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29-5 疑惑と思惑 蜘蛛の巣

 スウィート男爵訴訟におけるリリアンの弁護士ヘルマン・ベック・ローゼンタールは、フェリクスの法学の家庭教師を経て、今は王子専属の弁護士である。フェリクスはフェアウェルローズ・アカデミー卒業までは未成年扱いのため、内政に責任ある立場で参画することは認められていない。だがフェリクスは個人資産を元手に慈善事業をいくつか経営しているため、その運営や手続きに関し、ローゼンタールの助けを借りることも多かった。


 スウィート男爵訴訟の初公判は異例の速さで行われた。そのため原告側のリリアンの準備も多忙を極め、当初はアンジェの父親の伝手で紹介した弁護士がそれらを担っていた。しかし先日のフェリクス誕生祝賀会でリリアンとフェリクスの婚約が対外的にも発表された後、ローゼンタールからリリアンの弁護人を請け負いたいと申し出があり、もともとの弁護士たちに合流し、弁護団としてリリアンを助ける運びとなった。もとの弁護士らから反発がありそうなものであるが、クラウスと同年代でありながら王太子専属弁護士となった若き法学の天才と共に働くことが出来るとあって、二つ返事で歓迎されたらしい。


「……素晴らしい蔵書ですこと」


 次回公判に向けて準備が着々と進められている中、アンジェはリリアンとフェリクスに頼み込み、リリアンと連れ立って王宮に住み込んでいるローゼンタールの執務室を訪問した。家具は本棚と執務机と応接セットしか置かれておらず、部屋は冷え込むというのに火鉢だけで過ごしているようだった。窓と扉以外の壁はほとんど本棚で見えなくなっていて、執務室の半分と床の一角はなにかの書類で山積みになり、応接セットも読みかけの本が開きっぱなしだったりしおりを挟んだりしつつも乱雑に置かれている。図書館を除けば、アンジェが今まで見てきた個人の蔵書の中では圧倒的な冊数なのは明らかだった。


「公爵令嬢は本を読まれますか」

「はい、学業の延長のような本ばかりですけれど」


 目を輝かせたアンジェに、ローゼンタールがにこやかに話しかけた。麦わら色の髪を短く刈り込み、灰色とも紫色ともつかぬフロックコートにベスト、パンツをきちんと着込んでいる姿は、祥子のいうところの三つ揃いを思い起こさせる。セルヴェール公爵家に並ぶローゼンタール公爵家の三男だそうで、ともすれば男性の衣服も華美になりがちだが、ローゼンタールの衣服は刺繍や飾りは一切なく、それが余計に現代日本のエリートサラリーマンを彷彿とさせた。


「お好きな本がありましたらお貸ししますよ」

「ありがとう存じます」


 ローゼンタールは応接セットに積まれた本の山を執務机に写し、テーブルの上を布巾でざっと拭いてから、ようやくアンジェとリリアンに座るように勧めた。リリアンはもうこの部屋の状況にも慣れているのだろう、手に大きなバスケットを持って、アンジェが瞳を輝かせて本棚を見渡している横顔をニコニコしながら見上げている。


「ああ、お茶か何か用意するんでしたっけ、すみません、気が回らなくて」

「いいえ、お気遣いなく」

「ふふふ、ローゼンタール先生はいつもそうなので、私が用意してきましたっ」

「ああ、ありがとう、スウィートさん」

「まあ、リリィちゃん、お荷物が多いと思ったら!」


 リリアンは得意げにバスケットからお茶のポットとカップ、そして小箱を取り出してテーブルに並べた。小箱の中には可愛らしいクッキーが並んでいて、リリアンがそれを取り出している間に、アンジェもてきぱきとお茶を注いで回る。ローゼンタールは茶色の瞳でその様子を眺めていたが、やがてゆっくりと唇を引き上げ、笑みの形を作って見せた。


「……お二人は、フェリクス王子殿下の婚約者の座を争っているのでしょう。ずいぶんと仲が良いのですね」

「……まあ」

「えっ」


 アンジェとリリアンはローゼンタールの対面で、互いの顔を見合わせる。


「争って……は、おりませんことよ。わたくしたち、どちらも婚約は辞退させていただきたいのです」

「はい、そうです、なんか流れで変なことになっちゃってるんですけど、アンジェ様とはずっと仲良くしてくださっています」

「仲良く……」


 ローゼンタールは息を呑み、二人をまじまじと眺めてから、うんうんと頷いて見せた。


「そうなんですね。個人の関係性はいろいろありますから。応援していますよ」

「ありがとうございます! クッキー食べてくださいね、これは甘さ控えめにしていて……」


 リリアンがニコニコしながら言うのを、若き弁護士は微笑みながら頷いて聞いていた。アンジェも相槌を打つそぶりをしつつ、不自然にならない程度にローゼンタールの様子を見遣る。彼の挙動に違和感はない、滑らかな口調と物腰。違和感がない、違和感がなさすぎるからこそ、アンジェは既視感を覚える。


(……本当に……サラリーマンのようだわ……)


 安藤祥子は輸入雑貨を扱う会社に勤務しており、職種は企画営業だった。様々な業種の取引先の責任者とプレゼンをし、商談をして、多くの契約を勝ち得てきた。だからこそローゼンタールの態度は、得体の知れない営業のアポイントに渋々出てきた部長職が失礼のないように振舞ってはいるが、その実アポイントの終わり時間以外に興味がない様子に、いやに似ていると思ってしまった。現に、アンジェとリリアンとフェリクスの関係性は国民のほとんどが正確に事態を把握しているだろうに、的外れなことを言っていた。ほとんどと言うと語弊があるかもしれないが、それでも興味があれば、アンジェとリリアンがフェリクスをめぐって争っている、などとは言わないはずだ。


「ボーロみたいにほろほろ崩れるように、卵とバターの量を……」


(……リリィちゃんのクッキーに、手を付けていないわ……)


 アンジェはリリアンのクッキーを手に取り、口許を隠しながら食べる。コインほどの小さなクッキーは齧り取らなくても一口で食べられて、口の中でほろほろと崩れていく。人前でも苦労せずに飲み込むことが出来るこのクッキーは、きっとリリアンがアンジェが食べることを思って作ってくれたのだろう。


(せっかくのクッキーなのに、召し上がらないなんて、酷い人もいるものだわ……)

(この人は、リリィちゃんが心配だから弁護を引き受けた、というわけではないのね……)

(フェリクス様に、内々に頼まれたのかしら……?)

(それとも……?)

(ああ、いけないわ、怪しいと思い始めたら何もかも怪しく見えてしまう……)


「貴女のお菓子への情熱は素晴らしいですね」

「えへへ、ありがとうございます!」


 リリアンは上機嫌に笑っている。ローゼンタールの微笑みは崩れない。アンジェも、祥子の記憶がなければ、ただニコニコしているだけの大人、としか思わなかったかもしれない。


「それで。公爵令嬢は、訴訟資料を見たいのでしたね」

「……はい」


 話題を振られ、アンジェは頷きながらゆっくりと息を吸う。


「初公判の時の資料は拝見させていただきましたわ。今日は、初公判の時点では、証拠不十分で事案として記載できなかったような……そういった事例がありましたら、見せていただきたいと思いましたの」

「……構いませんが、証拠不十分ねえ。何かお探しなんですか?」


 ローゼンタールはずばりと言うと、アンジェを真正面からじっと見た。アンジェは気圧されそうになるが、想定内だわ、と内心で呟き、にこりと微笑んで見せる。


「大切な人を守るために、知れる限りのことを知ろうとしているだけですわ」

「アンジェ様……」

「それは殊勝な心がけですね。聡明な女性は素晴らしいと思いますよ。少しお待ちください」


 リリアンはアンジェの隣で瞳を潤ませたが、ローゼンタールは淡々と言いながら立ち上がり、執務机の書類の束をばさばさと漁り始めた。アンジェがその様子をじっと見ていると、リリアンがアンジェに寄りかかってくる。アンジェが視線をリリアンに移すと、リリアンはアンジェを上目遣いに見上げ、えへへ、と笑って見せた。


「アンジェ様、クッキー、美味しかったですか?」

「ええ、とても美味しかったわ。いろいろ工夫をなさっているのね」

「えへへ、ありがとうございます。食べ過ぎないようにしてくださいね」

「大丈夫よ、リリィちゃん」

「えへへへへへ」


 リリアンはニコニコと笑うと、自分でもクッキーを一つ食べ、お茶をこくりと飲んだ。アンジェもお茶を飲んでカップをソーサーに戻した頃、ローゼンタールが紙束を抱えて応接テーブルに戻ってくる。


「こちらです。お渡しするわけにはいきませんので、ここで見て行っていただけますか」

「承知いたしました」


 ローゼンタールの目つきは何かを探るような光を帯びている。アンジェは二の腕あたりの皮膚が泡立つのを感じつつ、差し出された紙束を受け取り、視線を落とした。全て手書きの文字は、急いで書いたのかと思うようなやや潰れた筆致だった。もともとの訴訟用の事案には、スウィート男爵がリリアンの年齢を詐称したこと、リリアンがアカデミー内で孤立しフェリクスに接近するよう、生徒やその親、教師などを脅迫したこと、リリアン自身への加害、アンジェへの加害や暴言、名誉棄損などが取り上げられていた。手渡された紙にも、どこそこの誰それの子息が関与したように思われるが証拠不十分、といった記述が続いている。送金の記録があるが使途不明瞭。某氏と会合と思われるが場所不明。通関を通さない商取引の記録ではないかと思われるが、取引先不明。元老院議員の某氏と会合、内容は不明……。


「……これは……」


 アンジェは指先が震え、紙をうまくめくることが出来なかった。一つ一つの事例の空白部分が、脳内で蜘蛛の糸を手繰り寄せるようにつながっていく。知っている名前、地名。やりとりの中身。つなぎ合わせた蜘蛛の巣は、フェアウェル王国をすっぽりと覆い隠してしまうのではないか? これらが渦を巻き始めたら、大きなうねりになるのではないか……。リリアンは無邪気な瞳でアンジェの手元の紙を覗き込んでいる。アンジェは生唾を飲み込み、震える手を、指先をぎゅっと握り直した。


(どうして……これを……)

(見せることが出来るの……!?)


「いかがですか、公爵令嬢」


 ローゼンタールの声かけに、アンジェは思わず身構える。その様子を見た若き弁護士は、初めて作り笑いではない微笑みを浮かべ、鼻を鳴らすような笑い声を出した。


「聡明な女性は素晴らしいと思いますよ」

「……ありがとう、存じます」


 アンジェは絞り出すようにそう答えるしか出来なかった。




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