首を傾げ、眉をひそめた。アンジェは指先で目尻を拭って微笑んで見せるが、反対側の瞳から、指の隙間から、ぽろり、ぽろりと涙は零れ続ける。
「あっ、あああ、アンジェ様!? ごめんなさい、美味しくなかったですか!?」
「アンジェ……?」
慌てて立ち上がったリリアンから顔を隠すようにアンジェは顔を背けた。指先で、手の甲で、猶も止まらない涙を拭う。
【祥子ちゃんは、昔からずっと紅茶のパウンドが好きだよねえ】
(凛子ちゃん……)
(……ごめんなさい、祥子はフェリクス様が好きだったのに……)
(わたくしは……リリィちゃんが……)
「違うの……リリィちゃん、大丈夫……ごめんなさい……」
「アンジェ様っ……アンジェ様! 殿下、どうしよう、アンジェ様が! 私、砂糖と塩を間違えちゃったのかも! それとも小麦粉が古くなってて」
「……落ち着こう、リリアンくん。僕がいただいたお菓子はどれも美味しいよ。同じ型から出したものを切り分けたんだろう?」
「はい……でも……」
「大丈夫だよ、リリアンくん」
リリアンは狼狽えてアンジェにしがみつく。フェリクスは怪訝な表情ながらも席を立ち、アンジェとリリアンの傍まで歩み寄ってきた。
「アンジェ……」
フェリクスはアンジェに手を差し出しかけて躊躇い、ちらりとリリアンの方を見た。リリアンは自分も瞳に涙をため、アンジェとフェリクスを交互に見比べている。フェリクスは苦笑いを浮かべると差し出した手を引き戻し、ポケットからハンカチを取り出した。綺麗にたたまれた紺色の布地をじっと見ると、リリアンの手を取り、そのハンカチを握らせる。戸惑うリリアンの手をハンカチごと握り、まずはリリアン自身の目尻を拭わせる。次いで顔を覆っているアンジェの手を下ろさせ、涙に濡れた青い瞳を覗き込む。アンジェが呆然とフェリクスとリリアンを見比べたのを確かめると、にこりと微笑み、ハンカチを握ったリリアンの手を掴んだ。
「大丈夫だよ、アンジェ」
フェリクスが動かすリリアンの手が、アンジェの涙を拭っていく。
「君にはリリアンくんがいる。……僕もいるよ。泣きたければ泣いていい。理由を言いたくなければ言わなくていい。それを咎める者はここにはいない」
「フェリクス様……」
「あ、アンジェ様……私、私も……アンジェ様のお力になりたいですっ……」
「リリィちゃん……」
フェリクスは柔らかに微笑み、リリアンはまた涙を流しながらアンジェにしがみついた。アンジェの瞳からもまた涙がぽろぽろと零れる。リリアンは自分の涙はそのままに、アンジェの顔をこまごまと拭いていく。
「アンジェ様……泣かないで、アンジェ様……!」
「リリィちゃん……ありがとう、大丈夫よ……」
「アンジェ様あ……」
腕を伸ばして抱きついてきたリリアンを、アンジェは柔らかに抱き締め返した。フェリクスが微笑みながら身体を起こし、アンジェの頬にそっと触れる。彼の手は、緑の瞳の柔らかな視線は、どこまでも優しく二人を見つめている。リリアンの感触も、フェリクスの視線もどちらもアンジェを守るように包み込むが、それでもアンジェの涙は止まらない。どうしてこんなにも胸が締め付けられるのか、どうしてこの場から逃げ出してしまいたいのか、アンジェ自身にも分からない。
(……祥子は、本当に、あちらの世界で死んでしまったのだわ……)
(ここは、わたくしは、祥子が好きだった「セレネ・フェアウェル」とは違ってしまっている……)
(……せめて……)
「……凛子ちゃん……」
(無事なのかどうかだけでも知りたい……)
音になるかならないかほどの小さな呟きを、アンジェは嗚咽と共に噛み殺す。ここにはフェリクスがいて、リリアンがいて、美味しいケーキがあって。アンジェを脅かすものは何一つないはずなのに、祥子への遣る瀬無さがつのればつのるほど、凛子の声が、眼差しが、ありありと思い出されていった。
しがみついたアンジェの背中で、リリアンはゆっくりと瞳を閉じ、アンジェのエプロンのひもをきつく握り締めた。