29-10 疑惑と思惑 前世からの想い
「どうして……殿下は、そんなにアンジェ様のことを大好きでいられるんですか」
テラスの外から室内に、冬の午後の柔らかな日差しがささやかに差し込んでいる。
「私……アンジェ様の恋人です。恋人だと思ってます」
リリアンは話しながら震え始め、顔がのぼせて赤くなっていく。
「だ、だから……他の人が、アンジェ様に親切にしたり、……好きだよって、言ったりするの……すごく嫌です。やきもちを焼いて、……そんな自分が悲しくなります」
両手を握り締め、何度も視線を逸らしてしまいながら、それでもリリアンは必死にフェリクスを見て言葉を紡いでいく。フェリクスも面差しを正し、真剣な表情でリリアンのつたない言葉に聞き入る。
「もし、アンジェ様が……私のこと、一番に、す、好きでいてくれてなかったら……もっと悲しいです」
「リリィちゃん……」
メイドがお茶のポットを持ってテーブルにやってきて、三人の空になったカップに新しいお茶を注いだ。ケーキを取り分けた皿とフォークは片付けられ、まだ何片か残っているラズベリーチーズケーキも蓋をかぶせて下げられてしまう。
「でも……殿下は、アンジェ様に私がいても……マラキオンが来た時、真っ先にアンジェ様を助けようとなさってました。あの気持ち悪いやつを吐くのも、全然ためらわずに助けて……にゃんじぇ様にもすごく優しくて……」
「えっ!?」
思いがけないところから飛び出した言葉にアンジェはギョッとした。
「ねえ、そのにゃんじぇというのは何なのですの!? 教えてちょうだい!」
「にゃんじぇ様は黙っててください」
「どうして教えてくださらないの!?」
「絶対言いません。ね、殿下」
「そうだな、それがいい、僕の可愛いにゃんじぇりーく」
「フェリクス様まで!」
リリアンとフェリクスは視線を交わすと、うんうんと頷き合ってあはははと笑った。アンジェは立ち上がらんばかりの勢いでフェリクスを睨むが、フェリクスはニコニコと微笑み返すばかりで、アンジェはそれ以上何も言うことが出来なくなってしまう。腑に落ちないまま視線を真剣な表情に戻ったリリアンに移すと、恋人は顔を上げ、真っ直ぐなまなざしでじっと王太子の緑の瞳を見た。
「殿下はどうして、……ずっと、アンジェ様のこと、好きでいられるんですか。私のこと、嫌じゃないんですか。アンジェ様と一緒にいるところを喜んでいただけるのは、嬉しいは嬉しいんですけど……」
「……えっ、リリィちゃん、嬉しいんですの!? お嫌とばかり……」
「なんか、認めてもらえたーって感じしません? 二人でいてもいいんだよって」
「そ……そう、かしら……?」
「……アンジェには君という恋人がいるのに、どうして僕が今でもアンジェを好きなのか、か」
フェリクスは呟くと、お茶のカップを手に取り、水面から立ち上る湯気を見つめた。
「どうしてだろうね。前も似たようなことをアンジェに聞かれた気がするな」
「フェリクス様……」
「自分でも不思議なんだ」
王子はゆっくりとお茶を飲み、浮かべている微笑に苦いものを含ませる。
「リリアンくんとアンジェが恋人になったと知っても、嫉妬の類は感じなかったように思う。アンジェがカフェテリアでエリオットくんと並んで座っていた時などは、気が狂うかと思ったものだけれどね」
「それは……リオが男で、私が女だから、ってことなんでしょうか?」
「どうだろう」
首を傾げたリリアンに、フェリクスも目を開けて首を傾げる。
「アンジェの気持ちを、新年会の時に初めて知ったというわけでもないしね」
「えっ!?」
フフフと笑ったフェリクスに、アンジェはギョッとしてカップを取り落としそうになった。
「いっ、いつですの、いつからお気づきでしたの、フェリクス様!?」
慌てふためくアンジェを見て、フェリクスは目を細めてくすくすと笑う。
「いつからと言うと最初からになるのかな。君は入学式の時に、リリアンくんを心配するあまり泣いていただろう。医務室で会った時もとても狼狽えていたし、翌日に玄関前で姿を見かけた時は、声をかけるのも躊躇うほど恥じらっていて……その瞬間は、珍しいこともあるものだなくらいに思っていたけれど。そういうのを何度も見ているうちに、だんだんとね」
「……アンジェ様、泣いてたんですか?」
リリアンが紫の瞳を大きく見開き、フェリクスはニコニコしながら頷き返す。
「そうだよ。今にも泣きそうな君を見ていられない、どこかに連れ出してやりたい、と、僕の隣で当のアンジェが泣きながら言ってきたんだ。涙に濡れた瞳がとても綺麗で宝石のようだったな」
「へえー……そっかあ……へえー……」
リリアンは瞳をキラキラさせて頬を手で覆い、ちらちらと隣のアンジェを横目に見る。アンジェは全身が熱くなり、火照る顔を両手で覆う。
「ふぇ、フェリクス様……その……あまり……」
「えへへ、もっと聞きたいです、殿下」
「やめてちょうだい……」
「照れてるアンジェ様、とっても可愛いです」
アンジェが顔を隠したまま首を振り、それを見たリリアンはにんまりと笑う。対面でその様子を見ていたフェリクスは緑の瞳を輝かせながらひとしきり微笑み、吐息を漏らし、やがて何かを悟ったかのような安らぎに満ちた顔でしみじみと頷いて見せた。
「ありがとう二人とも、良いものを見せてもらったよ……とにかく、そんな具合だったからね。アンジェがリリアンくんの事で一喜一憂しているのを見るのはとても可愛らしかった。今までとは違うアンジェの魅力を新しく発見した、と言えばいいのかな。だから僕の中で、僕がアンジェを愛していることと、アンジェとリリアンくんが仲睦まじくしていることは何ら矛盾しないんだ」
「……それは、私たちが恋人同士でも、ですか」
「そうだね」
「アンジェ様が、……殿下ではなくて、私が一番だ、って仰ってくださっていても、ですか」
「……そうだね」
「私が……私以外、誰もアンジェ様に触っちゃダメ、って言ってもですか」
「…………」
フェリクスは何も言わないまま、じっとリリアンを、その紫の瞳を見つめる。それからその隣のアンジェのことも見つめて、ため息をつきながら微笑んだ。
「……そうだね。変わらないと思う」
フェリクスは淡々と言葉を紡ぐ。
「……でも、アンジェに全く触れられないのは嫌だな」
「…………」
十八歳の若き王子からは幼くも見える十三歳の少女は、眉毛を吊り上げ、不敬を問われかねないような表情でフェリクスをじっと睨んだ。フェリクスはリリアンの目線を真っ向から見つめ返すと、あくまでも柔らかに苦笑いを浮かべてみせる。
「リリアンくん、そんな顔をしたら、アンジェが好きな可愛い顔が台無しじゃないか。……今すぐ結論を出そうと焦らなくてもいいのではないかな。時が流れて経験や立場が変われば、考え方もまた変わってくるものだ」
「……どういう意味ですか?」
リリアンが険しい顔のまま首を傾げると、フェリクスはアンジェをちらりと見遣り、物思いにふけるように視線を落とす。
「君と出会った頃のアンジェは、聡明でたおやかで、僕に一途な素晴らしい淑女だっただろう。けれどアンジェも以前は、僕に対してどこか淡々としている時期があったんだよ」
「えっ、アンジェ様が!?」
「そう、僕の可愛いアンジェリークが。もちろん会えば微笑んでくれるし、会話は弾むよ。僕への親愛が伝わってくる。けれど、……そうだな、アンジェの兄上に対する態度と、さほど変わらない程度だったように思うよ」
「へえー……アンジェ様、あんなに殿下大好きだったのに……?」
「フェリクス様、そのように感じていらっしゃいましたの? わたくし、その頃は心からフェリクス様をお慕いしておりましたのに……」
「ああ、いや」
アンジェの言葉に、フェリクスは慌てて右手を顔の前で振って見せた。
「君の気持ちを疑っていたわけじゃないんだよ、アンジェ、ごめん。ただ……君がアカデミーに入学した頃かな。あの頃から君は、何か必死な様子になって……僕を見つめる瞳に、熱が込められるようになったなと、感じる時が多々あってね」
「…………」
(ちょうど……)
(祥子の記憶を、思い出したころだわ……)
「アンジェ、君はアカデミーに入学するまでは、セルヴェール家以外の人間と日常的に交流をすることはほとんどなかっただろう。だからアカデミーで同級生や先輩と親交を深めていく中で、僕のこともより気にかけてくれるようになったのだろうと思っていたんだよ」
「……わたくし、自分でも全く持って気が付いておりませんことよ」
「そうだったんですねー……」
アンジェは胃が差し込むように痛むのを感じ、そろそろと自分の前腕をさすった。リリアンの呆然とした相槌がとても遠くから聞こえるような気がする。
あの頃。
あの頃、祥子の記憶を得たばかりのアンジェがフェリクスを見ると、直視できないほど眩しく輝いているように感じていたこと。アンジェの婚約者であるフェリクスは、祥子が乙女ゲーム『セレネ・フェアウェル』で最推しだった攻略対象その人であることに気が付いて狂喜し、同時に悪役令嬢であった自分のこの先の運命も理解して絶望した頃。彼を失いたくなくて、ヒロインに奪われるのを阻止したくて、自分を磨き続けてきた一年間。
(……あの記憶よりも前は……わたくしは、フェリクス様にどのように接していたのかしら……)
(全く思い出せないわ……)
(だとしたら……)
【記憶を取り戻したばかりのアンジェちゃんの恋心と祥子ちゃんの推しが一致したのは、とても良いことだと思うわ】
いつかのイザベラの台詞が、アンジェの脳裏で蘇る。
(フェリクス様を、真に愛していたのは……)
全身を重い何かに押し潰される感覚がまざまざと蘇る。
「……アンジェ様、大丈夫ですか? お顔色が悪いような……」
「……リリィちゃん」
「本当だ、アンジェ。無理をせず休んだ方がいいよ」
「いえ……大丈夫ですわ……大丈夫……」
「殿下のおっしゃる通りです、無理なさらないでください、アンジェ様」
リリアンがアンジェの顔を覗き込んでくる。その類まれな紫の瞳が、しっかりとアンジェを映して揺らめいてる。わたくしの大切なリリィちゃん、可愛い恋人。
【いろいろ、混乱させられるわよね、前世というものは】
【子リスとは別にリリコが来て、ショコラを一番愛しているのは私、ショコラをよこせと子リスやら殿下やらに喧嘩を売ったら、お前はどうするんだ?】
ルナとイザベラの言葉が交互に思い起こされる。二人の言っていることを理解しているつもりだった。理解して、そのうえで、自分には関係のないことだとばかり思っていた。
(リリィちゃん……フェリクス様……)
(……凛子ちゃん……)
記憶の中のミルクティー色の髪がふわりと風になびくのをまざまざと思い出してしまい、アンジェは唇を噛んだ。