29-6 疑惑と思惑 優秀な頭脳
「アンジェ様、ここに書いてあること分かるんですね……私なんてどれだけローゼンタール先生に説明されてもさっぱり分からないです」
アンジェが硬直しているのに気が付いているのかいないのか、リリアンがのんびりとした声を出す。
「ローゼンタール先生も、ぜひクッキー食べて下さい、こんなのじゃお礼にもならないですけど、味の感想を教えていただけると嬉しいです。男の人の好みっていまいち分からなくて」
「……味の感想の供述は不得意ですね」
ローゼンタールはアンジェから視線を逸らし、またあの貼り付けたような笑みを浮かべてアンジェの恋人をじっと見る。
「クッキーなど、さした値段でもないでしょう。わざわざ自分で作るほどのものなんですか?」
「えへへ、私、いつかお菓子屋さんを開きたいんです。だから毎日練習してるんです」
「ほう、菓子屋」
リリアンはいつもの調子でニコニコしながら、ローゼンタールのためにさくほろクッキーを小皿に取り分けてやった。受け取るローゼンタールも、愛想笑いであることを除けばさして不審な動作はない。二人の様子を眺めていたアンジェは、まだ震えている指先を誤魔化すように紙束を握り締める。
「それは興味深いですね。王子殿下の婚約者だというのに、菓子屋を目指すんですか」
「はい、私、成り行きで婚約者になってしまっていますけど、殿下と結婚するつもりはありません」
(……クーデターありきで物事を見てしまうのはいただけなくてよ、アンジェリーク)
(個別の事例が並んでいるだけと思われているのかもしれないし……よしんばそれぞれ結びつけて考えていたとしても、彼がクーデター側とは限らないのだわ)
アンジェは紙束になるほど書き連ねられた事例を、もう一度最初から流し読みしてみた。単なる出来事の連なりは、スウィート男爵がそれだけ精力的にロビー活動を行なっていたことが見てとれる。起訴の根拠となった事例は動機と行動の目的がはっきりとしているのに対し、不起訴の事例はそれらがぼやけているように思えるものもあった。あるいは、物事の輪郭はアンジェが想像するよりも深く広く、そこからスウィート男爵が切り離された、と捉えたほうが適切なのかもしれない。
「なるほど。スウィートさんは進取の気性に富んでいますね、素晴らしい」
「シンシュ? ……えへへ、ありがとうございます」
リリアンは難しい言葉の意味が分からなかったらしく首を傾げ、曖昧に笑って見せた。愛想笑いをしてばかりのローゼンタールは、それを見逃さずにじっとリリアンを見ている。アンジェは胃が握り潰されるような思いがして怒鳴りつけてやりたくなったが、唇をかんでその衝動に耐えた。
(なんにせよ……わたくしは、わたくし達は、この男になにかを試されているのだわ……)
(聡明、聡明と……わたくしの何を見てそう仰っているやら……)
アンジェは紙束を膝の上に置くと、瞳を閉じてゆっくりとため息をついて見せる。
「……拝見させていただきました。ありがとう存じます、ローゼンタール先生」
「なにかお役に立てましたか」
「ええ。これから役に立つこともあるかもしれません」
アンジェが立ち上がって紙束をローゼンタールに差し出すと、男も腰を浮かせてそれを受け取った。アンジェリリアンの隣に座りなおし、微笑みながらローゼンタールの瞳をじっと見つめる。
「スウィート男爵の行動は、一貫性があるようで不可解な点も見受けられますのね。なにか大きなものとのつながりを作ろうとしてあちらこちらを駆けまわっているよう」
「そのように気付かれましたか」
ローゼンタールが少しばかり目を見開いてアンジェをじっと見る。
「やはり貴女は聡明だ、公爵令嬢」
「ありがとう存じます」
「その鋭い洞察を、王妃という身分で発揮されたいとお考えなのですか」
「……いいえ、わたくしは婚約を辞退させていただきたいと考えておりますの」
首を振りながら、強烈な違和感にアンジェは顔をしかめた。ローゼンタールの物言いは、どこか今この瞬間とはずれているような気がする。彼の中に揺るぎのない固定観念があって、アンジェとリリアンをそこに当てはめようとしているかのような居心地の悪さ。安藤祥子も、営業先の相手が女だと見るやハラスメント発言を連発してくるような人物に出くわしたことが何度もある。あの時の違和感と遣る瀬無さを、ローゼンタールも巧妙に隠そうとしつつも隠しきれていないのではないか。
「素晴らしい。それならば貴女は、なにか士業を目指すべきです、例えば弁護士ですとか。優秀な頭脳を持つ人間は、それを使って人々に貢献するべきですよ」
「そうですわね、何かお役に立てることがあればよいのですけれど」
アンジェは微笑みつつ──練習し尽くして体得した、愛想笑いになどとても見えない完璧な笑みを浮かべつつ頷いて見せた。ローゼンタールも頷きながら満足げに自分の顎に手を当てる。
「優秀な人材は、もっと登用され活躍の場を与えられてもよいと思いませんか」
「……と、仰いますと?」
「血筋だとか家柄だとか……魔力があるだとか。そうした根拠のないものがもてはやされて、真に評価されるべき者が日の目を見ないのは、王国としても機会損失だとは思いませんか」
「…………」
アンジェは言葉をつぐみ、傍らできょとんとしているリリアンの手に触れた。リリアンはサッと頬を染めてアンジェを見上げる。アンジェはにこりと微笑み返し、リリアンの手を優しく握る──ローゼンタールが口を開く前に、こんこん、と部屋の扉をたたく音がした。
「王子殿下のお成りです」
「おや、どうぞ」
ローゼンタールは少しばかり肩をすくめると、その場にけだるそうに立ち上がった。アンジェとリリアンも手をつないだまま応接セットの長椅子から立ち上がる。ほどなくして扉が開くと、上機嫌だがどこかそわそわした様子のフェリクスが室内に入ってきた。
「やあ、ローゼンタール、仕事は順調かい」
「麗しき王子殿下。滞りなく進んでおります」
「そうか、それは何よりだ」
快活な眼差しのフェリクスは、ローゼンタールの回答に満足げに頷くと、アンジェとリリアンの方をぱっと向いた。
「アンジェ、僕の可愛いアンジェリーク、それからアンジェの大切なリリアンくん。遅いから迎えに来てしまったよ、待ち切れない浅ましい僕を、君たち二人は許してくれるかい」
「まあ、フェリクス様、そうでしたのね、お気遣いありがとうございます」
「えへへ、殿下、すぐに準備できます」
「そうか、良かった。ローゼンタール、悪いけれど二人は僕との約束の時間なんだ。連れて行って構わないね?」
「勿論です、殿下」
期待に満ち満ちたフェリクスは自分の弁護士の返答に満足げに頷いてみせ、アンジェとリリアンをせかして部屋を退出させた。
部屋の入り口で見送るローゼンタールの瞳の奥が暗く沈んでいるように見えたのを、アンジェは忘れることが出来なかった。