29-9 疑惑と思惑 あてずっぽう
「大体君たちは、婚約破棄、婚約破棄と言うけれど、婚約の何がいけないんだい」
「フェリクス様……」
カップがソーサーに音もなく着地し、フェリクスの骨ばった指が取っ手から抜き取られる。
「周りはやかましいけれど、僕たちは何も変わらない、それでは駄目なのか? 僕がいて、僕の愛するアンジェがいて、アンジェが愛するリリアンくんがいる。僕はアンジェと、アンジェが大切にしているリリアンくんを守る。それでいいじゃないか」
含みなど何一つない、純粋に不思議に思っている、フェリクスはそんな口調で言いながらアンジェとリリアンの顔を見比べた。リリアンは思い切り困惑して不安げにアンジェの顔を見上げる。アンジェも戸惑いを感じないわけではなかったが、ひとまずリリアンに微笑んでみせ、フェリクスの方に向き直った。
「わたくしが婚約破棄と申し上げましたのは……フェリクス様とリリィちゃんの婚約を受けてのことですわ。けれど、リリィちゃんがフェリクス様の隣にいてもお幸せそうでないのなら、それを承知できませんの」
「そうだね、君は新年祝賀会でそう言っていた」
「けれどセレネス・シャイアンであるリリィちゃんをお守りするのは、セレネス・パラディオンの役目なのでしょう?」
アンジェはフェリクスを真っ直ぐに見据え、胸の中で何度も呪文のように唱えてきた言葉を、はっきりとした声に乗せて語りかける。
「ですからわたくし、その資格を得るべく、剣の修行をしておりますの」
「でも、もう君たちは恋人になったのだろう?」
「だっ」
「こっ」
あけすけな物言いのフェリクスに、アンジェとリリアンは二人して言葉に詰まる。互いの顔を見合わせてそれぞれ顔を赤くし、フェリクスの方に向き直るが、どちらもうまく言葉が出て来ないようだ。フェリクスはそれを幼子が初めて歩いた時の親のような眼差しで見つめながら続ける。
「隠す必要もないだろう、もっと僕に仲睦まじい様子を見せておくれ。……自分で言うのもあれだが、君たちはもっと、僕の婚約者という立場を利用したほうがいい。特にリリアンくん」
「ぴゃ、ぴゃいっ!?」
「君は事あるごとに僕との婚約を否定しているね。もしそうするなら、アカデミー卒業後はどうするつもりなんだい。お菓子屋さんでも開くのかい」
「ぴゃっ、ぴゃぴゃ、ぴゃ……!?」
リリアンは動揺して子供のおもちゃのような声を出しつつ隣のアンジェを物凄い形相で見上げる。アンジェは慌てて首を振って見せる。フェリクスはその様子を見て、あてずっぽうが当たったようだね、と笑い声をあげた。
「君は本当にお菓子が大好きだからね、リリアンくん。そしてもし僕が君の立場だったら、卒業を待たずに夢の実現に向けて行動を開始するよ。……たとえば、アカデミーの購買部に君のブランドで菓子を委託販売するだとか、レシピを有償で著名なパティスリーに譲るだとか」
「えっ……えっ?」
「フェリクス様……?」
慌てるだけだったリリアンの顔が徐々に真剣になっていく。アンジェが怪訝そうに自分を見つめてくるのを、フェリクスはニコニコしながら受け止める。
「許諾の関係は、確かにややこしいかもしれないが……またローゼンタールに頼めばいい。そしてそのお菓子を宣伝するなら、セレネス・シャイアンであるとはいえ一介の学生の趣味が高じました、というのと、王太子とセルヴェール家の推薦状がそれぞれあり、資金援助も見込むことができる、というのでは、どちらがより大きな効果を得られると思う?」
「……殿下……」
リリアンは呆然として、自分の膝の上で両手を握り締める。
「でも……そんなこと……お願いできません……私……」
「アンジェが大切にしているものは、僕の大切なものでもあるよ。僕が僕の大切なものを大切に扱って、何がいけないんだい?」
「でも、あのっ……」
「アンジェ、君だって出来る限りのことをリリアンくんにしてやりたいだろう?」
「それは……そうですけれど……」
フェリクスは言いながらアンジェの方をちらりと見て、どこか嬉しそうに微笑む。アンジェが困惑してリリアンを見るのと、リリアンが泣きそうな顔でアンジェを見るのはほぼ同時だった。リリアンはアンジェを見て、フェリクスを見ると、唇を嚙みながら俯いた。
「どうして……殿下は、そんなにアンジェ様のことを大好きでいられるんですか」