29-4 疑惑と思惑 コルセット
今日のアンジェのコルセットは、レースをふんだんに使った淡い紫色だった。
「……事実はたぶん殿下の方なんだろうが……釈然としないな」
「ルナもそう思いまして?」
お菓子クラブの部室、特に奥の小部屋はアンジェの更衣室と化しつつある。人がいても気兼ねなく着替えられるよう衝立や鏡なども用意してあるが、今日は幸い部室にはアンジェ達しかいなかった。外から見えないように窓はカーテンを閉め、アンジェは立ったままコンパクトを覗き込んで化粧を直していて、ルナはナッツをかじりながらテーブルにひじをついていて、その隣には練習の終盤ごろから顔を出したルナのスカラバディのグレースが、なにかノートにちまちまと書き込んでいる。アンジェのすぐ横では、肌着の上からあてがったコルセットのリボン紐を、リリアンがもくもくと、真剣に、丁寧に編み上げていた。
「メガネ先生は……割と、几帳面なほうだろう。うっかりだとか間違えただとか、そういう線は薄いと思うが……」
「そうですわよねえ……」
お菓子クラブの部室で四人になると、アンジェはルナとリリアンにクラウスとフェリクスの発言の齟齬について相談した。当然ルナは乙女ゲーム「セレネ・フェアウェル」の各シナリオを思い起こして怪訝な顔になったが、リリアンとグレースは不思議そうに首を傾げつつ、二人の会話に聞き耳を立てている。
「まあ……怪しいよな。怪しいと分かってる人間が怪しいことをすると、何でも怪しく見える」
「そうなのよね……」
「どうしてアシュフォード先生が怪しいんですか?」
ノートに何かを書いていた手を止めて、黒髪おさげのグレースが隣のルナに尋ねた。ルナは思わし気に瞬きをしながらちらりとアンジェの方を見る。アンジェも回答につまり、口を歪めて瞬きを返すしかできない。
「……話すか?」
「……まだ、可能性でしかなくてよ。不用意に偏見を与えてしまうのはいただけないわ」
「そんなこと言ってる場合かよ、悪役令嬢」
ルナはナッツを噛み砕いて飲み込むと、深々とため息をついた。
「この前もあんな目に遭ったばっかりだってのに、何に気を遣ってるんだ? 自分のタマの安全を最優先しろよ」
「生憎タマはついておりませんわ」
「うるさいぞ」
アンジェの背中で、リリアンがリボンを通し穴にゆっくりと通していく。
「ルナ様、一体何のお話しをされてるんですか?」
「……グレース。子リス。私とアンジェはな、前世からのふかーい因縁でつながった、親友どうしなんだよ」
「えっ、前世? 親友どうしなのはもとからでしょう?」
「ちょっと、ルナ」
リリアンからは誰の顔も見ることが出来ない、ただ目の前にアンジェの腰とコルセットがあるだけだ。リボンは艶のある紫色のサテン生地で、先端が焼かれて通し穴に通しやすくなっている。リリアンの指がアンジェの肌着に触れ、またひとつリボンが穴を通った。
「そこで私たちは、未来の……今の私たちの夢を見た。物語を見た、と言った方がいいのかもしれないな。その物語の中で、メガネ先生とアンジェが、そりゃあもう大変なことになっちまうんだよ」
「えっ、大変って、まさか浮気!? アンジェリーク様に限ってそんな……!」
「もう、ルナ……」
色めき立ったグレースに、ルナはクックッと笑い、アンジェは化粧の手を止めて呆れて大きなため息をついた。その後ろからリリアンはちらりと顔を出してルナの顔を伺い、笑いながらナッツに手を伸ばしている少女剣士を見ると、小さく鼻を鳴らしながらひょいと元に戻る。
「全く……ルナ様、どこまで本当なんですか。いっつも適当言ってからかうんだから」
「おうおう、私は可愛いグレースに嘘をついたことなど一度もないぞ」
「嘘! この前だって、男の人はのっぴきならない理由で朝すぐに布団から出られない時があるとか、わけわからないこと仰ってたじゃないですか!」
「ははは、そうだったかな」
「そうですよ! からかわないでください!」
「ルナ貴女、どんな状況でそれをグレースさんに教えるに至ったの……?」
リボンをまた一つ穴に通しながら、リリアンはそっとアンジェの背中に触れる。
「アンジェリーク様、どこまで本当なんですか!?」
「……わたくしが全部本当、と言ったら、グレースさんは信じて下さるかしら?」
「えっ……?」
グレースが息を呑む。リリアンの手も一瞬止まる。
「えっ……? ほんとに……?」
「とりあえず、浮気ではないとは言わせていただきますけれど……」
アンジェがにこりと微笑むのに合わせて、ポニーテールに結んだ髪がアンジェの背中でふわりと動く。リリアンはその気配を感じて赤い巻き毛をじっと見上げる。
「その物語では、わたくしは王国に仇なす悪役令嬢なんですのよ。アシュフォード先生はそのお仲間ですの」
「ええーっ、何ですかそれえ!? 悪役!? アンジェリーク様が悪役とかありえないですよ! ルナ様なら分かりますけど!」
「おいグレース、聞き捨てならんぞ」
「だってルナ様めちゃくちゃ悪い子じゃないですか! お行儀悪いし口も悪いし!」
「このガキいい気になりやがって、こうしてやるっ」
「きゃーやめてえ! あははははくすぐったいやめてください!」
「ルナ、およしなさいってば」
「ははは愛い奴め、こうしてやるこうしてやるっ」
グレースの笑い声が小部屋いっぱいに響き渡った。リリアンは口の端を引き上げ目を細めながら、リボンのたるみを引っ張って締めていく。
「……まあ、お前が信じようと信じまいと、私とアンジェはその物語の展開が実現するのを恐れて、至極真剣に対策を練ってるのさ」
「お二人とも、あまり他の人には仰らないでくださいましね」
「えっ……ほんとに、ほんとなんですか……?」
「さあ、どうかしらね、ルナ」
「そうだな、どうだろうな、アンジェ」
「結局からかってるんですかぁ?」
アンジェのコルセットの通し穴に全てリボンが通った。リリアンはまじまじとその様子を眺め、リボンを上から下までなぞり、ハチミツを味わうようにゆっくりと瞳を閉じる。
「実際のとこ、シナリオ通りに事が進んでるとは限らないだろう。もしそうならとっくにお前にお声がかかってないとおかしいと思うが、何か心当たりはあったか?」
「いいえ、全く……」
「あれだ、また見えない力だかなんだかで、お前の誕生日の時みたいにいろいろすげ変わってるかもしれないよな」
「それはわたくしもあるかもしれないと思いましたわ」
リリアンはフンと気合いを入れると、リボンを引っ張ってコルセットをぎゅうぎゅうと締め上げた。アンジェはコンパクトをテーブルに置くと、両手を腰に当てて踏ん張る。
「それに、アシュフォード先生の動機も見当がつきませんの。もともとあちらでも、さほど詳しく描かれていたわけではありませんでしたし……」
「動機。動機なあ」
アンジェの腰はきりきりと引き締まる。
「……ま、ちょっと怪しい発言したくらいじゃ、そこまで分からんよな」
「そうですわね……」
リリアンの手が、紫色のリボンを綺麗なリボン結びに結び上げる。
「もしお前以外の誰かが加担してるかもしれないなら、メガネ先生よりそっちを炙り出した方が早いかもしれんぞ」
「ええ、そちらの方面でも善処いたしますわ」
引っ張る力が途切れたのを感じ、アンジェが身体の力を抜いて腰から手を下ろした。リリアンは完成された美しい曲線を至近距離でじっと眺める。指先がひとつ、ふたつ、リボンのたわみを直すふりをしてアンジェに触れる。リリアンは紫の瞳を細め、結んだばかりのリボンを手に取ると、自分の瞳と同じ色のその端にそっと口づける。
「リリィちゃん、結び終わりまして?」
人知れず、少女の頬がばら色に染まる。
「はい、お待たせしました」
「ありがとう、お手間をおかけしてしまいましたわね」
「いいんです」
アンジェが振り向くと、リリアンの顔はもういつもの通りに戻りニコニコと微笑んでいた。アンジェも微笑んでリリアンの頭を軽く撫でてから、ふわふわした頬をそっと撫でる。リリアンはくすぐったそうに目を細めてアンジェの手に触れ、二人はクスクス笑い合った。
「……ルナ様? どうかしました?」
「ん? ああ、何でもない」
小部屋から部室側の様子──ではなく、ガラス板に映り込んだリリアンとアンジェの姿を見ていたルナは、グレースの呼びかけにクックッと笑い声をあげたのだった。